原水爆禁止宣言50周年記念シンポジウム
もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それをこの人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でもそれを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。(『原水爆禁止宣言』より)
1957年9月8日、台風一過の三ツ沢公園陸上競技場で、戸田城聖創価学会第二代会長はいかなる理由であれ原水爆の使用は絶対悪であり、使用者はことごとく死刑にすべきであるという宣言を発表した。
戸田城聖先生は強硬な死刑廃止論者であったことは有名である。その戸田先生が「死刑」を主張までして原水爆廃絶の思想を全世界に広めようとした真意はなんだったのだろうか。
ちょうど50年後にあたる9月8日(土)に開催された「戸田城聖先生原水爆禁止宣言50周年記念シンポジウム」に参加した。13時15分からのビデオ上映の後、13時35分過ぎから開始。創価大学S201教室の会場は定員520名だが次々と一般市民の方々が来場し別教室(S101)に音声中継を行ない収容するなど1200名余りの参加となった。
基調講演は明石康・元国連事務次長。
国際的な核軍縮の現状を様々な視点から考察、NPTの取り組みやCTBTにおける核保有国の独善性を糾弾。カットオフ条約はその後の進展がみられないが、核非保有国による非核地域の広がりを評価し北東アジアでの非核化が当面で課題であると指摘した。
「我々は核廃絶の熱意を失ってはならない」という明石氏の訴えは心に残った。
日本だけでなく国際的平和が必要とされており、国連を中心とした平和構築が重要であると述べ、一国平和主義の流れが出てきた日本の現状はとても気になると指摘。その意味でも戸田城聖先生の原水爆禁止宣言は今だもって輝きを失っていないのみならず、池田大作SGI会長の提言を先頭として全世界的な広がりをもつ創価学会の活動に大いに期待し評価していることを述べた。
その後、小出稔、中山雅司、西原祥子各氏による報告が行なわれ、原水爆禁止宣言の意義、国際法から見た核兵器使用の問題、原水爆の生物に及ぼす影響や平和利用の可能性について等が論じられた。
その後休憩をはさんで、質問票によって参加者から寄せられた数多くの質問に関して応答があった。
原子力の平和利用に関しての質疑では参加者の中に水素発電の実用化に7ケ国共同で取り組んでいる方がおられて50年後の実用化を目指して研究が行われている報告もあった。
核抑止論の幼稚な論理が横行した20世紀。しかし9.11事件に象徴される核テロリストの存在に対して有効的な論理を持ち合わせていないアメリカは、ピンポイントで地下に打ち込む限定核使用の研究を始めている。
中途半端な理性を根拠とした核抑止論による「使えない核」保有から「使える核」開発に踏み込んでしまった核保有国の暴走をとめることが私達にできるのか。
私たち個人がいったい何ができるのか。
これが参加者の多くの思いだったに違いない。
中山雅司教授は、核の「必要悪」から「絶対悪」への転換、「平和を願うならば平和の準備をせよ」という思想を伝えることを強調。明石氏は民間レベルでの対話、すなわちセカンドトラックでの対話の推進を呼びかけた。
核保有国は核の必要悪、核抑止論を捨てない。
しかし彼らを含めてほとんどの人は核兵器は悪だと認めている。
私たちは更に踏み込んで、核兵器の絶対悪の思想を広めるために対話を繰広げたい。
それが意見の対立になり、感情的分断に陥る危険に直面したとしても、相手の気持ちを思いやりながら自ら歩み寄り、分断から団結へと変えていくという、とても困難でしかし単純な行動の持続が求められている。
原水爆禁止宣言50周年にあたり、私たちの使命を今一度確認しあって地道な対話を少しずつでも日々続けていきたい。それが「遺訓の第一」とした戸田城聖先生の平和実現の思いに答える道ではないだろうか。
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