カテゴリー「信念理念」の記事

2012年6月18日 (月)

おかしくないか 危険運転致死傷罪の適用見送り

亀岡市の集団登校事故で無免許運転で3人を死亡させた少年(18)への危険運転致死傷罪の適用が見送られた。

その理由として
①直接の事故原因は居眠り
②一定程度の運転技術があった
と報道されている。

国民感情として納得ができるだろうか?
これでは無免許運転を助長させるような一面がでてきてしまう。
具体的な例をあげると次のような事態が生じる。
同じような状況で別々の人間が無免許運転で事故を起こしたとする。
一人は無免許運転の前歴が2~3回であったので運転技術が未熟であるため重罪<危険運転致死罪>となった。
もう一人も、無免許運転だったが1年程繰り返して無免許運転を繰り返していたため運転技術があるとみなされて軽罪<自動車運転過失致死傷>になった...。

これでは、明らかに悪意を持って悪質な法律違反を繰り返している犯罪常習者のほうが刑が軽くなるという法律運用が認められることになってしまう。
こんな法律判断が、一般庶民の国民感情として、許されるわけがない。

森を見て、木を見ず。

国家の正義を預かる使命がある法律家は、本当のプロであってほしい。

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2012年5月29日 (火)

いま再び心に刻みたい言葉 「汝自身の原野に挑め」

人は、誰でも未踏の原野を持っている。
それも、どこか遠い彼方ではなく、ごく身近にあるものだ。
苦手だからと、つい避けてきた課題。
先入観から「どうせだめだ」と諦めてきたり、
「いつかやろう」と思いながら、
いつも後回しにして手つかずだった問題・・・・・・。

最も手強い壁は、実は心の中にある。
ゆえに、勇気を持って自分と向き合い、
「自己拡大の戦い」
「人間革命の戦い」を起こすことだ!

「汝自身の原野」に雄々しく挑め!
その人こそ、最も勇敢なる開拓者である。

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2011年6月21日 (火)

迷走する国会 進まぬ震災復興 -再生可能エネルギー法案への固執に疑問-

今国会の会期末が明日に迫ってきた。
現時点で国会の延長日数すら合意されていない状況である。
停滞の根源は菅直人にある。言わずと知れた時の総理大臣である。
菅氏は「再生可能エネルギー電気調達特別措置法案の成立」までは自分の内閣で成立させると意気込んでいるという。つい最近までは第2次補正予算案と特例公債法案が成立すれば退陣と思われたが、この2案の成立は大丈夫と見込んで欲が出てきたのだろうか。

ここで多くの国民は「だったら早く再生可能エネルギー電気調達特別措置法案を成立させて辞めてもらえばいいではないか」「7月中旬の退陣予定が1ケ月ほど延びるだけでしょ」と思っているかもしれない。
この認識には大きな落とし穴が少なくとも2つある。

ひとつは、再生可能エネルギー電気調達特別措置法案の主要目的のひとつが再生可能エネルギーの全量買い取りの義務化にあることである。
「脱原発」という流れから見れば「それでいいんじゃない?」という声が聞こえてきそうだが、問題はその買い取りを行うための原資である。現在各家庭等の太陽光発電での買い取り価格は各電力会社が各家庭に配電する際の価格を元に算出されているわけではなく国策として高い単価が設定されている。
現時点(平成23年度)で住宅用(10kW未満)で1キロワット当たり42円等と定められている買い取り価格。その原資は一般消費者の電気使用料金に上乗せして確保されている。同じ方式で全量買い取りの義務化を実施すれば各家庭や法人等の事業者の負担は多大になることは明白である。
震災後の状況に加えて震災前からの長引く不況状況下での経済活動を直撃するのは必至であり、復興のための消費税増税も決まるとすれば、国民と日本企業の負担は膨大な数字となる。
仮に再生可能エネルギーの全量買いを実行するとしても、その制度設計は慎重に、精緻を尽くして行われるべきである。脱原発、地球温暖化を抑制することも含めたCox排出の抑制、電気使用総量のあり方など様々な影響分野での結果を予測しながら、何らかの新たなスキームが検討されなければならない。
重要でかつ実行に値する法案であることには間違いがないと私は感じているが、それと同時に、遅速に行われるべきではないと断じておきたい。

もうひとつの視点は「辞めると宣言した人の言い分は何でも通るのか」という道義的問題である。
毎日新聞にこんな記事が載っていた。

経団連の米倉弘昌会長は20日の会見で、退陣表明しながら時期を明確にしない菅首相の姿勢について「自分が言ったことをちゃんと実行しないと、若い人たちの教育上も具合が悪い」と述べた。

他のメディアでも同様の報道が続いており枚挙にいとまがない。
与党である民主党執行部一人ひとりからテレビメディア報道のカメラの前で堂々と「辞めてほしい」と言われた総理大臣も貴重な存在だ。歴代の総理大臣でも似たような状況が皆無ではないが、皆が国益のために辞める決断をしてきた。
しかし菅直人という人間は、どうも違う感覚を持ち合わせた異質の人間のようである。

さらに敢えて踏み込んで言わせていただくと、再生可能エネルギーの全量買い取りの義務化よりもやるべきことがいくらでもあるではないか。被災された方々の復興支援の道筋もままならない状況下にあって再生エネルギーが最重要課題だと言わんがばかりの議論は不遜だと断じたい。
日本国の政治は総理大臣のクラブ活動ではないのだ。

※一応補足しておくと私は再生エネルギー利用を促進することに反対しているのではない。
私の事務所では創業時から15年間再生可能エネルギーに取り組んできており今も積極的にその事業を推進している。
【新エネルギー普及事業】新しいエネルギーへの転換を図る

国家であれ地域であれ、個々の企業や家族いずこにあっても、最も重要な要因は人である。
今のような程度の総理大臣を頂かないといけなかった日本国にあって、その責任の一端は私たち一人一人にもあることは紛れもない事実である。そのことを深く自覚し、まずはこれからできてしまう傷口をできる限り小さく抑えて次のステップに進まなければならない。どうしようもないとあきらめを感じた瞬間から、悪は際限なく蔓延るのだ。菅直人の居座りはその典型である。
私達はいま一番苦しんでいる人のためにできることを着実に実行しよう。
その先にやっと次の展望が開けてくるのだと信じて。

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2011年3月25日 (金)

自身の可能性を信じてもっと智恵を絞れ

政府は25日の電力需給緊急対策本部の会議で、経済活動や国民生活の大幅な見直しも含む節電を呼び掛ける方針を決めたと報じられている。

会議での発言をメディア報道から引用すると...
官房長官の枝野氏は「産業部門の事業活動のあり方や国民の生活様式にまで踏み込んだ抜本的な対策が必要だ」と述べたとされ、与謝野経済財政大臣は「大事なのは生産拠点に連続して電力を供給することだ。そのためには一般家庭などの節電をお願いする。もう一段の節電には、電気料金の体系を変えるべきではないか」と語り、一般家庭の電気料金引き上げを提案したとされている。(2011年3月25日11時10分  読売新聞より)

間違っていると断じることではないが、呼びかけるだけでなんとかなるのだろうか。電気料金をあげれば使用量が少なくなるだろうというのは、実に貧弱な発想と言わざるを得ない。勧善懲悪的、旧態依然とした旧タイプの経済理論であって、いまどき、大学の授業でもこんな稚拙な手法は教えていないのではないだろうか。
※余談だが与謝野氏の経済的考えはどうもこうした傾向があるように思えて、一抹の不安を感じている。
政府のリーダー達はそんなことで需要と供給のバランスが保たれると本気で思っているのだろうか。
おそらく何のアイデアもないままに集まってきて、ああでもない、こうでもないと井戸端会議でもしているのだろうか。
民主党政権の発想と行動は、所詮この程度だ。

発電した電力は保管しておくことができない。
その反面、需要が少ない時でもある程度発電し続けなければ操業開始停止に伴うロスも発生してしまう。
今回の「計画停電」実施の目的は、ピーク時の電気使用量が発電総量を超えてしまうことによる対策である。
この「計画停電」という手法だけが、ピーク時の唯一の対策ではないはずだ。
たとえば、ピーク時(山)の電気使用量を均して余裕のある時間帯(谷間)に使用することを考えることも必要だ。業務改善、経営改善でいえば「平準化」という考え方であり、極めて基本的な改善手法である。

政府のリーダー達には、こうした改善手法のイロハを今一度勉強し直して、即座に実践することを強く求めたい。
菅直人氏は原子力に詳しいと豪語しているそうであるが、そんなことはどうだっていい。
首相として国家のトップリーダーとして、今何をすべきか、よくよく考えて行動するべきである。

そうすれば、具体的な、様々な「平準化」の方策が出てくるだろう。
一例を挙げれば、製造工場系の事業所には昼間の操業を控えていただき夜間操業中心で経営計画を立て直してもらうということがあるだろう。もちろん既に3交代勤務の大企業も多くあるが、中小零細の事業所にも奨励していければ大きな電力消費のシフトが見込めるのではないか。その対応をとっていただく見返りとして夜間深夜電力の割引率を割り増すことも考えてよいだろう。
一般家庭への電気料金引き上げという与謝野氏の発言とは180度真反対の案であるが、どちらが実施効果が望めるのか一目瞭然ではないだろうか。

その他にも平準化の方策はいくつでもある。
また改善手法には、平準化以外にもいくつも手法がある。
手法の一つである「標準化」の考えを応用すれば、省エネ型の電力使用の具体例を例示することや効率的消費を促す機器的システムモジュールの追加投入等も有効的なアイデアとして出てくるだろう。

また、発電所に頼らない太陽光発電や小水力発電、エコ住宅の一層の推進のために平成23年度の助成金を倍増するなどの方策もよいかもしれない。
エネルギーのシフトは改善手法的にいえば「代替」の考え方である。
真摯に智恵を絞れば、それ以外にも、いくらでも効果的な具体策が出てくるのだ。

無能というと語弊があるが、自分自身が持てる無限の可能性を信じて、出来うる限りの智恵を発揮してこの難局を乗り切ってみせるとの決意がない人間は、リーダーの立場を他の人間に譲らなければならない。
本来、無能な人は一人として、いない。
それは、人にはどんな苦難をも乗り越えることができる無限の可能性を、誰人でも一人ももれなく、秘めていると信じるからだ。
しかし、悲しいかな、自身の可能性を信じて行動する気持ちがない人間が存在することも事実である。苦しい思いはしたくないと、限界まで挑戦したくないという人間もいる。
それは信念哲学の不在という、現代社会の世相そのものなのかもしれない。
しかし、リーダーになるべき者はその可能性を信じ抜き、率先垂範で現実の難局を解決する使命がある。

今、その実践と成功が、切に求められている。

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2010年9月29日 (水)

優劣に頼らず 対話の糸口を見出せ

尖閣諸島での中国漁船衝突事件に関連して海上保安庁は集中審議を行なう予算委員会への撮影ビデオを提出する方針を固めたことが報道されている。
外交交渉の劣勢を挽回するためには物証を提示して国際世論に訴えることが必要だという判断ではないかと思われる。
よりよい問題解決のためには関係する全ての人達が智恵を発揮し、こうした行動は着実に行なわれるべきだ。

しかし、より大切なのは個々の具体策と共に、人としての理解を進めることではないかと思う。どんなに事実が明白だと思われる出来事であっても、立場が違えば、人は思いも寄らない角度と切り口で自己の主張を展開する。今回のビデオが公開されても「不正に編集された捏造映像だ」くらいのことは即日表明することもあるかなと思う。
多くの人が自己中心的で欺瞞に満ちた主張だと思われるような邪論であっても、本人にしてみれば完璧な理論武装で本気そのもの、ということが多々あるものだ。
今の中国がそうだと言っているわけではないが、今回の日本と中国の対立構図を見ていると現実生活のどこでも起こっているトラブルと全く同質だと思えて仕方がない。

その解決方法は何か。
相手の非を指摘して自身の立場を優位に展開することではなく、相手の置かれた苦しい状況をよくよく理解して対話の糸口を見出すために自らが一歩歩み寄ることではないだろうか。
他人の事例を目の当たりにすると、物事の本質が多少なりともわかるもの。
自身の身の回りで起こっている事案では、理論ではわかっていてもなかなかそのようには行動できない。
実に凡夫という言葉が身につまされる昨今である。

【関連記事】
「悪質な中国漁船」示す狙い…衝突ビデオ提出へ
中国漁船衝突で政府、国会要求あればビデオ提出

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2010年9月25日 (土)

これでよいのか 尖閣諸島沖衝突事件拘留中の船長を釈放

那覇地方検察庁は25日未明、公務執行妨害の疑いで逮捕していた中国人船長41歳を処分保留のまま釈放し、中国人船長はそのままチャーター機で日本を離れた。

事件の事実解明が終了していない現時点での対応として、果たしてこれでよいのか。事件発生後の中国政府の対応には大きな疑問が残る。事実関係が判然としない時点での日本への非難声明の発表、観光客の自粛、事実ではないとのコメントもあるがレアアースの輸出停止や、日本経済に打撃を与える意図での円高誘導のための円買い、中国の日系企業への徴税強化の示唆。日本企業社員のスパイ容疑での逮捕拘束に至っては、これが船長逮捕の報復であるとすれば国家的犯罪行為の危惧さえ感じられてしまう。
明らかに中国という巨大国家による強権発動の様子を呈してきていた。

大切なのは事実を正確に掌握して、法律に則って粛々と対処することである。
そのための拘留である。
そのうえで中国人船長が「無罪釈放」ということだってあるわけだ。
それを冷静に待つ姿勢が法治国家としての中国に求められていたはずだ。
日本国政府においては、中国国民の国民感情もわかりつつも、法治国家として毅然と対応しなければならなかった。
国際摩擦を懸念するのであれば逮捕拘留せずに遺憾表明をすればいい。
いったん逮捕拘留したのであれば法律に則って首尾一貫した姿勢を貫くしかない。

大国の恫喝を浴びて態度を豹変させた(かのように殆どの人達に感じさせてしまった)今回の日本の対応は、現在の日本国政府が国際社会においても悪しき病根になり始めているという一端ではないかと危惧するのは、私だけではないはずだ。

今の政治家と政権を選択した日本国民は、政治家としての信念を今一度、問わなければならないと私は強く感じている。
皆さんは今回の事態をどのように感じられたであろうか。

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2010年3月12日 (金)

多くの意見を聞くから「ゆらぐ」? 鳩山氏の詭弁どこまで行くのか

「物質の本質は『揺らぎ』。多くの意見を聞いて大事にする過程で、揺らぎの中で本質を見極めていくのが宇宙の真理ではないか」。

毎日新聞の報道によると鳩山首相はこう記者達に説明したという。
以前に行なった発言の真意を問われた回答である。
1997年の民主党大会での「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質」との発言である。回答に際して「まったく人の意見を聞かなければ揺らがないのかもしれないが」とも発言したという。
「ゆらぎ」そのものについてはその解釈でいいかもしれない(「揺らぎ」を「弱い部分」とは、本当にわかっているのかな?と思うが^^;)が、鳩山氏自身の姿勢は「ゆらぎ」であるとでも言いたいのだろうか。
そうだとしたら、それは詭弁にすぎない、と断じたい。

一国の総理たる鳩山氏は、いったい何を言っているのだろうか。
理系の研究者出身という経歴が、科学用語を使っていい気になっているのかもしれない。
鳩山氏の言動を「ゆらぎ」だと思っている人がどれだけいるのか?
国民の多くは、鳩山氏が「ぶれる」から信頼できないのである。

「ゆらぎ」と「ぶれる」ことは、全く違うものだ。

物理学において使われる「ゆらぎ」の定義は、「広がりまたは強度を持つ量(エネルギー・密度・電圧など)の空間的または時間的な平均値からの変動を指す」ものである。熱力学においては「熱平衡状態からのずれ、もしくは熱平衡にほど遠い系の状態」を指し、対象は違うが同様の主旨として位置づけることができるだろう。

一般生活で「ゆらぎ」という言葉を正確に使う場合はどうなるだろうか?
「ゆらぎ」は、対象とするものの「空間的、時間的な平均値」が存在するところからスタートする。その平均値からどのくらいの広がり、幅を有しているかが「ゆらぎ」であるといえるだろう。
つまり、平均値、いいかえれば「軸」と言うべきものがなければ、「ゆらぎ」という概念自体が存在しないのではないだろうか。
それが単なる「ぶれ」と「ゆらぎ」の根本的で大きな違いではないかと私は感じるのである。

これを鳩山氏の政治姿勢と比較して論じると、どうなるか。
発言が「ゆらいで」いるのか「ぶれ」ているのか?
ポイントは鳩山氏の言動に「軸」があるかどうかではないか。
「軸」とは政治の言葉に言い換えれば、政治哲学であり、政治家としての信条であろう。
鳩山氏の言動には、それが感じられない。もしくは、存在しない。
だから、他の人(特に政治的影響力のある人物=与党幹事長とか)から、何か言われるたびに、右に、左に、「ぶれる」のだ。
けっして「ゆらいでいる」のではない。
この状態を、国民は不安で、不安でしかたがないのである。

こんな、自身の哲学信念の不在を「ゆらぎ」という言葉で詭弁するなと言いたい。

では、強い哲学信念を持って行動していれば、それでいいのだろうか?
一例を挙げれば、民主党幹事長の小沢氏。
豪腕とも言われるほどの強いリーダーシップを発揮し続けている。
彼の言動が日本、世界の民衆の利益に利しているかどうか。
多くの民衆は、これまた不安に苛まれているに違いないと思うのである。
それはどうしてなのか?
強い政治哲学、信念を持っているにもかかわらず...。
それは、その哲学信念が間違っているからに他ならないだろう。

■現代のロベスピエールを野放しにするなかれ

最近、フランス革命をテーマにした小説等を思い返すことが多くなっている。
民衆の圧倒的な支持を受けて誕生した民主政府(第三共和制)。
「自由・平等・同胞愛」の理念は歴史的にも有名である。
しかし、そこで繰り広げられたのは、ロベスピエールによる「恐怖政治」だった。
党内で小沢一郎氏の批判すらできない民主党、小沢氏の一声で陳情がつぶされる一方でマニフェストに反して実現してしまう現実は、「現代のロベスピエール」の到来でなければと、危惧されてしかたがない。
今の日本が向かう先が、ギロチンによる粛清によって自己崩壊したフランス革命の顛末と同じにならないようにしなければと、祈り願う毎日である。

【関連リンク】
鳩山首相:「揺らぎは宇宙の真理」 発言ぶれ批判に強調(毎日新聞)
揺らぎが機能を決める生命分子の科学
ゆらぎ(ウィキペディア)
フランス革命(ウィキペディア)
マクシミリアン・ロベスピエール(ウィキペディア)

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2009年9月 3日 (木)

敗因のみをコメントする批評家になるな 自分の立場で何ができるかを考え、行動を開始しよう

大きな活動のあと、やりきったにも拘らず、思ったような結果が出ないことがある。
今まで取り組んだことのなかったプロジェクトの推進や、多くの人々の人的要因(定性要因)が複雑に絡み合う、今回の衆議院議員選挙などはその典型だろう。大勝利した民主党支持者の喜びの一方で、自民党や公明党を支援した方々のなかには「こんなに頑張ったのに、どうしてこんな結果になったのよ」「これからどうすればいいのか」と思う人も、少なからずおられるかもしれない。

敗因を数え始めたら、いくつも、列挙することができる。
社会科学の分野に属するようなテーマ、選挙結果はまさにそうした社会科学の分野であるが、世論の動向や投票行動を決定した要因、メディア戦略とその効果、メディア報道の影響、人的要因と集団としての政党選択の関連性など、数値化自体はさほど困難ではないが、数値化する要素をいかに設定するか、バイアスをどう換算するかなど、実際の作業は実にアナログ的で、現実を反映したデータの提示は、ことのほか困難である。
また一度出された結果がその時点では事実を反映しているとしても、測定時点が数時間違っただけでも結果が大きく変化することも常識的であり、発表後にその発表内容によって大きく世論等が変化するということも常々起きている。

ただ、敗北という結果は、何らかの要因の反映であることだけは、間違いない。
その意味で正確に総括することが重要である。
そうした状況であることを確認した上で、一言だけ言っておきたい。

敗因のみを、あれこれコメントするのは控えたいと思う。

負けると一緒に活動していた人達であっても、そのなかから必ず批評家が現れる。
敗因を自分から一歩二歩離れた視点で論じることで、自分自身の存在を顕示し正当化しようという人間生命の傾向性とも言えるだろう。
敗因を論じるならば、その要因に対して自分は何ができるのか?という発想を常に忘れないようにしたいと、私は思う。
逆説的に言えば「自分の立場で、勝利のためにできることは何だったのか?」「これから自分にできることは何か?」という視点で敗因を分析し、論じ、行動することが大切ではないだろうか。

物事の結果には必ず原因がある。
その結果には、必ず、何かしらの意味がある。
意味があるのだという歴史になるように、敗北をも次の勝利に活かし切っていく。

常に前進する心で歩んでいけば、私たちの限られた人生も限りない広がりをみせるに違いない。
大いに語り、大いなる前進を始めよう。

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2009年6月19日 (金)

信仰は生活と隔絶してよいのか 聖職者は裁判員辞退をとの見解に疑問

カトリック中央協議会は今月18日、国内の日本人聖職者らが裁判員に選ばれた場合は「原則として辞退するよう勧める」とする公式見解を発表した。
勘違いのないように指摘しておくと、同会は裁判員制度そのものの是非を問うているのではない。同会の聖職者に対して「裁判員に選ばれたら辞退しなさい」と勧めているのだ。なお一般信者については個々人の判断に委ねるとしている。

同会に所属するとされる国内の信者は約45万人、そのうち聖職者らは約7000人だという。
公式見解の判断基準は、全世界のカトリック教会に適用される「教会法」で聖職者は国家権力の行使にかかわる公職に就くことを禁止していることを挙げており、裁判員の職務がこの規定に抵触すると判断したとのことだ。

こうした規程があるということらしいので、それはそれでその決め事を守るというのであればあれこれコメントすることではない。
ただ、そもそも宗教、信仰に関わる者が国家権力の行使に関わるなという思想は、いかがなものだろうか。

現代を生きる私達は、多かれ少なかれ、何らかの社会に属して、その恩恵を受けたり、構成員としての役割を果たしている。
そもそも宗教とは「宗(もと)となる考え、法則」を現わす基本的思想を指す。日本人は無宗教を標榜する人が多いが地球規模で見渡せば大半の人民は何らかの宗教信仰を根本に人生を送っている。

そうした宗教信仰を持つことがグローバルスタンダードである地球市民が存在する現状を無視するかのような「国家権力に関わる公職に就くな」とされる宗教指導者、聖職者の存在に、どのような意味があるのだろうか。
教会法のその条文の成立には、歴史的な背景があるには違いない。
しかし正直な印象として、今回の公式見解を含めてこれらの考え方は「自分達が取り込まれてしまいそうな大きな権力には関わるな」という消極的、閉鎖的、ネガティブな生き方、人間性の可能性の矮小、否定的な断定を感じてしまう。

しかし、そんな巨大な魔性の巣窟のような国家権力であっても、突き詰めれば私達一人一人の生活の集大成としての組織に過ぎない。
国家社会とは、社会的共同体とは、個人の生活、家族の生活、村落共同体の延長線上に存在しているのは紛れもない事実だと私は考えている。
そうであれば、一人の人間の生き方の根本に大きく影響する信仰に関わる者が、社会的役割を限定的にするというのは、明らかな自己矛盾ではないかと思うのである。

宗教とは、現実の生活を改善して、人生、そして全世界の未来に対して関係を持ち続けるものであると、私は思う。
それとも信仰は、国家のような巨大な組織に対しては、純粋な信仰心を保ち続け、信仰実践の結果をあらわすことが困難だというのだろうか。
国家がダメというのであれば、地方自治体でもダメなのか。
地域の町会はどうなのだろうか。
公的な財団法人の職責はどうなのか。
小中学校のPTA役員は?...
それが同じような職責を果たしていても、組織がNPOだったり一般企業だったりすればOKだということだろうか...。
その線引きは曖昧で、区別したとしても現実的には何の意味もないような事態も考えられはしないか。

そもそも、規模の大小、権力的影響力等が大きいか小さいかという点で判断が分かれるような判断基準が正しいとは、必ずしも言えないと私は感じている。

真の宗教、信仰とは何か。
信仰を実践する者としての社会、国家との関わりのあり方を、もう一歩踏み込んで、いま一度真剣に考えてみる必要があると私は思うが、皆さんはどのように感じるだろうか。

【関連記事】「聖職者は裁判員辞退を」カトリック中央協議会が公式見解  YOMIURI ONLINE(読売新聞).
【関連リンク】カトリック中央協議会

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2009年5月 7日 (木)

直感的に感じる違和感 「日本はもう立ち直れない」 だから「海外で働こう」に賛否両論

5月4日付J-CASTニュースに、こんなタイトルの記事が出ている。

「日本はもう立ち直れない」 だから「海外で働こう」に賛否両論

記事の中で紹介しているのは「米シリコンバレーでコンサルタント会社を経営する渡辺千賀さん」のブログだ。
[渡辺千賀]テクノロジー・ベンチャー・シリコンバレーの暮らし 4/27付「海外で勉強して働こう」

実際のブログも読んでみた。J-CASTニュースで取り上げている内容はほぼ網羅していてて正確だ。渡辺さんの考えは至ってシンプルで、

1)日本はもう立ち直れないと思う。
だから、
2)海外で勉強してそのまま海外で働く道を真剣に考えてみて欲しい。

ということだ。
「これまでは、1)は言わずに、2)だけ言ってきた。」のであって、従来からの考えのようである。
J-CASTニュースでは「刺激的」な内容なので賛否両論が相次いでいると紹介している。
正直な感想として、渡辺さんの主張は従来からある考え(日本悲観論はアメリカ陰謀説と同じくらい主張する人が多く、私の回りの企業経営者には「40歳まで働いて余生は海外で新しいビジネスを起こして暮らす」「自身の能力を120%試すなら海外しかない」という人達が何人も^^;)なので、さほど刺激的だとは思わないが(^_^;)、紹介されている賛成、反対それぞれの意見も含めて、私の考えと根本的にずれている点だけ述べておきたい。

日本の将来に希望が持てないから、日本以外で自分の可能性を試してみよう、という。
では世界のどこの国でも希望がなくなったら、その土地を離れるというのだろうか。
それでは、どこまで行っても、回りの環境や条件に依存した人生から脱却することはできない。
どんな状況であれ、自らが持っている可能性を発揮して、自分を取り巻く環境さえも変えていく能力がなくして、何ができると言うのだろうか。

逆境は、自らの能力を最大限に試すことができる、絶好のチャンスである。
好条件なら、多少の能力がある人なら、殆どの人が成功を収めることができるだろう。
そんな中で成功を収めたからといって、何の喜びがあるのだろうか。
それに加えて言うならば、何のために「成功」したいのか。
自己満足の域を出ることができるとは、少なくとも私には思えない。

「海外で学び、成功を収めよう」というのは、一見、困難な道を選んでいるように見える。
果敢に人生を切り拓くようなチャレンジ精神あふれるイメージも、ある。
しかし、「日本はもう立ち直れないから海外で勉強して、そのまま働こう」というのはチャレンジというよりは「利己的」「切捨て」「海外脱出」、さらに言えば「忘恩」のニュアンスを感じる。
海外で悪戦苦闘しながら自らの道を切り拓いてきた人達、またこれから海外で頑張ってみようという人達に対しても、礼を欠いていると私は感じる。
渡辺さんは「自分自身もそんなチャレンジャーの一人だ」という意識があるのかもしれないが、だからといってその行動の源泉を「日本は立ち直れない」という自分自身の見解に関連させて、回りの人達に言って聞かせる必要など、全くないと思う。
本当の意味で苦しい、けれども人として目指す道はどちらなのか。
本当に価値ある選択を私達はしなければならない。

自分達を産み、育ててくれた父母や隣人、地域に感謝し、報恩を貫く生き方。
たとえ現状がどんなに見通しが暗く、希望を持てなくなりそうでも、である。
自分が「今いる場所」で「目下の課題」に必死で取り組むことが最も尊い人生だと、私は思う。
そこから出てくる仕事への取組みは、必然的に渡辺さんの考えとは180度対極に位置せざるを得ない。

これが私の考えである。
様々な人達の意見は、日頃の自分自身の生き方や発言にブレがないか、判断する絶好の教材であり、リトマス試験紙である。自分自身の人生の方向がどちらに向いているのかを見直す絶好の機会としてほしい。
各人の判断にあって、海外の道を選ぶこともあっていいと思う。
それは個人の自由意志だ。
ただし、どこへ行っても人生を決めるのは自分自身であって、環境ではないということだけは忘れないでほしいと思う。

昔から言われていたこと。 「隣りの芝生は青い」。

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