カテゴリー「信念理念」の記事

貫くべき信義と捨て去るべき利権を見極めよ

日本水泳界が迷走している。
公式契約している3社と、契約したことのないスピード社の水着のいずれを選択するのか。

そもそも日本水泳連盟と水着メーカー3社との契約というのが、どれほどの意味を持つものなのか、大いなる疑問だ。
水泳連盟が推奨する水着というのはあってもいいと思うが、日本水泳連盟と「契約」しているオフィシャルサプライヤーの水着以外は着ることができないという論理は、一般市民の感覚では「利権」としか理解できない。
いいものはいい、技術革新は常にあるものだ。各自の判断で「これが良い」と思ったものは自由に着ることができるのは当たり前ではないか。
オフィシャルサプライヤーに指名することで、無償提供を義務づけてきた過去もあるのかもしれない。しかしそうした言い分は大義名分であって単なる囲い込みでしかないことは多くの庶民から見ても明白な事実だ。

何のための契約なのか。
一番最優先に考えるべきは、実際に競技をたたかう選手自身のことではないのか。
契約している国内メーカー3社は恥ずかしいとは思わないのか。
恥ずかしくないというのであれば、自らそうした制度の撤廃を3社共同で申し入れたうえで、多くの競合他社の中で勝ち残ってもらいたい。

【関連リンク】
英・スピード社製水着対策 契約3社「改良を」
「着なければ勝負にならない」スピード水着 日本新5連発の爆発力

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後期高齢者医療制度 落ち着く先はどこか

後期高齢者医療制度の先行きが見えない。
厚生労働省は6月4日、国民健康保険から後期高齢者医療制度に移行した後期高齢者(75歳以上)の保険料負担の実態調査結果を公表した。
低所得層ほど負担増 後期高齢者医療制度で実態調査(産経ニュース6/4)
後期高齢者医療の保険料、7割の世帯は負担減…厚労省(読売新聞6/4)
また、報道機関等でも独自の実態調査を行なっている。
後期高齢者医療制度、7割の世帯で負担額軽減(読売新聞5/29)
モデル世帯別保険料増減額

記事のタイトルだけをみると、調査結果が矛盾するような印象を受けるが、よく読んでみるとどちらも実態を把握していることがわかる。
調査結果の数字に食い違いがあるのは調査誤差ではないだろう。大きな要因として考えられるのは、各自治体毎の独自の軽減措置である。
東京23区などの大都市や地方の中核都市は、国保保険料の算定基準に資産制(資産がある住民は保険料が増える制度)がなく、独自の減免措置を講じている自治体が多いため、保険料が地方の市区町村に比べて低く抑えられてきたからである。

今朝の番組をざっと見渡したが、テレビのメディア報道は明らかに厚生労働省の当初の説明との食い違いを一番大きく取り上げている。社会の矛盾にメスを入れるというメディアの役割から見れば必要なことであるが、テレビで取り上げている住民が取材しやすかったと思われる都市部住民に偏っていたという問題点も直視すべきであろう。

それよりも重要なことは、後期高齢者医療制度をどうするのかという議論だ。
選択肢は大きく二つ提示されている。
(1)制度そのものは施行し、運用面で改善を行なう
(2)制度そのものを廃止する
この二つである。
選択の可能性としては「全く新しい制度を考案して施行する」「現行の健康保険制度を改善して運用する」ということも考えられるが、現実には提示されていない。

上記2選択肢しかない現実を冷静に考えれば、廃止法案という主張は愚を極めていることは明らかだろう。本日、参議院で可決され衆議院に回されるというが、時間の無駄遣いだと言いたい。
後期高齢者医療制度は2年前に制定された新しい制度である。
「屋に屋を重ねる」という批判もあった。今もその指摘は的確だと思うが、現行制度の枠組では多くの国民の理解を得ることができる制度改革ができない、どうしても歪みがでてしまうという判断で、新しい保険制度を上乗せする方式が採用されたのだと思う。
保険料負担の問題は2000年の医療制度改革の時から継続して審議、議論が続いてきた重要課題である。よく指摘されている事実であるが参議院で関連法案を可決した際に共産党を除く各与野党が「早急に新たな高齢者医療制度を創設する」ことを付帯事項として決議している。
その意味では、自民・公明の与党は地道に検討を続けて新しい制度創設をリードしたことは評価されて良いだろう。
たしかに、保険料算定基準など根幹に関わる部分で更なる検討が必要な要素が多々あるのが事実だ。制度を決定してから2年間どれだけの周知徹底、また国民の議論を喚起してきたのか、努力が足りなかったと指摘されるのも当然といえよう。
与党、なかでも公明党が制度施行以降に迅速に各地で国民の声を聞いて、与党プロジェクトとして運用改善を行なっている努力も高く評価できる。が、ならばなぜ1年前にそうしたことをできなかったのかという不満がくすぶっているのも事実である。
いろいろな憤懣ややるせない気持ちが鬱積している人達も少なくない。

では私達は今日から、どういう行動をすべきなのだろうか。
釈然としない気持ちを持ちながらも、着地点を探っていかなければならない。
それが前進ということだろう。
今回の制度で、従来の保険制度で抱えていた問題点が相当改善されているのも事実である。そうしたひとつひとつを評価しブラッシュアップしながら、新たにクローズアップされている問題点、施行に伴う不具合点を丁寧に洗い出し、改善していくしかないだろう。
マスメディアも、感情的な報道はもうそろそろ終わりにして、新制度の評価すべき点、改善すべき点を大きなテロップボードを使うとか一覧表にして、もっと本質を突く議論の喚起を行なってほしいと痛切に願っている。

いま読んでいる本に吉川英治作『三国志』がある。
(『三国志』は今月の桂冠塾のテーマでもある)
劉備玄徳、曹操、孫堅らがそれぞれの理想をかかげて、自らの国家として成し挙げていく壮大なドラマであるが、曹操、孫堅の2名と劉備玄徳がそもそも大きく違う点がある。それは劉備が貧しい庶民として育ち、回りからも低い身分の出であるという差別を受け続けることである。
義憤に燃え、民衆を救わんと立ち上がった劉備玄徳、関羽、張飛らは、直面する悪である黄巾賊と戦いを始めるが、劉備らを馬鹿にし、軽んじたのは同じ志を持っているはずの官軍、皇軍の将軍達、権限を持った役職者であった。
官位に胡坐をかき、私利私欲を貪る一方で、官位官職がないというだけで玄徳らを虫けらのように扱う。その姿に、劉備達は同志のなかに潜む師子身中の虫の生命に自身の生命が引きずられそうになるのを、自身の決意を思い返しながら必死に思いとどまるシーンが何度となく繰り返し描かれている。

確かに、人生には納得のいかないことが多々ある。
しかし元々自分達が何を目指しているのかという一点を見失ってしまったら、何のために生きているのかわからなくなってしまう。「こんな奴は許せない」「こんな連中と一緒に戦うなんてできるわけないだろ」という激昂する自らの感情を、改革、前進へのエネルギーに換えていくことが、私達には求められている。
しかし、これがことのほか、難しい。
理解してくれる人が身近に一人でもいれば、まだ頑張ることもできるが、そんな気持ちのときに限って、見当違いの批判を別の人から浴びせかけられたりする。自分が間違っているんじゃないかという不安にも、たびたび襲われる。
こんな心境を表現する「四面楚歌」という言葉も、『三国志』から生まれたひとつである。
自らの行動に誤りはないか。
常に自身を見つめながら、折れそうな心をつなぎとめて、今日も一歩でも前進する一日でありたい。

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後期高齢者医療制度 本質はどこにあるか

後期高齢者医療制度の議論が沸騰している。
マスメディアの論調も様々だが、テレビメディアについては表面的、感情的コメントが大勢を占めているようだ。「感情的」という表現をしたのには、それなりの理由がある。

ここ2週間ほどの間で、私の周辺でも後期高齢者医療制度が頻繁に話題に上がるようになった。少なからずの知人が率直な気持ちや感情を吐露していた。
態度は二分されているというのが私の印象だ。様々な意見を集約すると特徴的な傾向がある。反対をしている人は高齢者本人もしくは高齢者を家族に抱える人達に多く、それよりも若い人は相対的に静観している。この理由は一概には言えないかもしれないが聞いた声から類推すると、現実に直面している人と、現時点で直接的な生活上の影響がない人との違いだろうか。

高齢者で意見を言っている人の殆どは後期高齢者医療制度に反対している。
確かに、多くの75歳以上の高齢者にとって月1万円を超える保険料負担が発生するケースが多発しており、現実に生活が続けられない事態を迎える危険がある。新たな収入増が見込めない年金受給者にとっては死活問題だ。
その一方で、従来の健康保健制度が地方の市町村を中心に破綻状態になりつつあり、早いところでは明年にも破産が発生するのではないかという状況まできている。破綻をしてしまえば多くの住民の医療費は10割負担に戻ってしまう危険がある。後期高齢者とて例外とは言えないだろう。

高齢化すると共に、医療機関にかかる頻度が増していくのは老いの現実である。
高齢者医療制度を考える上で、健康寿命をいかに伸ばしていくか、元気高齢者をいかに増やしていけるのかが最大の解決要素といえるだろう。
そうした試みが充分に行なわれないうちに少子高齢化が進んでしまったという悲劇的な要因も重なっている。

そのうえで、いまの後期高齢者医療制度の議論に私見を述べておきたい。
それは反対を唱えている国民に対してである。
反対をする殆どの人は「従来の制度に戻せ」と言っている。
しかし従来の制度で充分なのであれば、反対されることが容易に予想できた制度を施行するはずもないだろう。前述のように1~数年で破綻する危険性を有している現行制度である。
反対するのであれば、対案を考えなければならない。
「それは政治家がやること」などという戯言はこの際論外だ。皆が主体者としての気持ちを持たなければ何事も解決しない時代になっている。自分自身が主体的に真剣に考えると「今回の制度は暴論だ」という意見はこんなに多くはならないだろうと私は思う。
事実、国会やメディアで派手に制度批判を行なっている民主党でさえ、まともな修正案を出すことができずにいる。「廃止法案」は出せても医療保険制度の改革案が出せないのが現実である。せいぜい民主党内で意見の一致を見たのが年金受給者の口座引落しの停止であると言われている。

施行するうえでの不手際、配慮のなさ、制度決定からの2年間の不作為などは厳しく追及をし、改善するべきだ。年金受給者や低所得者等への制度移行の経過措置や軽減措置は充分に考慮されなければならない。
また不確実な情報の流布は心して戒めるべきだろう。負担が少なくなる高齢者が多いなどという発言は確実な裏付データがない限り、発言すべきではないし、高齢者本人への負担を求める制度である以上、軽減されるというのは正しくないのではないかと私は思っている。
そうした諸々の事態を収拾しながら、国民が一丸となって建設的によりよい解決策を議論し決定していくべき段階に入っている。

もうひとつ、あえて今回の制度に意見を表明していない比較的若い世代の気持ちの奥底にある気持ちを探っておきたい。
それは彼らが事実上の経済的な負担者であるという事実だ。
現行の医療制度で進むならば、その保険料負担の大半は若年者層に集中する。後期高齢者医療制度に賛成も反対も表明していない人の中には、後期高齢者医療制度が廃止されれば自分達にその負担が回ってくることに気づいている人が、少なからずいる。
この点を、制度に反対している高齢者は、早く、正確に、気がつかなければ大変な事態になるかもしれない。

今の若い世代、特に40歳前後から下の年齢者は高齢者福祉の恩恵を受けるのは早くても65歳以上、おそらく70歳を超えなければ制度を利用できない状況になっているだろう。しかも若い時から高齢者を支えるために支払ってきた保険料や年金の総金額に対して、それに見合うだけの老後の保証をうけることは困難であると言われている。金銭面だけを考えれば「損」をする世代なのである。不払いの人達が増えているとは言いつつも、それでもまじめに高齢者を支えるために払い続けている若い者達が大半を占めている。

そんな若い世代からみれば、今の高齢者の言い分はなんなのかという意見がある。
「今の高齢者が若い世代の時に当時の高齢者のためにどれだけの負担をしたというのか」「あなた方が負担した保険料等に匹敵する保証は10年もあれば充分に回収できるではないか」
高齢者には高齢者の主張がある。
しかしその主張によって、その高齢者を支えている人達がどのように影響を受け、リアクションを取るのかということを慎重に考えなければならないと私は思う。

これまで数十年の日本の制度改革は、低所得者層の福祉を厚くすることに重きが置かれてきた。その財源は高所得を得ている人達から確保するというのが定石であった。
しかし、後期高齢者医療制度は全く違う構図を有している。その制度によって恩恵を受けるか負担を多くなるかの分かれ目は、単純に年齢である。これからの政治は、舵取りひとつで世代間の対立構造を生みかねない大きな危険を内包しているのだ。

政治が政治屋によって私腹が肥やされていても成り立っていた時代は既に終わっている。大企業対労働者というマルクス的な貧弱な発想では到底解決など見えない時代だ。
政権交代など、しても、しなくても、根本的な問題とはまったく関係がない。
これからの政治に、そして庶民の生活を成り立たせるためには、利害が対立する人達の中で、いかに解決の方策を見出していくか、その人間としての智慧が求められている。
それは哲学という言葉で表現するのが最も適切だと私は思う。

哲学不在の時代。
それが現在の政治の混乱の元凶である。
庶民一人一人の気持ちが荒んで、凶悪犯罪が多発するのも同根である。
ある方に金美齢(きんびれい)さんが書いていた記事を紹介していただいた。
「老後とは人生の総決算。貧困も孤独死も、自ら選んだ道のりの終着点なのだ」と。
サマセット・モーム作『ロートス・イーター』に登場するトーマス・ウィルソンの生き方と私達の人生と、果たしてどれだけの違いがあるのだろうか。
私自身が、我が事として真摯に取り組んで生きたい。

※サマセット・モーム作『ロートス・イーター』は新潮社『モーム短編集13』に収録(現在は絶版)。
【金美齢さんのコラム(「産経新聞」2008年5月2日付1面)】
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真の勇者の人生を

名古屋在住の友人からうれしい報告が届いた。
1ケ月足らず前に諸般の事情で職を辞していたのだが以前にご縁のあった方から声がかかり新しい職を得ることができたとのこと。給与条件も以前の職場と同等程度の水準に。「ずっといる義理はないからやりたい仕事を考える機会にしてくれ」とも言っていただいたという。職を辞さねばならない状況になった時には暗雲が立ち込めたような気持ちにもなったのではないかと察するが、決してあきらめたりへこんだりすることなく、逆境をバネにして新しい仕事にチャレンジする貴重なチャンスを得ることができたと決意し、祈り、行動した結果であると思う。今後の活躍にエールを送りたい。

その彼が昨夜、大学時代の同期生と焼き鳥屋で飲んだという。私も面識がある共通の友人だ。その同期生が語った半生の来し方を伝えてくれた。
鳥肌が立つような感動を覚えながらその話を聞いた。
親の事情を抱えた彼は、大学卒業後、生まれ故郷の北国に帰郷。寒風吹き荒ぶ自然を相手に労多き仕事に従事。だれも頼る人のいない寒村の地で、思いを同じくする若い2人の後輩を励ましながらわずか2年余りで85名の若き世代の勇士の陣列を築き上げたのだ。2人から始まった陣列の拡大が8名になった頃から、人生の師匠と仰ぐ先生に逐次報告をしながら歓喜の渦をさらに広げていったという。
そんな彼は、家族の状況が変化し大手企業に職を得た。一度の転職の後、現在の企業に勤務し名古屋支社で全社ダントツの営業成績を記録し続けている。

そんな彼が仕事振りを聞かれて、淡々と語っていたらしい。
「自分は何もしていない」
そんなわけはないだろうと次の言葉を待つと、朴訥な語り口の彼は次のように言ったという。
「自分は先方の企業を訪ねて、社長の話を聞くだけ。じっくり話を聞いていると、先方から『今まで他の会社に注文していたがこれからはあなたの会社に頼みたい』と言ってくれるんだ」

波乱万丈の半生だと伝え聞いたことはあった。しかし、本当に生命を賭けて生き抜いてきたのだと感じるものがあった。それが今の彼の日々の生活を生み出しているのだ。そして彼はその生き方に、今いる場所で、変わることなく挑戦し続けている。
真の勇者は多くを語らない。
私もあとに続きたいと静かに決意した。

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長寿医療制度 巣鴨で街頭演説

今月15日から後期高齢者医療制度(長寿医療制度)保険料の給与や年金給付からの徴収(天引き)が始まった。
野党4党は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている巣鴨に繰り出して「姥捨て山よりもひどい制度」と街頭演説を行なった。

しかし本当に姥捨て山よりひどい制度なのか。
そもそも、どうして巣鴨に繰り出して街頭演説を行なわなければならないのか。
ただでさえ生活の先行きに不安のある高齢者にターゲットをあてて不安を煽り立てる権利がどこの誰にあるというのだろう。
こうした手法に、私は大きな憤りを感じた。

制度の是非を議論するのなら、国会でやればいいのだ。
世論を味方につけるにしても、その前後に立法府たる国会で審議することがその本質だ。
高齢者は、既に充分に不安を感じている。
仮に概要演説を行なうとすれば、それはこの制度を我がこととして理解できていない、もっと若い世代に対して行なうべきではないのか。

現在の医療制度の解決すべき最大の課題は何か。
それば持続可能な皆保険制度の続行にこそある。
そのために必要な施策は何か。
少子高齢化の急激な進行のなかで、保険給付と保険料負担の収支をいかに黒字化するのか。
この一点に今後の制度維持の可否がかかっている。

高齢者の立場を擁護して自己主張するのもいいだろう。
今回の制度の問題点を指摘し糾弾することも必要だ。
施行までの不手際、世論形成の不充分さを反省し次善策を講じることはもちろんだ。

大切なことはこれらの行為がどのような思い、理念、目的から発せられているかということだ。
「他のことは知らない、私の生活だけ守りたい」ではこれからの社会は成り立たない。
ましてや仮にも、党利党略で政局に持ち込むことを考えてこの問題を格好の攻撃材料にしているような輩がいたとしたら許してはならない。
人間の一生は後半生に入ると楽をしたくなるものだ。
それは私達のような世代であっても変わらず全世代を通して、同様の生命傾向を有している。
しかし自身の生命の永遠性から見れば、成長し続ける生命状態の一段階でしかない。その点を見誤ると、その人自身にとっても大きな損失になるのではないだろうか。
長寿医療制度の本質は、自身の生命をいかに捉えていくかという生命哲学があってこそ、根本的な解決の方途が見えてくると思えてならない。
皆さんはどのように感じているだろうか。

【関連リンク】
長寿医療制度 野党共闘で猛批判…与党、釈明に躍起
“長寿医療制度”が始まりました(厚生労働省)

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はっけよ~い~!

すがすがしく感じるニュース記事に目が留まった。
現在、大阪府立体育館で行なわれている大相撲春場所での出来事。
昨日の取組で、番付相撲の前に行われる「前相撲」で仕切り線でにらみ合ったまま約20秒間固まってしまっていたというニュースだ。

対戦した新弟子の2人は、福田(15歳・錣山部屋)と吉沢(15歳・春日山部屋)。
記事によると2人はほとんど相撲経験がない初心者。15歳の両者は中学卒業の年を迎えたばかりの少年だろう。
しかもその日の取組の一番最初。緊張は計り知れないものがあったに違いない。

行司も初めての出来事でとまどったと書かれていたが、会場の観客も含めて、新人の若者のぎこちない緊張した姿を温かく見守っていたことだろう。

人生も30年、40年、50年...と重ねてくると一つ一つのことに「緊張」して臨むことが少なくなってくるように感じるのは私だけではないと思う。
中途半端に「こなしてしまう」人生よりも、ぎこちなく緊張して恥ずかしい思いをすることのほうが、ずっとずっと素晴らしい。
そんな初々しさを忘れずに、目下の課題に全力で取り組みたい。

【記事】 はっけよ~い、止まった??(スポーツニッポン) - Yahoo!ニュース.

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放置自転車「どこに止めようが自由でしょ!」記事に心が痛い...

産経新聞の記事に目が止まった。
記事のレポート現場は都営大江戸線の光が丘駅周辺。私が住む練馬区にある都営地下鉄の駅だ。まったくの他人事とも思えず、どこか恥ずかしい気持ちを感じながら記事を読ませていただいた。

現在の地域の問題のひとつに放置自転車がある。
自転車を朝止めて、電車を利用して都内に出かけた後、戻ってきて自転車に乗っていくのだから、正確には放置とはいえないかもしれないが、駐輪禁止エリアに止めていることには違いはない。

本質的には地域住民一人一人のモラルに起因することに間違いない。
しかし、このモラルを維持すること、立て直すことが、ことのほか難しい。それは何故なのだろうか。
同じ練馬区内・西武池袋線の大泉学園駅を利用する私自身のことを考えてみよう。

私は大泉学園駅前(南口)にある2種類の駐輪施設を利用している。
ひとつは線路沿いに作られている自転車スタンド。自転車の前輪にチェーンをかけてロックするタイプ。1回につき100円で利用できる。
もうひとつはゆめりあタワーに隣接する有料駐輪場。5時間または7時間毎に100円。最初の2時間は無料で解錠できるのもうれしいシステムだ。
ありがたいことに両方とも満車ということはたまにしかなく、時間を考えればほぼ確実にとめることができる。
加えて、我が家から駅までは徒歩8分ほど。時間に少し余裕がある場合は極力歩いて駅に行くことを心掛けている。

その一方で、駅周辺に自転車をとめていく人も後を絶たない。
特に北口側には放置自転車の台数が格段に多いように感じる。現在の住まいに引っ越す前は北口徒歩2分のマンションに住んでいたので、マンション駐輪場に無断駐輪していく会社員が数名いて、マンション住民、所有者の間で対応をどうするか議論になったこともある。

私は、地域社会のルールは守るものだと思っている。
それは「ルールを守らないと迷惑を被る人がいる」と感じるからだ。
放置自転車といっても迷惑になる人が誰一人いないのなら、行政等も駐輪禁止エリアを設けたりしないだろう。事実、利用者人口が少ない地域では駅前すぐの場所に駐輪していることも多々ある。しかし交通機関の利用者が集中する都市部の駅前に自転車を止めると駅への出入りや駅前の通行者に不便が生じる。特にベビーカーや車椅子利用者、点字ブロックを利用する視覚障害者が通行できない場合も多い。歩道を通れないために、駅ロータリー内の車道に降りてバスが通るすぐそばを危険を冒して通過することも見かける。

そんな危険を他人におっかぶせてまで、駐輪する必然性はない、と私は思うのだが、そう感じない人が、かなりの割合で存在する。
他者の気持ちを思い遣る心。
時代と共に、他者とも関わりを避ける、直裁的な意味でも境涯が狭い人が増えてきたように感じる現代社会。私たちが取り組むべき目下の課題が山積している現実に、地道に取り組みたい。

【関連記事】【溶けゆく日本人】放置自転車「どこに止めようが自由でしょ!」(産経新聞) .

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いいかげんにしろといいたくなるとき。

いろいろな活動に携わっていると「なんでこんなことに目くじらをたてるのだろう」という程度のことに、精力を投入する人にぶつかる。
今日もまたそんなことに出くわした。

ことは単なる些細な連絡だ。
私は経営者という立場以外にも、ボランティアをはじめ様々な人と関わる活動を行っている。
そこに新しいメンバーが増えることがわかった。
予定していた集まりが急遽変更になった。
そんなときに関係するメンバーに連絡をする。
そのような状況だと想像していただきたい。

私と同等程度の責任を担っている(と思っている)人が別にいると仮定しよう。
その人は自分が気にかけているメンバーの連絡は自分がとりたいという意識でいる(決してメンバー全員へという感覚でないところが微妙なのだが)。
しかし、だからといって私が残りのメンバーのことだけみていればよいというわけではない。
断っておくが、私だけが先に情報を得たわけでもなく、伝達すべき情報は明白な状況である。問題はアクションのスピードと前後である。
多少メンバーに連絡が遅くなっても、私からはその人が懇意にしているメンバーへの連絡はしないでほしいと思っているらしい。そのことを、私は本人からではなく、他の人から聞かされた。
しかし、行為の前後というものは、常に発生する。
私があとから聞くような情報も多々あるが、それを先に連絡を回されたからと言って、卑屈になったりするような感覚は、残念ながら、私には、ない。
「はやく連絡できなくて申し訳ない」というのが、そういう場面での私の偽らざる感覚だ。

また、連絡系統とは別にメンバー間で互いに連絡を取り合う、お互いに声を掛け合うというのは、ごく自然なことであると思っている。
現実に日々起こっていることだが、私から正確に連絡をしたが違う日付や時間等を思い込んでしまって参加できなかったという場合も時々起きている。そんな場合、別のメンバーからの連絡や確認で間違っていることに気づき事なきを得る場合も多い。
そんな現実の問題に対処することを考えれば、連絡の順番の前後を云々することがいかに徒労になっているかがわかるのではないだろうか。

少なくともそう思えない気持ちを、私に直接言ってくれるのであれば対応の仕方もあるが、直接会った際に私には話するわけではない。迂回して他者からそうしたことをクレームとして聞くことがここ数ヶ月続いている。
「そんなこと思っているのなら言って欲しいなぁ」という複雑な気持ち、ときに私からそれとなく言い出すと「そんなことはない」と笑顔が返ってくる。
なんともいえない、複雑な気分だ。

本質を見失った行為を押し留めることができるパワーはいずこに存在するのだろうか。
勘違いの人々を排斥するという考えは、本源的な解決方法ではなく、自分自身が有する理念とは、もちろん相容れることはできない。
そうした排除したくなるような思いと真正面から対峙することが、自身に課せられた巨大な課題であることに、日々気づかせられる毎日である。

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時津風部屋で行なわれていたものとは

大相撲の時津風部屋の斉藤俊さんがけいこ中に急死した事件で、時津風部屋の時津風親方(元小結双津竜)や兄弟子達による暴行が行なわれていたことが明らかになった。
暴行は親方自身によるビール瓶での殴打、兄弟子による金属バットでの殴打、複数名による足蹴りなど陰湿極まりない。
俊さんが死亡後に、遺体を遺族に返さずに火葬に伏そうとした隠蔽疑惑も報道されている。

「逃げろと言えばよかった」
「もう少し頑張ってみろよと私のエゴで言ってしまった」
俊さんの父・正人さんの言葉に涙が出そうになる。
私が同じ父親の立場でも、もう少し頑張ってみろと言っただろう、と想う。
もう少し、心のアンテナを敏感にしていればよかった...きっとそんな後悔の念がいつまでも消えないに違いない。
もし仮に正人さんの言葉がエゴだとするなら、時津風親方の言動は畜生界の生命の所作だ。

年端もいかない少年少女の凶悪犯罪がけたたましいばかりに報道される昨今。
彼ら彼女達がそんな風になったのは本人のせいばかりではないのかもしれない。
いい歳をとった、相撲の師匠だとか言われるような輩がこんな体たらくでは、若い世代の人達に意見するなどもってのほかだ。

生命に対する尊厳の気持ち。
他者を思いやる境涯の大きさと深さ。
まわりの声を聞き漏らさない心配りと繊細さ。

私達は、助けを求める声を聞く力を、日常の中で忘れ去っているのかもしれない。
今からでも、少しでも、耳を傾ける心を少しでも強くしたい。
そして、人間として許せない所業をひとつでも防ぐ自分でありたい。

《関連記事》
<力士急死>「真実を知りたい」と訴え 斉藤さんの父会見(毎日新聞)
「逃げろと言えばよかった」=遺族の父、涙まじりに-時津風部屋の力士死亡

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誰のための人生か

昨日、それなりの立場にある人物の、ふとした発言に出会った。
事の背景がわからないと理解しにくいので説明が難しいのだが、直接の発言内容は
「やらないといけない目標は早くやってしまって、残りの期間はゆっくりしようよ」
というものだった。
私は非常に違和感を感じた。「それって違うでしょ?」
何人かにその思いを尋ねてみた。
しかし、大半は上記発言をした人物と同様の思考をしていた。
私は、愕然とした。

そもそも人生は自分自身が責任をとるべきものだ。
誰かに言われて嫌々やるものでは、もちろんない。
しかし何故、やりたくないノルマを課せられたかのような発言になってしまうのだろうか。

「何のためにその課題をやるのか」という自分自身への問いかけがないからだ。
「何を目指す人生なのか」という最終的な目的を忘れたからだ。
そして「他人はどうあれ自分自身が選んだ人生だ」という本因妙の決意がないのだ。

私が思っていることは、当たり前に共通認識されているべき事項のはずだ、と思っていた。しかし決してコンセンサスになっていない。
このような姿勢でいる限り、どんな戦いをやっても勝てるはずがないのだ。
敗北するのは必然だったともいえようか。

まずここから、変えていかなくてはならない。
日々の生活の中で、一つ一つの課題が達成できない大きな理由を、みつけた。

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革新という幻想に打ち勝て。

近年、Webでの情報発信、個人の主張が豊富になってきた。
その中で、非常に興味深く感じることがある。
それは同じ事象を見聞していても、180度違う見解がその人の当然の見解として述べられている事実だ。
個々人の意見の違い自体は、Webが進化する以前から存在していたわけだが、現在の状況はかなり違う様相を呈している。

その一面を指摘すると、思考の前後関係がわからないまま、唐突に単発的なコメントが散乱する現象がある。
リアルな付き合いであれば「なぜそのような発言になったのか」その人となりや経験から推測もできるし意見交換もできる。また書籍等で意見を展開する場合では、それなりの論理的な手順を踏んで思考段階を説明していたように思う。
しかし、現在のSNSやブログでは短く書くことがスマートで読みやすいという風潮があり、結論のみを書く人が極めて多い。
その結果、前後の脈絡は全く不明で、一見すると独善的な断定口調の文章が飛び交っているのではないかと、私は思うのである。

たとえば、いま旬の話題のひとつは参院選だ。
匿名での公開が多いブログでは、現状の政治への批判ばかりが目につく。
批判ばかりしていても何も生産的な行動は生まれてこないのだが、自分が政治家になろうという人以外は「そんなこと知ったことではない」となるのが大半だろう。
批判されるのは常に体制側であり、保守と呼ばれてきた。
批判する側は革新派と呼ばれて、体制批判することが役割のようになってきた。
体制側を支配層と位置づけて、支配層対非支配層の対立を煽ってきたのが従来型の政治構図でもある。
日本には歴史的にも政治が庶民に身近だったことがなく、反体制的な思想が充満してきた。これは今はじまったことではなく、少し前なら全学連、全共闘が跋扈していた60年代の学生闘争があり、さらに前には明治維新や自由民権運動があった。

近代を生み出した明治維新の評価も近年少しずつ変わりつつある。
「明治の元勲」などという表現もあるが、当時の文献等を調べてみると政治家の多くは私利私欲に走っていた。
今も昔も、権力の魔性を打ち払って庶民の幸福のために一生を捧げている政治家は、ほんの一握りでしかないのだ。

腐敗した体制を批判するにもいいだろう。
革新を叫ぶ次の体制を狙う一群に期待するのも、自由だ。
しかし、民衆の理想を叫んだ改革者が体制側になった瞬間に、抑えていた魔性が吹き出すことを、歴史は証明している。
明治維新がそうであったように、さらにはフランス革命がそうであったように。

世間では、昨今の政治を「強行採決ばかりだ」とか「社会保険庁の監督すらできない無能の政府」等々の批判もくすぶっているように思える。
それは、事実だ。
しかし物事の本質を見極めなければならないのは私たち民衆だ。
体制への批判を仕事にしているマスメディアの過激なタイトルに踊らされていないか。
「強行採決」になった要因は何か。その中で最も深刻な主要因は何か。
「社会保険庁」の悪弊が改善されてこなかった最も責任をとるべきは政府なのか。社会保険庁自身なのか。
政府、社会保険庁という「団体」が問題なのか、それとも真の要因はさらに一歩掘り下げた先に存在しているのか。
そんなことすら考えもしないで「政府憎し」で感情的な発言を繰り返していては、自らの首をしめるようなものだ。
短絡的で、マスメディアの報道ひとつで考え方をコロコロ変えてしまう、成熟することができない国民性が恥ずかしくなってしまう。

では私たちは何を基準に行動を決するべきか。
本源的には、一人一人の行動を現実的に規定している哲学思想を見極めるしかない、と私は思う。確固たる哲学思想を持たないのは、論外だ。
哲学思想に基づいた現実の行動を、私たちは判断していくしかない。
私達の運命共同体は、こうして微妙な判断を積上げていくしかないと私は思うのだが、皆さんはどう感じられるだろうか。

〔追記〕
Webでの発言の難しさということに関連して興味ある記事がありました。
本人のキャラクターと違う「メール人格」ってないですか?

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事業を遂行する者の資質とは

最近ある人から打診されたことで考えさせられることがあった。
私が進めているある事業に関連して「よいタイミングで自分をその事業の関係者に紹介してほしい」という依頼である。
その方にとって元々関心のある分野だったようだが、その人の今までの来し方を知っているだけに、正直なところ返答に窮してしまった。

営利活動のみならず地域活動や社会貢献などのNPO、NGOにわたって、こうした依頼は時おりある話だ。実際に月に数回はそうした話もする。
しかし人と人をつなぐということは、それ相応の責任が発生する。
重要な点として、そうした依頼する人の意識を見極める必要がある。
真剣に全力で取り組もうとしているのか、それとも興味がある程度の軽い気持ちなのか。
事業に関わるとしても、その人にその資質があるのか。
資質があったとしても、受け持った役割を責任を持ってまっとうできるのか。
もし適切でない人物を紹介すれば、仲介した自分自身に責任が発生するのは当然だ。事業自体にも悪影響を及ぼすことになる。

一概に言えないが今までの経験から類推すると、知人を介して重要案件を依頼する人の中には主体性に欠ける場合が少なからず存在する。
ではこうした見極めを的確に行なうのはどうすればよいのか。
その根本は信念理念に根ざした自分自身の判断基準を醸成することにつきる。その理念を築き上げることが経営者としての必要資質である。
しかしそうはいっても、多くの人はわかりやすいチェックポイントを聞きたがるだろう。今までの経験からいくつあげてみると...

□約束の時間が守れない
□自分が発言した内容をよく忘れる
□自身の発言に一貫性がない
□自分のスケジュール管理ができない
□一度決めた小さな目標に対しての執念がない
□個人的に金銭を借りて返していない
□面倒なことは極力避けようとする
□他人にお願いできることはやってもらおうとする
□できるだけ働かないで暮して生きたいと思っている
□自分の行動がどのように回りに影響するのか考えることが少ない
□決断すべき時を先延ばしにする傾向がある
□損得を考えて得にならないと他人のために動けない
□自分以外の人の立場でものを考えることができない
□他人の欠点をみつけると徹底して攻撃する
□自分の都合にあわせて建前と本音を使い分けている
□見つからなければマナーは守らないことが多い
□自分を正当化する為に右と左の人に違うことを言う
□たとえ自分が間違っていても言葉でごまかせると思っている

これらの項目のうち2つ以上にチェックがつく場合は事業に参画させないと判断することだ。
また自身に置き換えてみて、生き方を修正していくことが大事だ。
上記のような生き方ではいけないと思いつつ惰性に流されている人は多い。
もし上記の指摘が「なんでいけないの?」と思うようであれば、問題は深刻だ。
なぜ人はそれぞれの環境に生まれて、千差万別の環境にもみくちゃにされて生きてきているのか?
それを自分以外のせいにするのか、自身が望んで挑戦していけるのか。

人生も事業も、常に変化の連続だ。
一瞬たりとも不変ということはありえない。
変化には必ず兆し(きざし)がある。
この兆しに直面したときに、勇気を持って取り組もうとするのか、変化することを煩わしく思ってできる限り避けて通ろうとするのか。
漢字では、兆しに取り組む姿にみえるのが挑(ちょう)であり、避ける道をとおる姿を思わせるのが逃(とう)である。挑は挑戦であり、逃は文字通り、逃げることである。

ピンチはチャンス。
困難を飛躍できる千載一遇の時と捉えて喜んで立ち向かえる自分自身でありたい。

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毎週の憂鬱 月曜日

このところ月曜の夜が終わり、深夜に帰宅すると憂鬱になる。

どの分野にすれ、リーダーたるものは事業目的の達成が使命として課せられている。3~6ケ月の短期決戦であればなおさらだ。

少しよくない数字が出てくると、すぐに方針を変更する。
意味のない動員がかかる。
方針打ち出しだ、報告だと言って、会議や会合の回数が増える。
報告する数字ばかり見ていて、現場の個別状況を把握しようとしない。
内を伸ばさずして、外の結果ばかりを追いかける。

すべて敗北の方程式だ。
どこが最終的にウィークポイントになるか。そのくらい着手前からわかっていてあたりまえだ。現場の一兵卒でさえわかっている事実を理解していないかのような発言がリーダー間で飛び交う。
方針を変えるとしても伝え方もあるはずだ。すぐに舵を切れない人だっている。相手先への配慮も必要になる。方針が発表された直後から、その方針に沿って地道に、決して交流があるわけではない各方面の関係者に連絡をとり、来訪のアポを取り付け、地ならしをしてきたメンバーだっている。かくいう私もその一人だ。
「方針が変わったから行けかなくていい」「キャンセルするように」と一刀両断されては、そうした人達はどうしたらいいのか。心待ちしている方にも礼を逸することにならないか。
人との関係において、自分の都合のみで行動することの影響も考慮すれば、しかるべき方針変更の打ち出し方、指揮のとり方があるだろう。

先哲の経験と智慧が活かされていない。
それに学び、活かそうという思いが薄いのだろうか。
数字を追いかけるが「その数字は当てにならない」と公然と言い放つ。であるならば、信頼できる数字とは何か、それを明示するのがリーダーである。
煽られれば人は動くとでも思っているのだろうか、そこに思想哲学を感じることは、ない。

信頼できる状況を作りこむためには具体的に何を行動するのか。
そうした個々の具体策が出てくる背景には何があるのか。
目下の課題と遠大な構想の課題とはどのような関係にあるのか。

それだけでいい。
真のリーダー不在を痛感する毎日である。

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我が地域よ おまえもか

ここ1週間ほどの間で大きく失望し怒りを感じる事態があり、昨夜それが決定的になった。
自分には人生の師匠と大哲学があると言いながら、その生き方を真正面から受け止めない人物が多くの人に指導をする一方で、不都合なことはこっそりと処理をする。そのことを裏切りだとは感じないのだろうか。

悪い枝があれば必ず乱れる。
悪の芽は小さなうちに絶たねばならない。
また小さなうちに対処することで本人も再起の道が開かれる。
堅固な城壁も蟻の穴のような小さな綻びから崩れる。
安易な温情主義は慈悲とは違う。
これらは人生の真理を言い表した言葉であると感じる。

フィリップ・コトラーはマーケティングの場面で語っている。
「人はどのようにして期待を形成するのだろうか。過去の経験、友人や知合いの意見、マーケターや競合他社から得た情報や約束をもとにしているのである。マーケターが大きすぎる期待を抱かせれば、人は失望する可能性が高くなる」

日常の出来事に置き換えるならば「マーケター」を「信頼している人物」と言い換えるといいだろう。
期待の小さな接触の積み重ねが信頼を生む。一度でも期待を裏切られると、人は積み上げた信頼を自ら突き崩す。それでもかすかな望みを持って期待し続けようとした人が、繰り返し失望を経験した場合、どのような行動をとるのか。失望という辛い経験をしたくないという自己防衛の心理が働き、期待することをやめるのだ。
その自己防衛の心はすでにわが身の回りに忍び寄っている。
まじめに努力するのが馬鹿らしくなる。相手の立場で誤りを糺すことさえしないのだから自分達も適当にやればいいんじゃないの。言葉に出さなくても必ずそうなっている。
私が住む場所においてはそうした不幸な人を出さない。

気力が急激に萎えていく中で、それが私の使命だと思いたい。

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人間関係が希薄になりつつある→80%

読売新聞が5月13,14日に実施した読売世論調査の結果が発表されている。同様の時系列調査は2000年7月に行なわれており、約6年間の変化が掲載されている。
人間関係が希薄になりつつあると思うかとの質問に、80%の人が「そう思う」と答え、「そうは思わない」という人は19%だったという。またその傾向は都市部で高いが、この6年間での伸びは中小規模都市や地方の町村で大きく、全国的に同様の傾向になりつつあるという。

  そう思う 前回比
全体 80%  
中都市(東京23区,政令市除く人口10万人以上) 81% +6 point
小都市(人口10万人未満の市) 80% +10 point
大都市(東京23区と政令市) 78% +3 point
町村 75% +6 point

そう回答した理由について
「人と接するのをわずらわしいと思う人が増えた」が49%と最も多く、次いで「人の立場を理解できない人が増えた」との回答が48%である。

こうした傾向は日常の中でも痛感することが実に多い。意思が通じないのが当たり前になってきた感さえある。
私もここ1ケ月ほどの中でビジネスの場面で立て続けに上記の傾向、特に人の立場を理解できない人の増加を証明するかのような場面に連続して遭遇している。相手がクライアント(依頼者)であることを最大限考慮しても「あれほど繰り返し考えを伝えたじゃないか」「そのやり方で納得したんじゃなかったの?」と投げ出したくなるような状況すらある。
この状況下に入った人達には何を話しても通じないことが多い。理路整然とした論陣など無意味だ。要するに自分自身の意見が通るか通らないかが最大の関心事であり、検討会といっても打合せといっても自分達の要求を伝える場でしかない。そこには切磋琢磨、自己啓発という言葉はあってもその実態はない。協働なんて概念は空論にすぎないだろう。

しかしそうした状況下で生活していくのは他ならない私自身、自分自身である。
「人の立場を理解できない人が増えた」環境に身を置くのことを運が悪いとか環境のせいだと言っていても何の解決にもならない。
「ピンチをチャンスに」「逆境こそ飛躍の源泉」である。
こうした環境下に追い込まれていることを冷静に分析し、真の要因を特定し、具体的な解決策を立案し、確実に実行していく。
これが人間関係が希薄になったと言われる現実社会で生きていく私達の使命であると痛感する毎日だ。
しかしクライアントとはよく言った表現だ。「患者」の意味があるこの言葉。病んでいる現代社会の象徴かもしれない。

《関連リンク》読売新聞2006年6月1日付記事

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日本人にとって宗教とは盲目か

兵庫県最高齢者とされていた男性が実は5~10年前に既に死んでいたことが報道されている。親族からの通報で事実が判明したということだが、なぜ死亡を届け出なかったのか。
警察発表によると、死亡した男性は70歳を超えた長男、二女、四女の3人と同居、死亡後はふとんに寝かせられていた。この3人は遺体に食事を供えたり、水で口をしめらせていたらしい。家族らは宗教上の信念から「酉(とり)年の3月に大願が成就するので今月中に届け出ると決めていた」と話したという。
不可解な事件が起こった時に聞く言葉の一つが「宗教上の理由」だ。

そもそも宗教って何なのだろうか。宗教の概念ほど歪められているものはないと思う。あまりにもその概念が違う形で固定化されているのであれば別に新しい言葉を使わないといけないかもしれないと考えてしまうほど、現代人の持つ宗教のイメージは歪(いびつ)化している。

宗教とはその言葉の持つ由来から言えば、最ももと(宗)となる考え、法理(教え)のことであろう。最も元とするべきものは何かを追求していけばその考え(理念、法則)は必然と明らかになってくる。最も元とするべきものは何か?多くの人がそれを思索し語り合わなければならないと痛感するが、それは生命そのものであり、宇宙生命全体のことではないだろうか。それを基にした考え法理とは、生命、宇宙の本質を追求し、本来的な生命、宇宙のあり方を探求することではないだろうか。言い換えれば、私達一人一人の生命そのもの自体がより生命本来の輝きを放つための探求であろうと私は思う。

宇宙といっても私達一人一人の生命の集合体である。最近よく引用させていただいているワンガリ・マータイ博士が言われているように、世界といっても結局私達一人一人の行動そのものであるのと同様だろう。我々の生命がどのような法則に則って活動をしているのか、よりよい生命活動のリズムがあるのかないのかを含めて、もっとも大切な根幹を追求実践しようということが宗教というカテゴリの持つ本来の意味合いであると私は考えている。だからこそ古今東西の賢人、有識者と言われる人は一人も例外もなく信仰を実践している。
生命の法則を思索実践せずして人生を送ることは、乗除加減を知らずして数字を扱うようなものではないだろうか。

それが(少なくとも私が住んでいる)日本においてはどうだろうか。死んだら極楽浄土に行くだとか、日曜日だけ集会に行ってありがたい話を聞いてきただとか、水晶玉を買えば幸福が舞い込むだとか、死んだ先祖に朝夕拝みなさいだとか、いったいどこに生命の法理を解き明かそうという真摯な研鑽があるというのか。結局何をやっているかと思えば、神社で神札を買ってきたり絵馬を買って下げてきたり、交通安全祈願だといってお守りを買ってきて車にぶら下げたり、新年だけ初詣に行ったりと、何かのついでという程度の軽い認識になっている。どこに生命を磨く努力が行われているというのか。何事もしかるべき努力なくして結果はないのである。

勉強もしないで司法試験や大学受験に受かろう、真面目に働くやつは馬鹿だ働かないで一緒楽して暮らそう、というのと何も変わらない。身近な例で考えれば殆どの人がわかることだ。しかし自分の実感が伴わない少し大きな事象に関しては多くの人が思考停止に陥ってしまう。人生のあり方というテーマはその最たるものだ。
人生という、より大切な事業において指針も、理念も、最終目標も、成果を出すための要因の積み上げ方(実施方策)もわからないまま、もがいているのが現代を生きる一人一人の実態ではないだろうか。

今の時点では自分の理解を超えたものであっても、自身の思考と境涯を広げ高めて生命本来の充実へ、宇宙の本来のあるべき姿へと理解実践していく。これが宗教の持つ意義であると私は思う。そこに立脚すると多くのことに視界がひらけてくる。自然環境、京都議定書の議論も生命と宇宙の在り方から考えれば、しごく当然の帰結だ。モラルなき犯罪が横行する現代社会の処方箋も見えてくる。50年後100年後の社会のあり方も、教育のあり方も、実に具体的にプランニングができ、しかもぶれることがないと私は感じている。

宗教をタブー視したり不要であるかのような今の風潮の大転換こそが根本的な問題解決の方途である。

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会合には納得と共感と、そして何よりも元気と希望を

2月22日付で「会議会合のもつ意味」について感じるところを書いた。今日はその続き、というか少し疲れを感じるなという話。
昨日ある会合で1年半ほど担当していた役回りを突然終わりにすると発表された。その理由は「負担が大きいだろう」だからとか。事前に一言くらいあってもいいんじゃないの?とは思ったが、それを前提に議事進行が組まれていることが明々白々だったので問い質すことはしなかった。正確にはできなかったというのが状況として正しいだろう。それを言うと予定の時間内に予定議事内容が終了しないことが明らかだったからだ。そのような状況がわかっていて事前に相談もないというのはある意味で確信犯である。瞬時にそこまで思いが至ると気持ちは離れ、一気に気力が抜けていった。

大きな状況を変革しようとすると個人は無力を感じる。ワンガリ・マータイ博士は「だれかではなく私が、どこかからではなくここから」変革は始まるのだと語っている。それに比べれば小さな会合ひとつのことだ。そんなことはくよくよ気にしないで悠々と進めばいいのだろう。
しかしそこは凡夫の凡夫たる悲しさである。リズムに乗り切れない時というのはこういう状況の連続なのかもしれない。
しかしこうした思いが理解されない、誰にもわかってもらえないという経験は貴重である。順風満帆の人生を歩んでいる人や要領だけで渡って来ている人には絶対にわからない気持ちだ。自分がその立場なら同じような辛い思いを他の人には決してさせない。これを経験しているだけで価値があると言える。またそう思ってすべてを活かしていくという決意が次の結果につながることを信じたい。

そして、それでも前に進むしかない。今夜とある人にそのことに絡んで話を聞いて頂いた。今いる場所で最大限できる限りのことをやろう。自分の意思が完全に反映されるわけではない他人である回りの人たちに多くを望むよりは、自分がやるべきこと、やらなければならないことが残っていることに気づくと、紛動されている場合ではないことに思い至った。人間誰しもその人でなければできない使命がある、はずだ。あの人にはこうしてほしい、この人にはこれができるようになってもらわないと困る、と思っていても状況はどうなるのか誰にもわからない。しかし自分がやるべきことは自分がやれるかできないかだ。人生ゲームとして考えてみても実に明快である。
今いる場所で今やるべきことをやろう。それが必ず目の前の未来につながることを信じて。

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求められる対話の力

今日はひな祭り(*^_^*)

最近ある記事で「傾聴ボランティア」と「アサーション」が取上げられていました。

傾聴ボランティアとは、元気な中高年世代がカウンセリングの基礎を学んだのち一人暮らし等の高齢者の話し相手になるボランティアのことです。その淵源は、アメリカ・カルフォルニア州サンタモニカ市のある高齢者施設で、高齢者の健康には「心の悩み」が大きく関係していることに気づき、カウンセリングの手法を取り入れたボランティア活動を1978年に開始したことに端を発します。シニア・ピア・カウンセリングと呼ばれています。ピアとは「仲間」と言う意味です。悩みを抱える高齢者の思いを同じような経験を乗り越えてきた同世代の高齢者仲間が傾聴していくことにその目的があります。またこの傾聴ボランティアは相互に成長していくという面が大きく評価されていることも知られています。

アサーションとは自己表現とか自己主張というように訳されることがありますが、従来の日本文化にはぴったりとした表現がない概念かもしれません。
自己表現としては自己表現なのですが、あくまで相手の立場や気持ちを思いやりながら自分自身の気持ちや状況を的確に相手に伝えていく、このような意味合いを含む言葉です。従ってアサーションでは微妙な言葉の言い回しや声の調子、顔の表情などにも注意が払われます。いずれも気持ちを伝える重要なファクターだからです。

この二つに共通して言えることは、世代や地域性別を越えて対話ができない人達が増えているということです。そして言い古されたかのような対話の力こそが解決の道であることが示されています。今こそ対話の力が見直されている時はありません。
一言で「対話」というと「なんだそんなことか」と思う人が多いことでしょう。しかしそんなふうに感じたあなた!本当に対話ができていますか?そんな人に限って自分勝手な強弁家だったりカウンセリングの手法とか先に勉強しようとします。あまり適切なたとえではありませんが、対話を真剣に考えない人は自己研鑽もしないで楽して暮らそうと思っている人であり、手法のひとつ覚えはデートに行く際にトレンド雑誌のお奨めデートコースを読み漁った、かつてのマニュアル男達と大差ないでしょう。生きている人間が相手です。自分も生きている一人の人間です。成長し続ける自身がなくして真の意味での対話は成り立ちません。

1ケ月余り前にある識者が対話について書いている文章を読みました。
その方は言葉が話せる唯一の生物が人間であることに触れ「言葉を持つことが人間の最大の属性である限り、対話の中に身を投じていかなければならない」と訴えられ、現在社会を覆うテロや貧困、人権や環境破壊の諸問題を解決する突破口が対話の力であることを理路整然とかつ丁寧に展開されておられました。
そして人間のもつ英知の結晶として
①すべての事象は相対的、可変的である
②相対性、可変性を見極める眼識を磨き、相対性に紛動されない主体を築く
③眼識、主体をベースにするがゆえに対話の対象を選別しない、対話の道を閉ざさない
という原則を提示され、更に世界と自然界の不可分性を繋ぐ方途も三層別したうちのひとつである自然との対話にあることも鋭く見抜き、論陣を展開しておられました。
非常に感銘を受けた内容ですので別の機会に述べるとします。

傾聴ボランティアやアサーションを重要視されてくるなど、様々な場面、状況において対話の必然性を感じるようになった今日この頃です。

《参考》

傾聴ボランティア ホールファミリーケア協会
『傾聴ボランティアのすすめ』三省堂
アサーション 『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』平木典子著 金子書房

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会議会合のもつ意味とは

最近とくにこれは必要なのだろうかと感じる会議会合が多くなったように思う。もちろん有意義で必要不可欠な打合せが大半であろうが、定例化した会合でその内容に疑問を感じるものが多発している。

たとえば新しい事業、試みを開始しようとすれば綿密な事前準備、根回し、協議そして深い思索が必要だ。何としても実現しようとなれば他のスケジュールを変更してでも会議の場をセッティングする。
しかし伝達事項が中心であれば稟議、回覧等で充分その機能は果たすことができる。その場に集まり帰っていく時間を有効的に他のことに振替える方がずっと価値的だ。そんな会議会合に限って無理に権威付けようとする傾向がある。権威という言葉をカラ元気、抽象的な精神論と言い換えてもいいかもしれない。無理やりでも「今日の会合会議にきてよかった」と思わせようとする。しかし庶民は賢明だ。そんなことは見透かしてしまう。またそんな付け焼刃で出席者が満足すると思うこと自体を改めなければならない。

その一方で出席者から議案として取り上げてほしいと要望しているテーマがあっても主催者の関心外であれば協議されることもない。何のためにその場に集っているのか、意識ある出席者であればあるほど会合に疑問を持ち、次第にその場にいることが苦痛に感じるようになる。

会合会議のもつ意味。それは創造性の発露でなければならないと私は思っている。その意味で具体的ガイドラインを2つ挙げたい。
①個人個人が持つ英知を結合止揚(アウフヘーベン)する(1+1が3以上の行動結果を生み出させる)
②我見に陥ちがち、結果的に方向性がずれていきがちな個人活動の限界を補正向上させる

そして根本的な問題として会議会合に頼った活動が横たわっている。日常的に綿密な打合せ協議検討、そして具体的な行動がなされ関係各位とのコミュニケーションが図れていることがあらゆる社会活動がその目的を達成する要因となる。とかくコミュニケーションが乏しくなった組織ほど会議会合が権威的になっていく。回数も時間も長くなる。その内容はといえば同じことの繰り返し、ともすれば登壇する人の独演会や絶叫に終始することは皆一度や二度は経験していることだ。

個人としての意思がある程度あれば組織に属していない時の方が人は純粋に行動ができる。しかしそれでは生涯をかけても自己の世界に毛が生えた程度の貢献しかできない。それを仏教では「二乗(にじょう)」と表現し、そこに人としての大きな壁があることを解明している。
「社会構成者としての人間」「環境としての人間」の視座に立つならば、卑近なことであるが上記のような会議会合に参加する立場になった時が更なる境涯に躍り出れるかどうかの勝負と言えよう。
「どうせなにを言ってもかわりゃしない」と思ってあきらめてしまうのか、「この状況を乗り越えられればまたひとつ自分と回りの人達の境涯が開ける」と思えるのか、わずかな一瞬の差で180℃人生は変わっていく。

そうは思ってもなかなかすっきり行動できないのが人の性だろうか...。

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