カテゴリー「健康」の記事

2009年4月17日 (金)

ライフスタイルにふさわしい制度の構築を 厚生労働省が医療費負担の見直しに着手

厚生労働省が高齢者の医療費自己負担率の見直しに着手したことが報道されている。
検討されている見直し案のポイントは
①65歳~69歳の窓口負担を3割から2割に
②70歳~74歳の窓口負担を現在凍結されている1割から2割に
の2点である。

確かに現行制度では70歳を境目にして3割から1割に急減するシステムになっており、1歳違いでの較差に違和感があることは否めない。
仕事をしていたサラリーマンにとっては多くの人が定年退職を迎える65歳以降も5年間3割負担が続く現行制度での不満も多く聞かれる。
見直しによって、平均的なライフスタイルに近づける形になると思う。

また現在70歳以上の方の負担は経過措置で現行を維持、その後は3段階の制度になるため移行期間を含めて個々人の実質的負担増は発生しない試算となる。
現在の2段階から3段階になれば、高齢者という呼び方をする年齢区分とも整合性が取れるようになり、医療制度への理解も進むように感じる。現行制度でも70歳になって急に医療機関への診療回数を増やすという方はいないと思うが、高齢化が進む現代社会にあって、早い年齢から医療費の窓口負担が少なくなることは、国民にとっては老後の安心がひとつ増えることにもなると思う。

そんな視点からも今後の審議の行方に期待したいと思う。

【関連リンク】
<医療費>65~74歳の窓口負担 厚労省が2割に統一検討(毎日新聞) - Yahoo!ニュース.

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2009年1月15日 (木)

代理ミュンヒハウゼン症候群 誰もがかけがえのない存在

京都大学病院に入院中の我が子に水道水と思われる雑菌が混入した水を点滴液に混入して死亡させようとしたとされる35歳の母親の事件が報道されている。
入院中の子供は五女。今回の事件以前にも、次女、三女、四女が死亡しており、昨1月14日には四女の殺害容疑で再逮捕された。

殺害された子どもたちのことを思うとやりきれない。
まだ何も世の中のことを知らずに、短い人生を終わらされてしまった。
きっと母親のことは無条件に慕っていたに違いない子どもたち。

殺人容疑者となった母親は、容疑事実を認めている模様で、一連の行為の理由を「周囲の同情を買うため、子どもを看病する姿を見せたかった」と供述していると報じられている。医療関係者の声として「代理ミュンヒハウゼン症候群」の疑いもあるとの見方が出ている。
ウィキペディアによれば、ミュンヒハウゼン症候群(Münchausen syndrome)とは自分自身に周囲の人達の関心を惹きつける為に自傷行為や虚偽の作り話を吹聴したり病気を装ったりする行為を指す。ビュルガー著『ほら吹き男爵』のモデルとなったミュンヒハウゼン男爵が命名の由来である。
ミュンヒハウゼン症候群には、自分自身を自傷したりするケースと、近親者等を傷つけたり悲劇の主人公に仕立てるケース<代理ミュンヒハウゼン症候群>の2パターンが存在し、今回の事件は後者のケースではないかと見られているようだ。

自分が注目されたい、悲劇のヒロインになって同情されたいという行為は、古今東西いずれの時代、いずれの場所でもあったことで、決して目新しいことではないだろう。『ほら吹き男爵』以外にもイソップ童話の『羊飼いと狼』など一例と言えるかもしれない。
また幼少期の子供にとっては、極めて日常的な行動であり、遊びの一部にもなっている。
問題なのは、それが社会生活を営むべき年齢になり、母親父親になってもなお、そうした行為や発想にとらわれて回りに被害者を生み出してしまうことだろう。原因の一端として、受験戦争や学力のランキング競争、高学歴社会での回りからの評価で自分の進路や価値を決めようとする現代の教育の歪みが、頻繁に指摘される。
確かに、そうした教育の問題は大きなウェイトを占めているだろう。
しかし同じ環境下にあっても、ミュンヒハウゼン症候群の症状が顕在化する人とそうでない人がいることに着目しないと、問題の解決には至らないと私は思う。

強弱の差こそあれ、人間は誰しも他の人から認められたいという意識がある。
そのことに自己の存在意義を見出そうとしている人は、ことのほか多いのではないかとも思う。
しかし、それは自分以外の何か、誰かと比べることによって生じる相対的な評価でしかない。自分自身の絶対的評価ではないことに、命の底で「そうなんだ」と実感すること、生命次元で気づくことが必要なのだと思う。
その思いに立てた時、人は自分ができることに一生懸命になってみようと、行動を起こすことができるのではないか。

教育の改革も必要。
現在の病んだ人間の心をケアするカウンセリングの充実も必要。
人と人とのつながりを大切にするコミュニティの広がりも大切。
希薄になっている家族の絆を強くすることも大切。
そしてそれ以上に、自分も誰一人としてもれなく、素晴らしい存在なんだと自分自身が自分自身を認められることが最も大切なのだと思う。誰かに注目されようとされまいと、自分自身の価値は変わらない。揺るがない。
その思いで、目の前のことに誇りと自信を持って地道に取り組んでいける。

今を生きる私達に必要なものは、自分も回りの一人一人も、かけがえのない生命そのものだという生き方だと思う。
その思いを「生命哲学」と呼んでいいと私は思う。
一人一人の人生の積上げの先にしか、社会の変革も、平和もないと思うから。

【関連リンク】
「次女、三女の点滴にも水混入」殺人容疑で再逮捕の母(Yahoo読売新聞)
【点滴腐敗液混入】次女、三女にも手を加えたと供述(Yahoo産経新聞)
代理ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia
ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia

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2008年5月16日 (金)

後期高齢者医療制度 本質はどこにあるか

後期高齢者医療制度の議論が沸騰している。
マスメディアの論調も様々だが、テレビメディアについては表面的、感情的コメントが大勢を占めているようだ。「感情的」という表現をしたのには、それなりの理由がある。

ここ2週間ほどの間で、私の周辺でも後期高齢者医療制度が頻繁に話題に上がるようになった。少なからずの知人が率直な気持ちや感情を吐露していた。
態度は二分されているというのが私の印象だ。様々な意見を集約すると特徴的な傾向がある。反対をしている人は高齢者本人もしくは高齢者を家族に抱える人達に多く、それよりも若い人は相対的に静観している。この理由は一概には言えないかもしれないが聞いた声から類推すると、現実に直面している人と、現時点で直接的な生活上の影響がない人との違いだろうか。

高齢者で意見を言っている人の殆どは後期高齢者医療制度に反対している。
確かに、多くの75歳以上の高齢者にとって月1万円を超える保険料負担が発生するケースが多発しており、現実に生活が続けられない事態を迎える危険がある。新たな収入増が見込めない年金受給者にとっては死活問題だ。
その一方で、従来の健康保健制度が地方の市町村を中心に破綻状態になりつつあり、早いところでは明年にも破産が発生するのではないかという状況まできている。破綻をしてしまえば多くの住民の医療費は10割負担に戻ってしまう危険がある。後期高齢者とて例外とは言えないだろう。

高齢化すると共に、医療機関にかかる頻度が増していくのは老いの現実である。
高齢者医療制度を考える上で、健康寿命をいかに伸ばしていくか、元気高齢者をいかに増やしていけるのかが最大の解決要素といえるだろう。
そうした試みが充分に行なわれないうちに少子高齢化が進んでしまったという悲劇的な要因も重なっている。

そのうえで、いまの後期高齢者医療制度の議論に私見を述べておきたい。
それは反対を唱えている国民に対してである。
反対をする殆どの人は「従来の制度に戻せ」と言っている。
しかし従来の制度で充分なのであれば、反対されることが容易に予想できた制度を施行するはずもないだろう。前述のように1~数年で破綻する危険性を有している現行制度である。
反対するのであれば、対案を考えなければならない。
「それは政治家がやること」などという戯言はこの際論外だ。皆が主体者としての気持ちを持たなければ何事も解決しない時代になっている。自分自身が主体的に真剣に考えると「今回の制度は暴論だ」という意見はこんなに多くはならないだろうと私は思う。
事実、国会やメディアで派手に制度批判を行なっている民主党でさえ、まともな修正案を出すことができずにいる。「廃止法案」は出せても医療保険制度の改革案が出せないのが現実である。せいぜい民主党内で意見の一致を見たのが年金受給者の口座引落しの停止であると言われている。

施行するうえでの不手際、配慮のなさ、制度決定からの2年間の不作為などは厳しく追及をし、改善するべきだ。年金受給者や低所得者等への制度移行の経過措置や軽減措置は充分に考慮されなければならない。
また不確実な情報の流布は心して戒めるべきだろう。負担が少なくなる高齢者が多いなどという発言は確実な裏付データがない限り、発言すべきではないし、高齢者本人への負担を求める制度である以上、軽減されるというのは正しくないのではないかと私は思っている。
そうした諸々の事態を収拾しながら、国民が一丸となって建設的によりよい解決策を議論し決定していくべき段階に入っている。

もうひとつ、あえて今回の制度に意見を表明していない比較的若い世代の気持ちの奥底にある気持ちを探っておきたい。
それは彼らが事実上の経済的な負担者であるという事実だ。
現行の医療制度で進むならば、その保険料負担の大半は若年者層に集中する。後期高齢者医療制度に賛成も反対も表明していない人の中には、後期高齢者医療制度が廃止されれば自分達にその負担が回ってくることに気づいている人が、少なからずいる。
この点を、制度に反対している高齢者は、早く、正確に、気がつかなければ大変な事態になるかもしれない。

今の若い世代、特に40歳前後から下の年齢者は高齢者福祉の恩恵を受けるのは早くても65歳以上、おそらく70歳を超えなければ制度を利用できない状況になっているだろう。しかも若い時から高齢者を支えるために支払ってきた保険料や年金の総金額に対して、それに見合うだけの老後の保証をうけることは困難であると言われている。金銭面だけを考えれば「損」をする世代なのである。不払いの人達が増えているとは言いつつも、それでもまじめに高齢者を支えるために払い続けている若い者達が大半を占めている。

そんな若い世代からみれば、今の高齢者の言い分はなんなのかという意見がある。
「今の高齢者が若い世代の時に当時の高齢者のためにどれだけの負担をしたというのか」「あなた方が負担した保険料等に匹敵する保証は10年もあれば充分に回収できるではないか」
高齢者には高齢者の主張がある。
しかしその主張によって、その高齢者を支えている人達がどのように影響を受け、リアクションを取るのかということを慎重に考えなければならないと私は思う。

これまで数十年の日本の制度改革は、低所得者層の福祉を厚くすることに重きが置かれてきた。その財源は高所得を得ている人達から確保するというのが定石であった。
しかし、後期高齢者医療制度は全く違う構図を有している。その制度によって恩恵を受けるか負担を多くなるかの分かれ目は、単純に年齢である。これからの政治は、舵取りひとつで世代間の対立構造を生みかねない大きな危険を内包しているのだ。

政治が政治屋によって私腹が肥やされていても成り立っていた時代は既に終わっている。大企業対労働者というマルクス的な貧弱な発想では到底解決など見えない時代だ。
政権交代など、しても、しなくても、根本的な問題とはまったく関係がない。
これからの政治に、そして庶民の生活を成り立たせるためには、利害が対立する人達の中で、いかに解決の方策を見出していくか、その人間としての智慧が求められている。
それは哲学という言葉で表現するのが最も適切だと私は思う。

哲学不在の時代。
それが現在の政治の混乱の元凶である。
庶民一人一人の気持ちが荒んで、凶悪犯罪が多発するのも同根である。
ある方に金美齢(きんびれい)さんが書いていた記事を紹介していただいた。
「老後とは人生の総決算。貧困も孤独死も、自ら選んだ道のりの終着点なのだ」と。
サマセット・モーム作『ロートス・イーター』に登場するトーマス・ウィルソンの生き方と私達の人生と、果たしてどれだけの違いがあるのだろうか。
私自身が、我が事として真摯に取り組んで生きたい。

※サマセット・モーム作『ロートス・イーター』は新潮社『モーム短編集13』に収録(現在は絶版)。
【金美齢さんのコラム(「産経新聞」2008年5月2日付1面)】
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2006年12月14日 (木)

ノロウィルスの脅威

東京・池袋のメトロポリタンホテルでのノロウィルス感染のメディア報道には少なからずの衝撃を受けた。
驚いたのはその感染ルートだ。ホテル内のじゅうたんに付着した客の微量の吐物から人が歩くたびにノロウイルスが空気中に拡散、感染性胃腸炎を集団発症した疑いの強いという。350人近くが嘔吐や腹痛を訴えたが、3階と25階の利用客に集中していることから、被害が発生し始めた3日前の結婚式の出席者がこの2フロアで嘔吐していたこととの因果関係が濃厚と推測。じゅうたんに残っていた微量の付着物を検査したらノロウィルスが検出された。
ノロウィルスの威力がここまで強力なものとは...。これでは外食先のレストランや居酒屋、喫茶店で感染することすらあり得る。ましてや忘年会シーズンの今月、電車内や駅のホームで嘔吐する泥酔者もごく普通に見かける。それが翌日以降になって、人が歩くたびにノロウイルスが空気中に拡散する危険があるということだ。
今までは牡蠣などの摂取、感染者の嘔吐物や排出物などが主な感染ルートとされ、嘔吐物についてはその処理の際に充分気をつけるよう注意されてきた。
しかし街を歩くだれもが感染性胃腸炎の危機に晒されていることが明らかになった。この事実は重大に受け止めなければならない。

外出の際にはマスクをするなど予防にここがけることが大切だ。帰宅後のうがい、手洗いは絶対に行なうことを家族で習慣づけたい。
そして、感染しているかもと思ったら、外出は絶対に控えよう。「私は大丈夫」などと勝手な判断は多くの人に迷惑をかけてしまう。
自他共にしあわせを願う行動を徹底したい。

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