カテゴリー「教育」の記事

2013年1月17日 (木)

受験を中止? 桜宮高校問題への橋下市長の対応に苦言を呈す

橋下市長がまた判断を間違えている。
入試を目前にした大阪市立桜宮高校における体育科とスポーツ健康科学科のあわせて70名の入試中止を口にした。
バスケットボール部で行われてきた体罰と自殺者を出したことに対する改善策の一つとして記者会見で橋下市長が発表したのだ。

一人の人間が自ら生命を断つという状況に追い込んでいった教育の現場を根本的に改革するのだという意気込みは不可欠だ。しかし、だからといってそのツケをこれから自らの進路を切り開こうとしている、現中学3年生の受験希望者に負担させる必要がどこにあるのだろうか?

考え違いをしている。

責任を負担し改革すべきは、教育をする側にある。
教育を受ける側に責任があるわけではないのだ。
しかも、願書提出締め切りまで1ケ月を切ったこの時期の発表。
「教育の現場がわかっていないのは橋下さんあなたもですよ」とか言いようがない暴挙である。

新入学生を受け入れないことが事件への禊ぎになるのか?
空白の一年間を作ることに何の意味があるのか?
その高校での部活を夢見て頑張ってきた中学生の思いはどこに持っていけばよいのか?
「体育系志望者は普通科へ」なんて何と非現実的な発言なのか...
受験生の思いも、受験勉強の実態も、子供たちの将来の進路も、何も我がこととして感じていないではないかと思わざるを得ない。
橋下氏に本当に改革しようとの決意があるのであれば、どんなに苦しい状況下であっても、希望する受験生がいる限り、子供たちの立場に立って物事を熟慮すべきだ。すぐに改革に着手し4月の新入生受入れまでにできる限りの体制を回復させる。そのうえで希望する生徒を受け入れ続けて、苦しい状況の連続の中で改革を進めるべきだ。
いったんすべてを止めて改革をする、なんでいうのは聞こえはいいが、偽善であると断言したい。

希望していた受験生がこの高校を選ぶかどうか。
それは受験する本人が決めることである。

そもそも今回の問題はどこにあるのか。
桜宮高校の問題なのか、それとも体罰という教育現場で続けられてきた暴力問題なのか。
桜宮高校の固有の問題であれば橋下氏の対応もある程度の共感も得られるかもしれない。しかし多くの人が気づいているように、桜宮高校固有の問題ではない。
言いかえれば桜宮高校以外でも、判明していないだけで存在している問題ではないのか。そうであれば桜宮高校の受験を中止しても何ら問題に肉薄することはできないと思うのである。
桜宮高校の体育系教員全員を配置転換せよとの橋下氏の主張も、彼が主張するように桜宮高校の教師自身に問題があるというのであれば、配置転換によって問題を他校に拡散することになる。問題の本質に迫る対処というよりも、感情的な懲罰に近い印象に感じてしまうのはそうした理由にもよる。
長期にわたる勤務が問題であるならば、桜宮高校に限定せず、一定年数以上同じ学校に勤務する教員全員を対象にしなければ筋が通らない。

バスケットボール部の部活停止の方針もあると聞く。
それこそ大人の論理だ。
バスケ部で頑張ってきた生徒達に何の責任があるのか?
生徒達の不祥事ではないのですよと強く訴えたい。
部活停止などにすれば、逆に、どんなに生徒達に迷惑をかけると思っているのか。
キャプテンの自殺で大きな心の痛手を負っているというのに、それに加えてさらに部活ができなくなれば、生徒達は二重三重に被害を受けることになる。

とかく橋下氏の言動は容認されることが、ままある。
他の人が同じ発言してもバッシングされることであっても、橋下氏が言うと支持される傾向がある。
今回も問題でも「橋下氏が断固たる行動を取ろうとすることで多くの人がこの問題に注目している」「通り過ぎてしまう危険を阻止している」という声も多い。
この点については否定するものではない。
過去に何度かこのブログでも指摘しているように、一方の極論をぶち上げることで議論を活性化し、世論を集め、最終的にはその世論を踏まえて妥当なとことで落ち着かせるというのは、橋下氏の手法でもある。

http://prosecute.way-nifty.com/blog/2012/11/post-02b8.html 
橋下氏独特の世論形成のためのパフォーマンス手法だとは、思う。難しい議論となる一方の極論をぶち上げておいて、比較的多数派となる「落とし所」で世論を獲得する。最初から民意と思われる主張をしても「平凡だ」と思われるだけだが、極論をぶち上げたのちに、自ら多くの意見をくみ取ったというステップを踏んだように見せれば、多くの有権者の支持を得ることができる。
弁護士である橋下氏が、法曹の世界を渡り歩く中で、自然と身につけてきた必勝戦術法なのかなとも思う。

ただ今回の問題はそれだけではなく、さらに重要な要素を含んでいるように思われる。

一見すると潔く、英断のように見えることが、その本質に「逃げ」の生命が巣くっていることがある。今回の橋下氏の言動が、まさにそうだ。
橋下氏は自分自身が問題解決に取り組もうという決意が足りないと指摘したい。そんなことはないという声が聞こえてきそうだから、さらに言わせていただくと、その決意とは裏返せば、問題の端緒は自分自身から発しているという責任感ということになると思うからだ。
その認識がないと、どんな強い決意であっても、どこまでいっても他人事に終わってしまうと思うからだ。

代表的な東洋思想のひとつに「本因妙」という考えがある。
様々な森羅万象、自然界的また社会的な現象はそれぞればらばらに起きているように見えるが、その根本は各人自らの生命の動きから発しており、困難な環境であっても自らの決意と行動で変えていくことができるという生命論的思想だ。
混沌とした現代の難しい諸課題を解決する精神的主柱とすべき考えであると、私は常々思っているが、教育を取り巻く環境の改革は、まさにこの姿勢が不可欠ではないだろうか。

教育委員会を指弾するも、いい。
桜宮高校の現場の教師の責任を追及して、配置転換させるのも、市長の権限でできるのであれば、それはそれでいいだろう。
しかし、だ。
そんな現状を抱えている大阪市の最高責任者になったのは、橋下氏、あなた自身だ。
それもみずから、望んで就いた仕事である。
回りの人間や、役職上の責任を云々することの、もっと根本的なこととして、その立場に就いたということの意味をもう少し深く自覚することから出発すべきではないのか。

人間にはその人に与えられた使命というものがある。
大阪市長になった以上は、大阪市民の生命を守り、幸福を実現するために尽力する使命と責任、そして義務がある。
その根本は、その責任にある者が、すべては自らの行動から端を発すると自覚することから出発するのではないだろうか。
自らの自覚と祈りが届かず、この子供を守り切ることができなかった。
その思いが橋下市長にあれば、必ず解決の道は開かれる。
橋下氏にはその自覚と決意を、市民に表明する責任もあるはずだ。
関係者を指弾する激しい発言よりも、亡くなった一人の人間への真摯な追悼の言葉、自らの立場から発せられる心の言葉があってほしい。
今の橋下氏には、それが足りないのではないか。

事実、橋下氏からは教育委員会や桜宮高校の教員への責任追及の発言は連発されているが、在校生やこれから高校入学を目指す生徒たちへの言葉や配慮は、何一つないではないか。
今後の教育方針の立て直しだとか改善策だとか委員や教員に求めるのであれば、橋下氏自身が、まず自分の考えを表明すべきではないのか。
今の状態は責任の擦りつけのように見えてしまう。
他者に責任を求める前に、まず橋下氏自身が自分の考えを述べ行動せよ。
それが大阪市長の責務である。
あなたが日頃行っているように「あなた自身が最高責任者なのですよ」と言いたい。
果たして事件から何日が経過すれば橋下氏は建設的な意見を述べるのであろうか。
市民はよくよく注視する必要がある。

そして議論は全力でスピード感をもって建設的な方向に進めるべきだ。
具体的な再建方策も、事件直後から着手しているのであれば第1次案などが出てきてよい時期ではないのか。おそらく橋下氏のような言動が続いていることから見れば、そのような取り組みは相当遅れていると思われる。
その気になれば4月の入学どころか3月の卒業式までに対策を発表することも不可能ではないはずだ。それがもっと時間をかけないとできないというのであれば、橋下氏は今まで教育問題を真摯に考えていなかったと自白しているようなものである。

自分自身の責務として、今起きている出来事に真正面から取り組むこと。
その思いがあれば、どんな困難な道程であっても、必ず踏破できる。
全ての人にあっても等しい哲学理念であると思う。
私は、一人でも多く人がそう信じて進んでいってほしいと念願するものである。

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2012年6月25日 (月)

鍛えの夏 近づく

今日で6月も25日。
夏7月がもう目の前になりました。
乃東枯(なつかれくさかるる)から菖蒲華(あやめはなさく)の季節。
野山に咲く草花も夏へと移ろいながら、梅雨の雨が今しばらく続いていきます。

子供たちの夏休みまで一ケ月を切り、それぞれのご家庭では「夏休みをどうするか!」と家族会議を持っている方も多いのではないかと思いますcancer
夏の季節は屋外で活動的に過ごしたいと思う反面、昨今の温暖化による猛暑や熱中症の危険も指摘されるなど、活動量を控えめに過ごそうとされる方も少なくないように思います。
一方で仕事に従事されている方の中には、長期の休暇をとりやすい方も少なからずおられると思います。各地の大学等の機関では、地域の住民の方々を対象としたサマーキャンパスや市民公開講座などを企画開催されるところも多くあります。

私の母校である創価大学でも毎年8月に夏期大学講座が開催されてきました。昨年は3.11後の節電のために開講されませんでしたが、先日本年の実施要項が発表になりましたbook
http://www.soka.ac.jp/about/lifelong/summer_seminar.html

大学講座の開講を心待ちにしていた方も多くおられたことと思います。
生涯学生の気概で、言葉の通り「生涯学習」を続けていこうという気持ちは多くの方が持つと思いますが、現実の社会の中で日々奮闘を続けていると、どうしても物理的、気持ち的に中断や休止せざるを得ないこともあります。そんなときに、今一度原点に立ち戻り、決意と行動を一段と推し進めてくれるという意味でも、大学でのこうした取り組みは是非永久的に続けていただきたいと念願しております。

「大学は、大学で学べなかった人のために存在する」

最高学府の存在意義は、この一言に集約される。
さあ!今年もわが人生に挑戦するとの熱き決意で、鍛えの夏を一緒に楽しく迎えていきましょう。

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2009年9月14日 (月)

それでいいのか?民主党が教員免許更新制度を廃止

民主党参議院議員会長の輿石東代表代行は、12日の記者会見で「教員免許更新制度」を廃止する法案を来年度の通常国会に提出する考えを発表した。
教員免許更新制度は今年4月に施行されたばかりの新しい制度。
教育現場における長年の懸案事項であった指導力、学力の著しく低い教員への対策として打ち出された新しい試みである。

施行後半年も経たない制度を早々に廃止するという。
民主党のマニフェストでは「教員免許制度を抜本的に見直す」とあったが、民主党の言う見直しとは制度を廃止することだったのか?
この制度がすばらしいとは言わない。しかし、単に廃止するだけでは逆行、退行するだけではないのか。
廃止後にどのような対策を打つのだろうか?
マニフェストには「教員の養成期間は6年制(修士)とし、養成と研修の充実を図る」とある。しかしこれでは一度教員になれば定年になるまで身分が保障されることには変りがなく、かつ教員の資質の何を是正するのか何も示されていない。

民主党の考えている制度変更のままでは、改革の逆行になりはしないのか?
未経験の時点で2年の養成期間を追加することと、実務を重ねた経験者への再教育を行なうことと、どちらが有効性が高いのか?民主党は本気で比較検討してほしい。
民主党案では、教員になりたい若者の経済的、時間的負担が増大することも見逃してはならない。
結局、これから教員になる若者世代に負担を押しつけて、既に教員になっている人達(この人達の能力不足が問題であるにも関わらず!)は既得権を守ろうとしている、という結果になりかねない。

民主党の行動には「その後」が見えてこない。

輿石氏は元々は日教組の出身。
自分の支援基盤の利益を守っているとの批判は当然起きてくる。
自分の支持母体の利益を最優先するのであれば、自民党政治と何ら変わない。
他の政策との整合性を考える技量や経験がない分だけ、未来への責任の実感が足りない分だけ、自民党議員よりも、たちが悪いだろう。

日教組の代表として、教員の身分保障を最優先とする既得権を守ろうとしているのでは?という視点で民主党のマニフェストを読み返してみると、納得がいってしまう項目が並んでいる。「教員が子供と向き合う時間を確保する」という目的を掲げることで「教員を増員」する主張はその典型だ。
現在でさえ、資質に問題がある教員がいると指摘されているのに、その問題への具体的な対処が明示されないままで教員を増やすと、さらに質の低下が増大するのではないのか?
民主党の政策の甘さ、整合性のなさは、同一分野においても既に綻んでいる。
実に底が浅い、幼稚だ、と言わざるを得ないだろう。

輿石氏よ。民主党よ。
あなたたちの行動が「改革」だと主張したいのであれば、国民の疑問を解消してくれる能動的な「対案」を提示してほしい。
有権者に選ばれた議員である限り、どんなに間違っても、支持母体への利益誘導は、やってはならない。

教育は教員や国家政府のためにあるのではない。
教育は、未来を生きる子供たちのためにこそ、あるのだ。

【関連リンク】
教員免許更新制の廃止法案、通常国会に提出も 民主・輿石氏(日経ネット)

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2009年6月19日 (金)

教育関係者らが発足「新漢検」に期待 10月に初検定

前理事長の大久保昇、前副理事長・浩親子による背任行為等で社会問題化している日本漢字能力検定協会。
彼らが行っている「漢字検定」は学校教育の一環として位置づけてられている側面もあり、教育関係者の間では今後の対応が苦慮されている。

今回、毎日新聞のネット記事で、高校中学の校長経験者らが一般財団法人を設立し新たに漢字検定を始めることが報道されている。
従来の漢字検定との混同を避ける意味もあるのだろう、「新漢検」との愛称で普及を図るという。

短期間での準備にもなり、実務を担当するスタッフを揃える余裕も充分ではないと思われるので、スタート当初は何かと不手際も発生することも予測されると思う。
しかし、現状への不満を述べるだけではなく、自ら解決の方途を探り実行しようという姿勢に、賛同のエールを贈りたい。
この事件を単なる悪事に終わらせることなく、よりよき改善の契機となることを祈りたい。

【関連記事】新漢検:10月に初検定 元高校教諭ら組織 - 毎日jp(毎日新聞).
【新漢検について】日本漢字習熟度検定機構
【従来の漢字検定】漢検 財団法人日本漢字能力検定協会

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2007年10月 4日 (木)

教科書検定を見直す時期に

第二次世界大戦中の沖縄戦に関する高等学校日本史教科書の記述削除をめぐり、沖縄を中心に大きな世論が巻き起こっている。
昨月29日には11万6千人が参加した「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開催され沖縄の総意として決議文が採択された。今月3日には、仲井真弘多沖縄県知事が渡海紀三朗文部科学大臣に面会し、検定意見撤回と削除された記述の復活を直接訴える事態に発展している。

日本の学校教育で使われる教科書は検定と呼ばれている。
報道等で繰り返し説明されているので詳細は必要ないと思うが、戦前の国家主導型教育の反省から、各分野の専門家によって構成される「教科用図書検定調査審議会」によって検定が行なわれるようになった。しかしその実態は専門分野(教科)毎に数名で行なわれており、記述内容を精査するという行為には程遠いのが実情だ。結果的には文部科学省の「教科書調査官」数名がまとめた検定意見等をたたき台として、矛盾点や不整合がないか程度を見ていくだけになり、論議がある点や意見が分かれている争点については無難に事を運ぶ傾向が続いていた。
《参考》教科書検定の流れ

報道によると、今回問題となっている沖縄戦での集団自決について5社の2006年度版日本史教科書に検定意見がつけられた。東京書籍、実教出版、三省堂、清水書院、山川出版社である。
検定意見書として「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」と書かれており、「日本軍により」「強いられ」「追い込まれ」等の表記が削除となっている。
これについて文部科学省は「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」と説明している。(『沖縄タイムス』記事より)

今回の争点は大きく2つの視点でみるべきだと思う。
一つは、直接的問題、つまり「日本軍による関与があったのか、なかったのか」という歴史的事実。
もうひとつは、システム的問題としての、教科書検定のあり方である。

沖縄の集団自決は歴然とした事実である。
日本軍の関与に反論する論客達は、命令書等の証拠物件や発令記録の有無を争っている。
しかしそれは本当に正しい論点なのだろうかというのが私の疑問点だ。
たとえ命令発布の記録がなかったとしても、沖縄は日本国本土決戦を阻止する「最後の護り」「一億総玉砕」「火の玉になって」等々様々な報道が繰り返されていたことは誰も否定できない。
そのような状況下で、あれほど多くの沖縄に住む同胞たちが自ら身を投げ、手榴弾で生命を絶った事実をどのように受け止めなければならないだろうか。
自ら生命を絶つしかないという判断しか選択できない状況に追い込んでいたのは、まぎれもなく日本国軍部である。その事実は動かしがたい、と私は思う。

教科書を第三者機関である「教科用図書検定調査審議会」に全権を託すというのであれば、文部科学省の関与を完全に排除すべき時を迎えているのではないか。
以前から現在の三権分立(司法、立法、行政)から「教育権」を独立させて「四権分立」にすべきと主張する識者がいる。すでに30年以上前からの主張と伺っているが、時代を見通した卓越した見識である。
教育権を独立させるためにはその経済的原資も必要となる。
税金で賄うような考えでは今とまったく変わらない。
まず教育権を統括する独立採算機関を設置し、小学校から大学、大学院にいたるまでの設置認可などの全般を政府から移管する。現在の学校教育機関等に納付する授業料等の中から、この機関の運営に関わる原資を賄うといったしくみが適切ではないかと思う。
この機関の一部門として「教科用図書検定調査審議会」の機能が存在する。このようなイメージが必要になるのではないか。

一国の利益不利益に左右されない、正しい意味での世界市民育成のための教育が求められている。

【関連リンク】
Yahoo!ニュース 沖縄集団自決と教科書検定
Yahoo!ニュース 教科書検定
外務省 日本の教科書検定
文部科学省 教科書制度の概要
ウィキペディア 沖縄戦(集団自決の賛否両論の論拠解説あり)

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2007年8月24日 (金)

第35回夏季大学講座が始まる

毎年8月に行なわれている第35回創価大学夏季大学講座がはじまった。
今年は24日から26日の3日間開催される。毎年1万人が参加する日本最大の市民講座である。
私は2003年に初めて受講し、今年で5年目となる。
心理学や脳科学、音楽、Webや歴史、文学、法律、バイオ、古典や平和学など多彩なテーマでも知られるようになった。
今年は親子で参加できる科学実験教室も開催される。
鍛えの夏にふさわしい研鑽のひとときにしたい。

〔関連リンク〕
2007年度夏季大学講座
個人的な案内ページ http://www.prosecute.jp/keikan/2007summer.htm

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2007年1月24日 (水)

いじめ調査を拒否する教職員組合

北海道教職員組合(北教組)が全道あげてのいじめ実態調査に対して、協力しないよう指導していたことが報道されている。読売新聞には、北教組本部の小関顕太郎書記長が調査への組織的な非協力を文書で指導したことを認めたうえで、「いじめの実態は学校現場で把握し、対応している。全道一律の調査は必要ない」と話した旨が掲載されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20070124wm00.htm

何を言わんか、である。学校現場で対応できているというのであれば、なぜ死を選ぶ子供たちが後を絶たないのか。いじめの問題は「いじめ」だけの問題ではない。その根には人間として互いに尊敬し信頼しあえるかどうかという心の問題がある。
ある教室では、教員から生徒に調査用紙が配られた際にその教員の口から「提出しなくてもいいからな」との発言が出たことも報道されている。状況から類推するとほぼ事実であると思われる。こんな発言をする人間が教壇に立っていること自体が問題だ。裏表のある言動、物事への不真面目さ、人間不信を肯定助長させることに気がつかないのか。
もちろん調査をすることが即問題の解決になるわけではない。しかし現状を把握せずして現状を打開することができないのは自明の理である。

そうした教員の言動に対して、児童生徒の父兄からは批判、憤慨の声があがっているという。当然だ。そうした教員に対してはもっともっと弾劾の声をあげることが必要だ。
巨悪も最初は小さなところから始まる。小さなことだからと見過ごすことは許してはならない。

悪しき言動を見て放置するのは、悪を行なうことと同罪である。

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2007年1月20日 (土)

大学入試センター試験始まる

2007年度の大学入試センター試験が始まった。20、21日の両日に全国の55万人余の受験生が自分自身の進路を目指して全力を尽くす。
例年、大雪になることも多いセンター試験の日程だが、今年はなんとか天候がもちそうな様子。それぞれの方が持てる力を発揮できるよう応援したい。

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2006年10月26日 (木)

全国の公立高校で必修科目の不履修が発覚

全国の公立高校で社会科の授業を中心に必修科目の授業が行なわれていない実態が報道されている。25日現在で11県65校が授業不実施が判明、過去には85校が必要な授業を行なわなかったことがあるらしい。

私が高校に通っていたのは25年も前になるが、受験しない科目を軽視する傾向は昔からあった。私は岡山県の県北にある県立高校に学んだが、2年次からは国立文系、私立文系、理数系の3コースにクラスが分かれ、受験科目に重点を置いたカリキュラムが編成されていた。おそらく今でも傾向は変わらないと思う。特に私立文系クラスでの授業カリキュラムは極端だったことを記憶している。全校を通じて「公民(倫社)」「地学」の授業は存在しなかった。
おそらく学習指導要領内で最低ラインをクリアしていたのだと思うが、生徒だった人間からみれば、極めていびつだった印象はいまだ持って拭い切れずに鮮明に記憶されている。

報道では現役3年生の不満やるかたない声も多く紹介されている。
私達はこの問題の本質を見抜くことが大事だ。それは
(1)そもそも学習指導要領に定められた学習内容は不要なものが含まれているのか
(2)大学受験科目に限定した高校教育に問題はないのか
という点ではないだろうか。

よく指摘されることであるが「知識」と「智慧」は似て非なるものである。教育の本来の目的は、よりよく生きるために自ら考える力を育み、よりよき人生観、生命感、世界観を伸ばし、それを具現化する力を産み出す土壌を作ることではないだろうか。
智慧を育てていれば後から入ってくる知識の正邪を判断し取捨選択して活かすことができるが、知識だけではその人が元来備えている資質に頼るしかなく、正しき知識を活かすことができない危うい状況がここかしこに生まれてしまうと私は思う。
その意味で「智慧」なき「知識の蓄積」が現代社会の病巣の原因だと言えよう。

何のための教育か?何のための学習指導要領か?
今回の高校不履修問題の根本原因は理念なき日本の教育実態の一端に過ぎない。

《関連サイト》
毎日新聞「履修不足:全国の多くの教委「把握せず」「調査せず」
毎日新聞「履修不足:「卒業できるの」「受験は?」揺れる生徒たち

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2006年9月23日 (土)

教員の指導力不足

文部科学省は2005年度において公立小中高校などの教員のうち506人を指導力不足と認定したことを発表した。
これは2000年度から都道府県や政令市の教育委員会が独自の基準を設けて第三者による判定委員会等で認定しているものだ。この制度により2004年度に引き続いて500人を突破したことが報道されている。

指導不足は教員経験の浅い若手教員に多いのかと思う人も多いと思うが、指導不足と認定された教員の6割が20年以上のキャリアを持つベテラン教員だという。指導不足教員の内訳を年齢別に見ると40歳代が最も多くて45%、次いで50歳代が37%と40歳以上で8割以上を占めている。

この結果が物語っているものは何だろうか。パターンに嵌った授業方法や世代格差によるコミュニケーションギャップが指摘されているが、それは結果の一部でしかないと思う。
より本源的な原因は「何のため」に教育を行なっているかという目的意識の欠落にあるのではないか。言い換えれば「教師としての自分の使命は何か」という問いかけを行なっていないか、真摯に思索することを怠っているのだと思う。

子供にとって最大の教育環境は教師である。そのことを忘れてはいけない。そしてそれば教職にある者だけが問われる課題ではなく、何らかの立場で多少なりとも責任ある私たち全ての者が考え、行動すべき問題である。

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