カテゴリー「教育」の記事

2007年10月 4日 (木)

教科書検定を見直す時期に

第二次世界大戦中の沖縄戦に関する高等学校日本史教科書の記述削除をめぐり、沖縄を中心に大きな世論が巻き起こっている。
昨月29日には11万6千人が参加した「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開催され沖縄の総意として決議文が採択された。今月3日には、仲井真弘多沖縄県知事が渡海紀三朗文部科学大臣に面会し、検定意見撤回と削除された記述の復活を直接訴える事態に発展している。

日本の学校教育で使われる教科書は検定と呼ばれている。
報道等で繰り返し説明されているので詳細は必要ないと思うが、戦前の国家主導型教育の反省から、各分野の専門家によって構成される「教科用図書検定調査審議会」によって検定が行なわれるようになった。しかしその実態は専門分野(教科)毎に数名で行なわれており、記述内容を精査するという行為には程遠いのが実情だ。結果的には文部科学省の「教科書調査官」数名がまとめた検定意見等をたたき台として、矛盾点や不整合がないか程度を見ていくだけになり、論議がある点や意見が分かれている争点については無難に事を運ぶ傾向が続いていた。
《参考》教科書検定の流れ

報道によると、今回問題となっている沖縄戦での集団自決について5社の2006年度版日本史教科書に検定意見がつけられた。東京書籍、実教出版、三省堂、清水書院、山川出版社である。
検定意見書として「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」と書かれており、「日本軍により」「強いられ」「追い込まれ」等の表記が削除となっている。
これについて文部科学省は「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」と説明している。(『沖縄タイムス』記事より)

今回の争点は大きく2つの視点でみるべきだと思う。
一つは、直接的問題、つまり「日本軍による関与があったのか、なかったのか」という歴史的事実。
もうひとつは、システム的問題としての、教科書検定のあり方である。

沖縄の集団自決は歴然とした事実である。
日本軍の関与に反論する論客達は、命令書等の証拠物件や発令記録の有無を争っている。
しかしそれは本当に正しい論点なのだろうかというのが私の疑問点だ。
たとえ命令発布の記録がなかったとしても、沖縄は日本国本土決戦を阻止する「最後の護り」「一億総玉砕」「火の玉になって」等々様々な報道が繰り返されていたことは誰も否定できない。
そのような状況下で、あれほど多くの沖縄に住む同胞たちが自ら身を投げ、手榴弾で生命を絶った事実をどのように受け止めなければならないだろうか。
自ら生命を絶つしかないという判断しか選択できない状況に追い込んでいたのは、まぎれもなく日本国軍部である。その事実は動かしがたい、と私は思う。

教科書を第三者機関である「教科用図書検定調査審議会」に全権を託すというのであれば、文部科学省の関与を完全に排除すべき時を迎えているのではないか。
以前から現在の三権分立(司法、立法、行政)から「教育権」を独立させて「四権分立」にすべきと主張する識者がいる。すでに30年以上前からの主張と伺っているが、時代を見通した卓越した見識である。
教育権を独立させるためにはその経済的原資も必要となる。
税金で賄うような考えでは今とまったく変わらない。
まず教育権を統括する独立採算機関を設置し、小学校から大学、大学院にいたるまでの設置認可などの全般を政府から移管する。現在の学校教育機関等に納付する授業料等の中から、この機関の運営に関わる原資を賄うといったしくみが適切ではないかと思う。
この機関の一部門として「教科用図書検定調査審議会」の機能が存在する。このようなイメージが必要になるのではないか。

一国の利益不利益に左右されない、正しい意味での世界市民育成のための教育が求められている。

【関連リンク】
Yahoo!ニュース 沖縄集団自決と教科書検定
Yahoo!ニュース 教科書検定
外務省 日本の教科書検定
文部科学省 教科書制度の概要
ウィキペディア 沖縄戦(集団自決の賛否両論の論拠解説あり)

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2007年8月24日 (金)

第35回夏季大学講座が始まる

毎年8月に行なわれている第35回創価大学夏季大学講座がはじまった。
今年は24日から26日の3日間開催される。毎年1万人が参加する日本最大の市民講座である。
私は2003年に初めて受講し、今年で5年目となる。
心理学や脳科学、音楽、Webや歴史、文学、法律、バイオ、古典や平和学など多彩なテーマでも知られるようになった。
今年は親子で参加できる科学実験教室も開催される。
鍛えの夏にふさわしい研鑽のひとときにしたい。

〔関連リンク〕
2007年度夏季大学講座
個人的な案内ページ http://www.prosecute.jp/keikan/2007summer.htm

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2007年1月24日 (水)

いじめ調査を拒否する教職員組合

北海道教職員組合(北教組)が全道あげてのいじめ実態調査に対して、協力しないよう指導していたことが報道されている。読売新聞には、北教組本部の小関顕太郎書記長が調査への組織的な非協力を文書で指導したことを認めたうえで、「いじめの実態は学校現場で把握し、対応している。全道一律の調査は必要ない」と話した旨が掲載されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20070124wm00.htm

何を言わんか、である。学校現場で対応できているというのであれば、なぜ死を選ぶ子供たちが後を絶たないのか。いじめの問題は「いじめ」だけの問題ではない。その根には人間として互いに尊敬し信頼しあえるかどうかという心の問題がある。
ある教室では、教員から生徒に調査用紙が配られた際にその教員の口から「提出しなくてもいいからな」との発言が出たことも報道されている。状況から類推するとほぼ事実であると思われる。こんな発言をする人間が教壇に立っていること自体が問題だ。裏表のある言動、物事への不真面目さ、人間不信を肯定助長させることに気がつかないのか。
もちろん調査をすることが即問題の解決になるわけではない。しかし現状を把握せずして現状を打開することができないのは自明の理である。

そうした教員の言動に対して、児童生徒の父兄からは批判、憤慨の声があがっているという。当然だ。そうした教員に対してはもっともっと弾劾の声をあげることが必要だ。
巨悪も最初は小さなところから始まる。小さなことだからと見過ごすことは許してはならない。

悪しき言動を見て放置するのは、悪を行なうことと同罪である。

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2007年1月20日 (土)

大学入試センター試験始まる

2007年度の大学入試センター試験が始まった。20、21日の両日に全国の55万人余の受験生が自分自身の進路を目指して全力を尽くす。
例年、大雪になることも多いセンター試験の日程だが、今年はなんとか天候がもちそうな様子。それぞれの方が持てる力を発揮できるよう応援したい。

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2006年10月26日 (木)

全国の公立高校で必修科目の不履修が発覚

全国の公立高校で社会科の授業を中心に必修科目の授業が行なわれていない実態が報道されている。25日現在で11県65校が授業不実施が判明、過去には85校が必要な授業を行なわなかったことがあるらしい。

私が高校に通っていたのは25年も前になるが、受験しない科目を軽視する傾向は昔からあった。私は岡山県の県北にある県立高校に学んだが、2年次からは国立文系、私立文系、理数系の3コースにクラスが分かれ、受験科目に重点を置いたカリキュラムが編成されていた。おそらく今でも傾向は変わらないと思う。特に私立文系クラスでの授業カリキュラムは極端だったことを記憶している。全校を通じて「公民(倫社)」「地学」の授業は存在しなかった。
おそらく学習指導要領内で最低ラインをクリアしていたのだと思うが、生徒だった人間からみれば、極めていびつだった印象はいまだ持って拭い切れずに鮮明に記憶されている。

報道では現役3年生の不満やるかたない声も多く紹介されている。
私達はこの問題の本質を見抜くことが大事だ。それは
(1)そもそも学習指導要領に定められた学習内容は不要なものが含まれているのか
(2)大学受験科目に限定した高校教育に問題はないのか
という点ではないだろうか。

よく指摘されることであるが「知識」と「智慧」は似て非なるものである。教育の本来の目的は、よりよく生きるために自ら考える力を育み、よりよき人生観、生命感、世界観を伸ばし、それを具現化する力を産み出す土壌を作ることではないだろうか。
智慧を育てていれば後から入ってくる知識の正邪を判断し取捨選択して活かすことができるが、知識だけではその人が元来備えている資質に頼るしかなく、正しき知識を活かすことができない危うい状況がここかしこに生まれてしまうと私は思う。
その意味で「智慧」なき「知識の蓄積」が現代社会の病巣の原因だと言えよう。

何のための教育か?何のための学習指導要領か?
今回の高校不履修問題の根本原因は理念なき日本の教育実態の一端に過ぎない。

《関連サイト》
毎日新聞「履修不足:全国の多くの教委「把握せず」「調査せず」
毎日新聞「履修不足:「卒業できるの」「受験は?」揺れる生徒たち

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2006年9月23日 (土)

教員の指導力不足

文部科学省は2005年度において公立小中高校などの教員のうち506人を指導力不足と認定したことを発表した。
これは2000年度から都道府県や政令市の教育委員会が独自の基準を設けて第三者による判定委員会等で認定しているものだ。この制度により2004年度に引き続いて500人を突破したことが報道されている。

指導不足は教員経験の浅い若手教員に多いのかと思う人も多いと思うが、指導不足と認定された教員の6割が20年以上のキャリアを持つベテラン教員だという。指導不足教員の内訳を年齢別に見ると40歳代が最も多くて45%、次いで50歳代が37%と40歳以上で8割以上を占めている。

この結果が物語っているものは何だろうか。パターンに嵌った授業方法や世代格差によるコミュニケーションギャップが指摘されているが、それは結果の一部でしかないと思う。
より本源的な原因は「何のため」に教育を行なっているかという目的意識の欠落にあるのではないか。言い換えれば「教師としての自分の使命は何か」という問いかけを行なっていないか、真摯に思索することを怠っているのだと思う。

子供にとって最大の教育環境は教師である。そのことを忘れてはいけない。そしてそれば教職にある者だけが問われる課題ではなく、何らかの立場で多少なりとも責任ある私たち全ての者が考え、行動すべき問題である。

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2005年7月13日 (水)

国語に関する世論調査

7月12日、文化庁から「国語に関する世論調査」が発表された。
調査概要は以下の通り。
調査目的:
言葉の使い方に関する意識,敬語に関する意識,漢字についての意識,手書きによる表記とパソコン・ワープロ等による表記についての意識や今後の手紙のあるべき作法についての意識等を調査し,国語施策を進める上での参考とする。
調査対象: 全国16歳以上の男女3,000人
調査時期: 平成17年1月14日~2月7日
調査方法: 個別面接調査
回収結果: 有効回収数(率)2,179人(72.6%)

調査の主たる目的は上記の通りで、時代の状況要素としてはワープロソフト等の普及による言葉遣いの変化なども大きな視点のひとつとなるだろう。
メディア報道では主に例年取り上げている慣用句等の意味の理解や使用実態について報道している。調査結果のサマリーでも取り上げられているし、その視点の方が読者にとってもわかりやすくておもしろいということも言える。まずは調査の主目的をよく理解したうえで個々の回答内容を見ていくことが重要だ。

言葉は常に変化するものだ。変化すること自体を悪と決めるのは正しい認識とは言えないと私は思う。大切なことはその変化が使う民衆のためなのか、逆に築いてきた文化習慣を破壊する半民衆的行為なのか、その見極めである。
人の心の乱れは言葉に現れる。また言葉は言霊(ことだま)であるとも言われて人の気持ちを表す大切な行為手段とされてきた。言葉を軽視する風潮が時代と共に増えている感もある。書籍を読まない人が急増していることも実感する。桂冠塾という読書会を始めたのもそうした風潮への警鐘という意味もある。
読書会【桂冠塾】詳細はこちら

さて調査にあった設問の一部を紹介。あなたは正しく答えられますか?
正解は国語に関する世論調査結果をご覧下さい(*^_^*)

「他山の石」とは?
(ア)他人の誤った言行も自分の行いの参考になる
(イ)他人の良い言行は自分の行いの手本となる
「枯れ木も山のにぎわい」とは?
(ア)つまらないものでも無いよりはまし
(イ)人が集まればにぎやかになる
どちらが正しい?
(ア)会社が学生を青田買いする
(イ)会社が学生を青田刈りする
どちらが正しい?(その2)
(ア)前回失敗したので今度は汚名挽回(ばんかい)しようと誓った
(イ)前回失敗したので今度は汚名返上しようと誓った

文化庁ホームページ
国語に関する世論調査結果

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