カテゴリー「政治」の記事

2015年2月20日 (金)

地方創生 政治家の意識改革と地方の人材育成が急務

国会では平成26年度補正予算に続き、平成27年度予算の審議が行われ「地方創生」が声高に叫ばれています。
「地方創生元年」ともいえる本年。
各地域の主体的な動きがどこまで加速させることができるのか。
大変に重要な局面を迎えています。

だからこそあえて苦言を呈したい。
国会でどんなに真剣に議論され、素晴らしい予算編成を行なっても、それがどのように執行されるのか。その結果が重要です。

しかし今回審議の予算の多くは執行される先が事前に内定し、形だけの公告が行われているものが半数以上。
補正予算に至っては可決当日にはすべての予算配分先は決まっていました。

政治の常識からいえば当然と言えば当然のことなのでしょう。
施策実行のスピードをアップするという大義もあります。

1月後半、メディア報道された審議中の補正予算の概要を見た私は、この予算を活用するにはどうすればよいのか問い合わせをしました。
やはりこうした時には政府与党に聞くのが一番です。
ただ自民党は問い合わせ窓口がはっきりせず、もうひとつの与党・公明党に議員経験者を介してお聞きしました。
聞いた党関係者は、国会事務局の責任者です。
その方いわく「予算執行先は既に決まっている」とのこと。

では今後はどの時期から、どのような手順を踏んで進めたらよいのかと聞いたところ、

「各地方自治体(市区町村)から県へ問い合わせて、県から国へというルートが確立している」
「審議内容の事前情報もそのルートで通達されている」
「その正式な手順を踏んで問い合わせてほしい」

何とも杓子定規な回答でした。

それができていないからこそ地方創生が必要なのではないか?
あきれるやらなさけないやら...。
もちろん事務方と議員とは意識が違うかもしれませんし、お聞きしたその方個人の資質の問題もあるかも知れませんが、大衆の党を標榜する公明党ですらこの体です。

そうした地方自治体から能動的な動きが出てこないから地方における国民生活が行き詰っている。 地方自治体によっては予算編成の内訳を想定して半年、一年以上前から準備しているところもありますが、多くの地方自治体では担当部署の1~2名の職員の意識に任されているのが実態です。

そうした都市部以外の地方自治体のスタッフ育成、具体的な補助事業の進め方を指導しない限り、意識のない職員が担当する地域の住民には地方創生予算の恩恵を与かることはできません。
富める者は更に富んでいき、知らないものは損をする構造が拡大しています。

私はNPO法人の代表として岡山県で産直野菜の直売所を経営し、群馬県の自治体と地域再生の活動を進めるなど、日常的に地方の現場で仕事をしています。
その経験から、なんとか助成金を原資とした地域活性化の補助事業を当該地域でも行なえないかと様々な方策を模索しています。

補助事業(公的資金を使った事業)の多くは、その地域の地方自治体を含めた協議会等の設立が必要なことが多い。
要は一部の住民や団体に補助金が使われないように、その地域の多数を代表する団体が関わっていることを担保する。
そのため実質的に市役所や町役場の職員や首長の意識と行動力が欠落していると何も前に進まない現実があります。

それを各自治体の自己責任とか、正規のルートで問い合わせろとか言っていたら、今までと何も変わらない。

各地方自治体の職員の意識向上の具体策を!
民間と自治体が協働できる具体的な枠組みの提示を!
民間主導で補助事業が推進できる予算配分を!
事前情報のより広い公開と広報活動を!
具体的な補助事業推進のためのセミナー等の開催を!

官民が一体となってよりよき社会の創出のために協働することが重要であると感じる今日この頃です。

【関連リンク】
農林水産省 補助事業参加者の公募
まち・ひと・しごと創生本部

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2014年12月12日 (金)

集団的自衛権の行使容認 その認識は果たして適切なのか

年の瀬12月の衆議院選挙。投開票日が2日後に迫っている。
2年前に続いて2回連続の12月選挙になった。
歳末の多忙な時期で、かつ野党は候補者調整に奔走したためか実のある政策論争はほとんど見受けられない。事前の予想では自民党の圧勝、共産党の議席倍増との報道が目立つ。
そんな情勢でも様々なメディアでは、政策のポイントをいくつかに絞って各政党間の違いを図表にしたりして解説する報道が目立つ。
有権者にわかりやすく伝えようという努力なのだと思うが、解説するメディアの担当者や番組であれば出演者が正しく理解せず誤った認識で報道しているものも少なからずある。
その中で特に違和感を感じる「集団的自衛権」について少し糺してしておきたい。

NHKでさえも報道する「集団的自衛権行使容認の道を開いた」

先日のNHKのニュース番組でも、各党の外交安全保障政策を比較する前提の説明として「政府与党は海外で武力行使を可能にできる政府見解を発表した」という表現を使っていた。
また民主党、共産党をはじめ各野党は文章としては「専守防衛と平和主義を堅持する」「海外で戦争する国を作らない」等々の文言を掲げるにとどめているが、街頭演説等では「海外での武力行使に道をひらいた閣議決定を撤回させる」など「閣議決定=海外での武力行使容認」の構図を声高に叫んでいる。
共産党の議席倍増の予測という風は、そうした武力行使の危険への国民の反発ともいえるかも知れない。

確かに安倍首相の持っていた意図は海外での自衛隊活動にあったのだろう。
首相は政府見解を発表した記者会見でも、邦人輸送中のアメリカ艦隊との共同行動やシーレーン防衛についても言及している。
しかし安倍首相が言っているような事例も含めて、海外で部隊展開ができる政府見解になっているのだろうか。

もう既に忘れてしまった人が大半なのだろうと思うが、思い出してほしい。
5月下旬から7月1日にかけての緊迫した政治情勢を。
あの数十日間で集団的自衛権についての定義がどのように変わり、決定されたかを。

ひとつめのポイント 集団的自衛権行使の新3要件

今回の集団的自衛権の政府見解を2~3回繰り返して読めば多くの人は理解できるはずだ。
【リンク】→閣議決定全文 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について

「これでは日本における集団的自衛権の行使は国際常識から見れば個別的自衛権とイコールである」「集団的自衛権は絵に描いた餅も同然である」というのが事実である。
今回の政府見解はさほど長いものではないので実際によく読んでほしい。
政府見解をまとめる過程で、自民公明の二党は様々な協議を重ねて複数の歯止めをかけている。
何点かポイントはあるが、今日はその中で一つに絞って紹介していきたい。

政府見解の中核になるのは言うまでもなく集団的自衛権行使の新3要件である。
それは「3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置」の中で示された

1)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において
2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに
3)必要最小限度の実力を行使する

することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った-との文面である。
(※番号は便宜的にふりました。)

この文面からだろう、多くの人達は「集団的自衛権行使への道を開いた」と思っているようだ。この個所だけ見ればたしかにそのようにも読めるかもしれない。

誤解のないように一言触れておくが、この文章の中だけでも歯止めがかけられている。
・我が国の存立が脅かされる事態とは
・国民の生命、自由及び幸福追求の権利が覆されるとは
・「根底」からとはどのような事態か
・「明白な危険」とは
・他の適当な手段とは
・その手段がないという事態の判断は
・必要最小限度とは
・実力とは
・その行使の方法は
等々、行使を認定するためには個々の要件、その時点での情勢を審議することになる。
ただ今回はこの点は割愛して、次に指摘する点について論を進めることにする。

政府見解を「絵にかいた餅」にした 戦闘行為を行なっている現場の条件

しかし文章というものは全体をひとつのものとして見なければならない。
この前段である「2.国際社会の平和と安定への一層の貢献」の中で重要な前提条件を課している。それは

(ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
(イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。

という個所である。
つまり日本の自衛隊は戦闘地域での活動はできないのだ。また活動を行なっている場所が戦闘状態になった時点で休止又は中断することが決定しているのである。
この条件のもとでどう考えれば「海外で武力行使ができる道を開いた」という認識が出てくるのか甚だ疑問である。

実在しない 「集団的自衛権行使の新3要件」を満たす「非戦闘地域での活動」

さらに言えば「非戦闘地域での活動」に限定した個所から見れば、新3要件に当てはまる事態は我が国に対する直接的攻撃の場合以外には起こり得ないことになる。

言うまでもなく、直接的攻撃に対しては日本国として全力を挙げて自衛防衛を行なう。これは個別的自衛権の行使と呼ばれている。この点については議論の余地はないはずだ。

新3要件の冒頭の文章に続く「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」とは、戦闘状態を意味する。戦闘状態の地域では日本の自衛隊をはじめ全ての活動ができないのである。
つまり、「集団的自衛権行使の新3要件」を満たす「非戦闘地域での活動」は現実にはありえないのである。
日本の近隣海域でアメリカ軍が他国の攻撃を受けていても、日本の自衛隊は出動できないのである。なぜならば攻撃を受けた時点で戦闘地域になるからである。
そうしたことから結論を言えば、日本の自衛隊が武力行使ができるのは、日本の国土及び国民が直接攻撃を受けた場合に限定されるのである。
今回の集団的自衛権行使の新3要件の設定は、事実上、日本における集団的自衛権を個別的自衛権の行使の範疇に押し止めたのであるとの憲法学者等のコメントはこうした現実に立脚している。

正しく評価されるべき 公明党の果たした役割

今回の政府見解をまとめ上げた背景には公明党の努力があったことは明白であろう。公明党が「平和憲法に背く議論は行なわない」等の理由をつけて2党間協議の場を蹴っていたならば、自民党主導での政府見解の作成が行われ、おそらく海外における自衛隊の武力行使の道が開かれたであろうことは想像に難くない。事実他の政党であれば議論のテーブルにつかないという選択をするであろう。
しかし公明党は敢えて火中の栗を拾う覚悟を決めて2党間協議に真正面から取り組んだことで、日本の安全保障は憲法遵守の道を外れないで済んだのである。

改憲反対と声高に叫ぶだけでは平和を守ることはできない。
現実の立法の現場で、行政の現場で直面する戦争の危機と向き合いながら、打つべき歯止めを打っていく。これが政治の使命であると私は思う。
平和憲法を現実に護っているのは公明党であり、今回は相当な危機的状況であったなかで公明党だけがこの危機に立ち向かったことで乗り越えることができたのである。
社民党でもなく、共産党でもなく、公明党がやり抜いたのである。
この事実を私たち国民は正確に認識すべきである。

事実、政府見解発表後も安倍首相は「ホルムズ海峡での機雷除去に自衛隊が派遣できる」との個人的見解を述べている。しかし政府見解を基準に判断すれば、ホルムズ海峡に機雷が敷設された時点で国際法的には「戦争状態」に入ったことになる。そこに自衛隊を派遣することは政府見解として禁じているのである。
果たして今回の政府見解は安倍首相が当初想定していたモノとは変質してしまっていることを首相自身がわかっていないのかなと思ってしまう。

メディア報道では、自民党と公明党は政府与党とひとくくりにされることが多いが、明らかに違う思想を持つ政党なのである。

手続き上の歯止め「事前の国会承認」を機能させる投票行動を

それ以外にも、情勢の認定における歯止めや手続き上の歯止めもかけられているのが今回の政府見解の重厚さの所以でもある。
そのひとつが「事前の国会承認」である。

政府見解の中では「原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする」と明記されている。
上記のように明確に記述されている基準に基づけば、良識の府である国会において承認される海外派兵など存在しないことになる。たとえ安倍首相が「派遣できる」と主張しても国会承認がなければ派遣はできないのである。

来春には関連する法令が改正されることになり、おそらく事前の国会承認の具体的な文言が審議される。
全会一致というのは現実的はないため、「両院国会議員の3分の2以上の承認」等が国会承認の基準として審議されるだろう。

ただわずかの懸念をもつとすれば、最後の歯止めである国会が機能不全に陥っている状態であろうか。、仮に自民党単独で両院の3分の2以上の議席を持っていた場合で、安倍首相の考えで党議拘束がかけられたら危険な状態が生まれることになるかもしれない。その意味では自民党単独で3分の2の議席はとらせないことは、国会正常化の重要な要素になるだろう。

明後日に迫った衆議院議員選挙は良識の府たる国会を守る私達国民一人ひとりの戦いである。名実共に本当に働く国会議員を私達の投票行動で選んでいきたい。
そのためには、中途半端なメディア報道に惑わされることなく、何が真実かを見極めていきたい。間違った思想や認識は断じて放置してはならない。
そのように強く思うのである。

【関連情報】
閣議決定全文 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について

安倍首相、憲法解釈変更について会見「批判を恐れずに行動に移した」(HuffPost)

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2014年10月22日 (水)

国民感覚はどれも「違法」 うちわ論議

第二次安倍内閣を象徴してきた女性閣僚のうち2人が相次いで辞任した。
小渕優子氏の政治資金疑惑は調査結果を待つが、松島みどり氏のうちわ状の政策ビラ配布については違法との判断が妥当であろう。
公職選挙法に規定されておりかつ各地の選挙管理委員会が違法の事例として紹介している中にうちわが明記されていることからも、司法の判断を仰ぐべき事案である。

しかし、である。
なんだかしっくりこないなぁと思う人も多くいると私は感じる。
要するに松島氏本人もしくはスタッフが少し勉強していて、うちわ状のビラの「骨」や「持ち手」をつけなければ「合法」だったという点である。
問題の本質がそれだけであれば「次からは公選法をよく勉強して政治活動しようね」という話でもある。

しかし、それだけの話であろうか。
今回ネットや巷で話題になっているのは「うちわ状」の円形厚紙&親指を入れる穴があいている政策ビラの存在そのものである。
その形状構造から見て「うちわ」として使ってもらう意図は明白である。
「うちわ」として使ってもらうつもりがないなら、なぜ厚紙で円形なのか、なぜ穴があいているのか、しかも通常のビラよりも費用をかけて作っているのか、全く説明ができない。
だれが見ても考えても、「うちわ」として使ってもらうことで、捨てられないようにしばらく手元に置いてもらうようにしたいという意図がはっきりしている。

そうであればこれも立派な「うちわ」である。
法律的な解釈で「ビラ」と考えることができるからOKです、というのは国民感情としては「アウト」と感じる人が多いのではないだろうか。
法的な言い逃れができる言動を一般的には「脱法行為」という。
国民の範を示すべき国会議員が「法の抜け穴」を堂々と国会の場で晒すのは、果たして望ましい姿なのであろうか。

これは松島みどり議員をはじめとする与党議員も、追及をしている野党議員も同様である。今回の糾弾の急先鋒になっている蓮舫議員と民主党に至っては、「うちわ状の円形ビラ」を制作して配布している事実があることは様々な報道等によっても明白になっている。
たとえ法律的な解釈でセーフになるような行為であっても、その法律の「立法の精神」を順守して望ましい法律運用の模範を示すのが立法府を守る国会議員の使命であると私は思う。

こんな法律解釈で時間を使うよりも、行なうべき法案審議が山積している。
日本の政治は緊迫状態が続いている。
消費税10%への増税を行なうのか行なわないのか。
集団的自衛権をどのように具体的に運用するのかしないのか。
社会的マイノリティに対する施策をどうするのか。
等々...。

本国会(第187回)の提出議案の多くはまだ審議の端緒にもついていない。
【本国会の議案一覧↓】
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/menu.htm
一刻の猶予も許されない課題がいくつも法案として提出されている。
この現実を認識していない議員が多すぎるのではないか。
別の面で見れば、一日国会を開催するだけでどれだけの血税が使われているかも考えてほしい。いま行なわれている質疑応答の中身が一億円の税金投入にふさわしいかどうかを。
いま何をすべきか、国会議員たる者ならば、よくよく考えて行動してほしい。

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2014年2月 3日 (月)

何のための選挙なのか

大阪市長の橋下氏が市長の辞職と出直し市長選への出馬を正式表明した。
いったい何のつもりでいるのだろうか。

大阪都構想の民意を問うという。
しかし民意というのであれば橋下氏が市長に選ばれた時点で民意は示されている。
民意を受けて選ばれているのは橋下氏だけではない。
意見が対立している市議会議員も民意によって選ばれている。

議会との話し合いや折衝を経ても自分の考えが実現できないからということでその度ごとに出直し選挙をしていては、何のための任期なのか何のための議会なのか、わからなくなる。
それが正当な市長辞任の理由だというなら、日本全国あちこちで一年中、出直し選挙だらけになってしまう。

6億円という選挙費用も看過できないコストだ。

自分の意見が通らないから選挙。
そんな考えでいる人に、自治体の長たる資格はないのではないだろうか。
それでなくても地方自治体における首長の権限は絶大だ。
実質的に地方自治体に三権分立は存在しない。
なによりも政治に関わる者という以前に、人として、意見の異なる人とも対話を続けることが求められている。
どこまでも議会の中で、市長として堂々と主張し、一人一人を納得させるために、どこまでも根気強く一対一で対話を続けていくべきだ。

私はそんなふうに感じている。

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2013年7月20日 (土)

私達がとるべき投票行動とは-参院選投開票の前日に思う-

明日21日(日)は参議院議員選挙の投開票日ですね。
既に期日前投票を行なった方もおられると思います。当日20時までの投票締切り後、即日開票で翌朝までに改選121議席の行方が確定する見込みです。
年を追うごとにどのような政治家を議会に送り出すのかが重要になってきていると痛感します。特に国政選挙においては、個々の政策が当然重要であることに加えて、今後の国政の方向性をどのように定めていくのか、国の舵取りを誰に託すのかという命題が問われます。
私達有権者はどのような基準で政治家を選ぶべきか。
今日は私の個人的な考えを少し述べてみたいと思います。

■多様化する生活

日本の国会では年間100~120本程度の法案が成立しています。そのすべてが自分自身の考えと一致するというのはなかなかありえず、私も毎年数本は「これはどうなのかなぁ」と感じる法案が成立しています。現実には7~8割が納得できれば御の字というのが一般的な感覚なのかもしれません。
ただしこの違和感がある数本に自分自身の生活に影響する問題が含まれていたりする時に人は判断を迷う、ということも多いかもしれません。
時代を追う毎に社会は多様化し、個々人の意識は集約しにくい時代へとなっています。それは良い意味では、一人ひとりが自立する時代を迎えているということでもあると思います。望ましい傾向である一方で、常に利害が相反する人達が存在するということであり、民意を過半数以上に集約しにくいのが現実です。政治や行政的な施策を執行する立場から見れば、いかに頑張っても常に評価が相半ばする時代とも言えると思います。

■「政策」中心で決定することの危うさ

このように個々人の生き方が多様化する時代においては、個々の政策を投票行動の基準とすることは極めて危ういということにもなるでしょう。実際に「この政策はA候補に賛成」「こっちの分野はB政党に考えが合う」と決められない状況になってしまいます。
マスメディアや多くの識者の方々を含めて、実績や政策の公約を比較して投票先を決めることを勧めていますが、そうした比較検討は、実は結果的として、選挙のたび毎に右に左に民意が揺れ動く不安定な政治状況をつくってしまっているともいえるのではないかと思うのです。
情報を収集して比較検討するという行動は、今の無党派層と呼ばれる有権者の最大多数の人々の行動基準でもあると思いますが、その行きつく先が必然的に毎回の選挙で政権が変わる結果に繋がっていると私は感じています。
今後もそんなことをしていたら、政治と政治家の劣化は加速度的に進んでしまう。
結果として被害をこうむるのは国民である私たち自身である。
そのような危機感を感じてなりません。

■比較検討する有権者の裏をかく政治家達

こうした危険を回避するために有効な方策として一般的には2つの方法があると考えられています。
①マニフェスト等で公表された公約と、今までの実績を比較して本当に実行できるのか検証する
②各政党、候補者の経歴等を調べてどのような政治信条を持っているか検証する

この2つの視点で検証するだけでもそれぞれの政治家の真意に迫ることができます。しかし被選挙民である政治家達にとって不都合な真実は往々にして伏せられているものですし、耳障りの良い言葉でオブラートに包む政治家が多くなっています。
結果として責任ある政治行動をとる政治家は激減し、その場しのぎの票目当ての発言が日常化する。有権者が良かれと思って比較検証という行動をとったがゆえに、真実は更に見えにくくなるという悪循環を起こしています。

耳触りのよい主張。
今回であれば原発問題はその典型でしょう。「原発即時ゼロ」と言っている政党が4~5政党ありますが、現実に安全に全停止しようとするならば、1~2年のソフトランディングをする必要があることは自明の理。今日か明日、完全に停止するなどできるはずもない。原子炉に残っている使用途中の核燃料や行き場のない使用済み燃料、炉心の冷却水の処分、中間処理施設にたまっている使用済み燃料の処分、さらに原子炉を完全停止させ安定冷却するまでに発生するかもしれない災害への対策等も含めて対処すべき項目はいくつもある。それらの対策を講じるためには公明党などの政党が主張している「原発ゼロ社会」へのロードマップと同様な時間軸になるのは必然です。その違いは、実際に実務を遂行する覚悟の上の発言か、そうでない発言かの違いとも見えます。
しかし、おそらく各党各候補者ともわかっているのに「即時」と言った方が“聞こえ”がいいし、他党と差別化ができるから「即時」という。マスメディアはわかっているのかいないのか、大きな違いはないのに政党名と政策をマトリックスにまとめて「○」とか「△」とかつける。そんなからくりは、少しでも原発ゼロのためにどうすればよいか学習した人間であれば誰にでもわかる。
こんな見え透いた、聞く人に思い込ませる“未必の嘘”を天下の政党が早々と発言するから多くの国民は誰にも期待しなくなり、「投票にいかない」という無作為の行動が蔓延してしまう。
4年前の民主党による政権交代とその後の失政は、この構図そのものです。

■政策や政治信条の奥にある思想哲学

今私達が政治家に求めるべきものは何か。
掲げられた政策の是非だけではなく、そうした政策が出される根本にどのような思想哲学があるのか。そしてその思想哲学が空理空論では意味がない。本当に私達の日常生活に有為に貢献する思想哲学であるかどうか。
その一点が確固たるものであれば、どのような社会状況になったとしても有機的に対応することができる。想定外の突発事故があったとしても、判断を誤ることなく最善の政治判断と決断を実行することができる。
そのような政治家に政治を託すのが最善の道であると思うのです。

■一人ひとりの幸福の確立こそ社会が目指す姿

大上段に「社会の繁栄だ」「世界の平和だ」と叫んでも実際には何も変わらないことが多々ある。
逆説的に聞こえたとしても、やはりまず個々人の幸福の確立があってこそ国家も世界全体も豊かで幸せな社会を実現することができる。その点に異論を言いたてる人はいないのではないかと思います。
その意味では、幸せになるために社会体制を変える必要があるとか、政権を交代させればよい時代が来るなどという考えは、全くの虚構であると断言しておきたい。

政治はその国家や団体に属する全ての民衆の幸福に寄与するためにこそある。
だからこそ、政治には幸福を確立ための理論と哲学が必須なのであると訴えたい。
そしてその思想哲学は一人ひとりの生命をどこまでも尊重し、一個の生命の持つ限りない可能性を信じて現実生活に現わしていこうとするものであるべきである。
私はそのように思うのです。

■生命尊厳の思想

生命と宇宙のリズムを根源的に解明し、幸福になるための実践を具体的に展開してきたのが東洋思想が持つ英知であるとするのであれば、その生命哲学を実践する一人ひとりが社会のあらゆる分野で生命哲学を根本として、一人の人間として具体的な行動をとっていくことが生を受けた者の使命であるとも言えると思います。
政治の分野においても、今こそ生命尊厳の思想を持った政治家が求められているのではないでしょうか。これから日本は憲法改正や国防、国際貢献の在り方が議論される時期を迎えていきます。少子高齢化は既定路線となり社会福祉の財源をどのように考えていくべきかなど、国家運営の岐路に立っています。このような重要な局面にこそ、生命尊厳の哲学を有する政治家がかじ取りをしていくべきである。
そのように私は感じています。

そうした意味においても今回の参議院選挙は重要な意味を持つと思います。
自分自身の思いをしっかりとみつめながら継続して語りあっていきたいと思う今日この頃です。
論点が前後したりまとまりのない文章になってしまいましたcoldsweats01
申し訳ないです(^_^;)
皆さんはどのように感じられますか?

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2013年6月 6日 (木)

安倍政権/成長戦略を正式発表 個々の戦略に思う(農業編)

今月5日、安倍晋三首相は、日本の長期的成長を達成するための成長戦略を発表した。日本再生のための「3本目の矢」と位置付けた重要な戦略である。

その内容は多岐にわたり、様々な戦略の分析、構築がなされたものと推察される。日本を必ず再生させるのだという挑戦的意欲を大きく評価したいと思う。
それと共に、目的達成のために重要となってくる個々の政策についての評価については別物である。特に気になった点について私見を述べておきたい。

発表の中で安倍首相は「民間の創造的な活動を鼓舞し、国境を超えたあらゆるイノベーションを日本の中で起こす」と述べ、「国家戦略特区」「国民総所得150万円増」などの言葉が並んだ。
そしてとくに重視されていたのが、「民間活力の爆発」のキーワードである。
具体的な産業事業として、医薬品のネット販売、医療、交通インフラと並んで、民間の重要産業の一つとして農業が明示されている。

農業についての政府の認識として「変革が遅れる農業」と位置づけられていることは明白だ。その当然の帰結として「国際競争力」をつけることが成功の要因とされている。

しかし果たして、そうなのだろうか。
私は、農業分野の事業展開を推進してきた立場の一人として異論を唱えたい。

いま、日本の農林漁業は大きな転換点を迎えている。
地方に住む住民の高齢化による限界集落の維持問題、第一次産業の後継者問題、雇用の急激な減少、少子化問題...。こうした様々な要因が相互に絡み合い、社会そのものの綻びが地方村落から大きくなりつつあると言われている。
さらにそれらの要因の奥底には、有史以来変遷を続けてきた人間の生活スタイルの流動性があるのだろう。

人間は同じ場所で、同じ生活文化を半永久的に維持発展し続けるという習性にはない。
その時代時代において、住む場所も、生活のスタイルも、食の確保方法も、大きく変化をし続けてきた。そのことによって地球上の覇者としての地位を確保したとも言えるかもしれない。

個人の所得をはじめとする経済格差は、住民の生活を直撃しており、都市生活者との文化的生活水準には大きな格差となって現れ、日本社会全体のゆがみとなっている。

国民の多くが都市部に住む日本人にとって、農林漁業を共有問題とする意識がほとんどないのが現実だ。
山村の現実を我が問題として解決方法を模索し、苦悩しているのは、結局は山村地域に住む人たちだけである。

「それでいいじゃないか」という声も、聞く。
長年、山村再生に取り組んできた諸団体のメンバーですら、閉鎖的な体質を払拭しようともしない。山村地域の人たちとの協働を訴えるが、企業・都市側には自分たちの縁故だけでやっていて、大きく広げようとしないのが、現在の山村再生事業の実態である。
その意味では、限られた人達だけの特権化、既得権を守るような閉鎖的領域となりはじめている。儲け話の『山村再生ビジネス』はその典型である。
日本の将来にとって、極めて、危険な状況に追い込まれている。

こうした危機感を訴えてから約10年の年月が経過した。
近年「里山」再生が重要な課題としてクローズアップされている。
折しも経済再生を訴える安倍政権が「国際競争力をつけることによって農業を再生する」と訴えている。
今の日本の農業政策は、集落営農(農業経営の大規模化)と6次産業化の2本柱によって国際競争力をつけるという方向に突き進もうとしている。

しかしその方向性は、誤っていないのだろうか?
敢えて問いたい。
農業に国際競争力の概念は必要なのだろうか。
そもそも農業とは、地球規模で差別化を競う産業なのだろうか。

それぞれの地域には、その地域特有の強さがある。
他の地域での事例や理論を参考にしつつも、地域の差異を活かす生活を構築できる。
そのために重要な視点は、従来にない発想、異種の経験を、先入観を排除して活かす取り組みが重要になる。そして、その地域が持っている潜在力、「地域力」とも呼べるものを生活にダイレクトに有効活用することが、いま求められている。
そこに、これからの地域再生のポイントがある。
農業は、産業としての一側面だけで取り組んでも、よい結果には到達しない。
私は、そのように思うのである。

現実の話として、都市部と比べると、山村地域の物価は安い。
特に、家賃等をはじめとする住生活関連、そして農漁業産物を中心とした食生活に関わるコストは、農漁山村地域に圧倒的な優位性がある。平たく言えば断然「住みやすい」のである。
雇用確保や収益を確保できる事業展開ができれば、少ない収入であっても経済的にも充分に豊かな生活を送ることができる。
現実には環境整備も必要だ。それは収益事業及び雇用の確保(生活費の確保)、住居の確保、教育・文化的生活の確保である。
その根本的要素は「人」の問題である。

更に国際競争となれば、ポストハーベストの課題、フードマイレージの視点からの悪影響も懸念される。
農産物の地球的拡散による種の混交の問題も、どのような影響があるのか未知数である。
大きな問題として認識されていないが、F1種を使い続けることへの警鐘も鳴らされている。

農業を取り巻く課題は、農業だけにとどまらない。
自然環境の回復、保水力をはじめとした自然災害への対応力、野生動物や小生物との共生など、どれも重要な課題と深くリンクしている。

「農業経営の大規模化」についての疑念は、以前から何度も提起してきた。
そもそも大規模化すれば根本的な改善になるのか。
大企業にならなければ中小零細企業はつぶれてしまうか?と置き替えて考えてみれば誰にもわかることだ。大規模化するかどうかは、真の対策ではないのだ。
加えて、日本の中で相当な大規模化を行ったとしても、アメリカ大陸で行なっている大規模農業は桁違いにスケールが大きい。いくら日本国政府あげて大規模化を推進しても、国際的に見れば大した規模にはならないのだ。
そんなことは少し調べれば、誰にでもわかる事実だ。
しかし、農水省は相も変わらず、大規模化に突き進んでいる。
誰もとめることができないのが、日本の農業政策の実態なのだ。

いま求められている喫緊の課題は何か。
農業従事者と消費者、それそれの意識改革であると訴えたい。
批判もあると思うが、あえていずれが重要かと言えば、重視すべきは消費者の意識改革であると主張する。
食の安全に関する諸課題を我が事として受け止めて問題解決に取り組む決意があるのか。
その決意があれば、地産地消などの消費行動に出るのは必然の結果とも言えないだろうか。
そうした消費市場が日本人の生活の中で熟成されることで、はじめて持続可能な農業経営が成り立つ。
その視点を明確にすれば、たとえば休耕地の有効活用も、生産者の生活支援の側面と共に、消費者と生産者の溝を埋める方向に進める道が見えてくる。
それが遠回りのように見えて、最も堅実な王道であると私は思う。

私達は今年の秋をめどに、新たな活動を広げることを模索している。
奥山から始まり、里山、人里、都市部へと繋がり、里海までの一気通貫したフィールドでの取り組みである。
従来から生活を行なってきた先人達の智恵と哲学に学び、2世代、3世代先の子孫に受け継いでいける日本を創る。
それが私達が目指す農業と里山再生の取り組みである。

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2012年12月 5日 (水)

法の下の社会秩序は あなたの持論

日本維新の会の橋下徹代表代行(大阪市長)が、衆議院選挙期間中もツイッターでの情報発信を行うと発言している。
橋下氏は公職選挙法の規定についても「バカみないなルール」と批判し、政党の一般的な主張は発信しても問題がないはずだと主張し、その考えに沿ってツイッターの更新を続ける模様だ。

公職選挙法の規定や、その条文を解釈したツイッターやブログ等の更新禁止の行政指導等は、たしかに現実と乖離している感がある。
元々は選挙資金力による広報宣伝の差が出ないようにとの趣旨で広報配布物の部数上限を定めた条文を電磁的文書に適用解釈したところに、この問題は起因している。

この条文の主旨から勘案すれば正反対の解釈ができる個所でもある。
印刷や配布にかかる人件費や折り込みなどの費用がかからないツイッターやブログ等を活用することで、資金力や運動員数の違いに関わらず主張を伝えることができる。
そのように解釈すれば更新を禁止する意味はなくなる。
それどころか積極的に活用するよう行政指導が行われてもよいとも言える。

更新禁止にした背景には、Webツールが普及し始めた当初時点では、情報格差(デジタルデバイド)があった。
情報を使いこなせる者とそうでない者、またその情報を受け取れる者とそうでない者との格差が均等な機会を阻害するという考え方によるものだった。
しかしこの10数年の中で時代と情報利用の状況は大きく変化した。
総務省も、条文の解釈を見直す時期に来ている。

しかし、だ。
総務省の解釈や公職選挙法の規定が時代遅れだからといって、その行政指導等に逆らって行動してよいのか。
法の下の社会秩序を守ることは、一般市民の務めではなかったのか。
橋下氏の主張はわかる。
法律や行政指導の不備を指摘し、問題を明らかにして、正しい姿にする。
そのことは堂々と行動すればいい。
だからといって、そのことが法律や法の下の秩序を犯しても構わないという理由にはならないのだ。

そのことは、法律家である橋下氏自身が、様々な場面で繰り返し主張してきたことではありませんか?そんなことがまかり通ってしまえば、誰も法律や行政に従わなくなってしまう。特に条文の解釈は幾通りにも展開することができる。
多くの市民がそれぞれの解釈で行動したらどうなるのか。
橋下氏が自分自身だけはそうした行動が許されると思っているとは思いたくないが、ここ1~2ケ月の言動にはそんな危険も感じられなくもない。
橋下氏には、自身の言動を今一度見つめ直してほしいと思う。
選挙が終わって、再び大阪市長という行政のトップの仕事に専念し始めた時に、大阪市民が似たような行動を起こしてくることを想像したらよいのではないだろうか。

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2012年11月14日 (水)

核兵器はなくならない? 橋下氏は間違っている

日本維新の会代表である橋下大阪市長が発言した「核廃絶は現実的には無理」。
果たしてそうなのだろうか?
議論は様々な視点で行うことが必要であると思われるし、早計に結論を出すのではなく議論を続ける中で、個々人の思索も深められていくのだと思うので、橋下氏の発言の是非を現時点で言うのは適切ではないという指摘もあると思う。

しかし、あえて言っておきたい。
「核廃絶は現実的には無理」との橋下氏の発言は、間違っている。

すでに多くの人が気づいている、橋下氏独特の世論形成のためのパフォーマンス手法だとは、思う。難しい議論となる一方の極論をぶち上げておいて、比較的多数派となる「落とし所」で世論を獲得する。最初から民意と思われる主張をしても「平凡だ」と思われるだけだが、極論をぶち上げたのちに、自ら多くの意見をくみ取ったというステップを踏んだように見せれば、多くの有権者の支持を得ることができる。
弁護士である橋下氏が、法曹の世界を渡り歩く中で、自然と身につけてきた必勝戦術法なのかなとも思う。

しかし、この数年で、その手法を何度も見せられてきた私達も、多少なりとも学習している。正直言って、橋下氏のパワーゲームでもやっているような政治手法には、辟易してきているのではないだろうか。

人間というか、庶民というのは、もっと正直に生きている。
本音でぶつかって、生活を生き抜いているのだ。
人の裏を読んだり、一発かまして自分が優位に立って物事を進めるばかりが支持されるわけではないのだと言いたい。

「核廃絶」のテーマは、まさに人間としての安全保障と人間開発という人類の根本テーマに直結している。
言いかえれば「世界平和」のための行動の一構成要素といってもよいと思う。
私が思うところは、折に触れてこのブログでも表明してきたし、別途テーマとして論じるつもりである。長くなるので今日は書かないことにする。
今日は、一言だけ、繰り返して言っておきたい。

核廃絶は、できるかできないかの問題ではない。
核廃絶は、必ず達成すべき人類の課題である。

【読売新聞】「核廃絶は無理」橋下氏に広島知事「勉強不足」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121113-OYT1T01232.htm

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輿石さん 衆議院解散は総理の専権事項...ではありませんでしたか?

民主党という政党はここまで厚顔無恥なのか。
今年8月に野田総理大臣から発言があった「近いうちに解散」。
その履行を求める自民・公明両党に
「衆議院の解散権の行使は総理大臣の専権事項」
「まわりがあれこれ言うもんじゃない」
と他人事発言を繰り返してきたのは、輿石さん、あなたでしょ?

メディア報道を耳にして、国民の大半はこんなふうに言い放ったのではないかと思う。

民主党は、昨13日に開いた常任幹事会で「年内解散反対」の決議を行い、幹事長の輿石氏は野田総理大臣へ申入れを行なったという。
民主党はここまで堕落したのか。
そもそも輿石氏は学校の教員をし、山梨教組から政治家に転出した人間だ。
子供の教育に関わってきた人間が、昨日までしていたことと180度違う話を、一言の弁明もなしに能面皮にやっていいものだろうか。

輿石氏は、年内解散反対の理由として、「金魚」の話を出して、選挙に直面する民主党議員の窮状を挙げている。
それがどうしたというのだ。
いやしくも国会議員の一人であるならば、自分達の生活よりも国家百年の大計を憂うことをしろと言いたい。

混乱した日本国政治の3年半。
そのなかでも、誰かに託さないといけないのが間接政治における民主主義のルールだ。
誰に託すのか。
その決断の時が1ケ月後に迫っている。

【東京新聞】年内解散 民主で反対論 輿石氏、首相に意見伝える
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012111402000114.html
【読売新聞】「金魚きれいな水しか泳げない」
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20121113-OYT1T01244.htm

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2012年11月 3日 (土)

来春開校予定の3大学を不認可 田中大臣の暴走に怒り

田中真紀子文部科学大臣が来春(2013年4月)開校予定の3大学について、認可しないと発表した。
秋田公立美術大学、札幌保健医療大学、岡崎女子大学だ。

審議の経過はわからないが、この時点での不認可の決定はどうのように考えても、尋常ではない。
既に学生募集の準備は整っているはずであり、これらの大学を進学先として受験勉強に勤しんでいる受験生達がいることも想定される。
開学に向けて、資金的にも人的、時間的にも、物心両面で多くのものが動き始めているのだ。
大学の開校に向けて、当事者の方々がどんな思いで努力を重ねてきたと思っているのだろうか。
少しでも想像力があるのであれば、この時点での不認可などという発言は、出てくるはずがないと私は思う。

そもそも、これらの3大学を不認可とする根拠はあるのだろうか。
報道によれば田中氏は記者会見で「大学設置認可の在り方を抜本的に見直す」と答えている。
いいかえれば、3大学に個々の原因があるわけではないということなのか。
仮に、昨今の経営難による大学閉鎖への一石を投じる意図があったとしても、また少子化時代に新設校を認めてきた文教行政への疑問があったとしても、個々の状況を勘案しない一斉の不認可という手法に正当性があるはずもない。
本当に真剣に「大学設置認可の在り方」を議論するのであれば、制度やしくみそのものを粛々と討議すればいい。それらの議論を踏まえたうえで、認可の実務については、大学設置・学校法人審議会での結論が出ていない再来年春以降に開学を予定している申請分からを対象とすべきである。
そんなことは、誰が考えてもわかる道理であると断言しておきたい。

3大学の関係者にしてみれば、とんでもない迷惑以外のなにものでもない。
ひとつの大学を創るということは、並大抵の努力でできるものではない。
ここまで努力してきた人達にとって、気力が一気に失せていくような状況かもしれない。
場合によっては経営難、経営破綻になる可能性も充分にある。
このタイミングでの来春開学予定大学の不認可は、権力者の横暴以外の何物でもないのだ。
ひとつの決断を行うということは、それに関係する多くの人々の未来を左右するということを意味する。
そんなことが実感としてわからない。
政治判断というのは非力な庶民を殺してしまうことくらい何でもないほどの力を持っている。
浅薄な政治家の考えで多くの庶民が不幸になってしまうことが、多々あるという事実。
そのことを深く受け止めることができない田中氏は、大臣の仕事を果たす資質がないことを率直に認めて、職を辞することを選択するべきだろう。
そして、なによりも早急に、3大学の不認可の決定を取り消して、来春開学への道筋を明らかにするべきである。

石原氏に「暴走老人」などという言葉の暴力をぶつけた田中氏。
人の思いに気持ちが至らないあなたに、他人を批判する資格など、ない。
ブーメランのように、その言葉が、そのままあなた自身に戻ってくることを肝に銘じてほしい。

そして現職の国会議員は、傍観などしないでもらいたい。
選ばれし者の良識を賭けて、総力を挙げて、自分の考えを押し通すだけの「暴走大臣」のファシズムを、断固として阻止することを、強く、強く要求するものである。

しかし、である。
今の国会に、そして政府与党に、そうした自浄能力が残っているのだろうか。
正直言って、誰から見ても、期待できるとは言えないのが現実である。
やはり、今の政治は、任命責任者である野田首相もろとも、早急に内閣総辞職するか、解散総選挙の道しか残されていないということなのだろう。
衆議院年内解散・総選挙。
田中氏の権力者としての横暴さを、政局の話題に結びつけるつもりは毛頭なかったが、与党内閣の体たらく&自分中心の暴走を目の当たりにした今、それ以外の道はないのだとしか、言いようがない。

子供の未来を左右する教育までも私物化する私利私欲のモンスター政権。
臨時国会の重要3法案を早々に可決して、国民に信を問えと言いたい。

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