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2020年8月12日 (水)

日空ジャンボ機123便墜落事故から35年

1985年8月12日。日航ジャンボ機123便が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落して35年が経った。
あの夏あの日、大学の卒業を一年延ばしていた私は長野県菅平高原のホテルにいた。

自分の進む道が見つからず、大学院の学内選考を受けることを口実にして5年目の大学生活を選んだ私は、生活費を稼ぐために約40日間の住み込みバイトに応募して老舗の菅平ホテルで働いていた。

奨学金は4年間で終了し、実家からの仕送りも固辞していた私は人生初めてのアルバイトに日々いそしんでいた。

一年続けたアルバイトは、食料品スーパーとケーキ屋。短期では複写機製造工場の組み立てライン、ティッシュ配り等もやっていた。

夏の期間のホテル住み込みバイトに応募したのはお金がたまると思ったからだ。35年前のことで記憶がはっきりしないが、日給2000~2300円(時給ではない^^;)ほどの条件だったと思う。現在と比べると決しておススメできる待遇ではないと思うが当時は魅力的だった。東京⇔北海道か仙台あたりを往復するフェリーの船中泊アルバイトとどちらに応募するかで迷ったことを覚えている。

往復の交通費は自分持ちの条件だったが、帰路分を支給してくれた。何かと気にかけてくれて暖かく接してくれる経営者家族と従業員の皆さん。今までと違う人生を送ってきた、気心をかわすことができる友人との出会い。
三食宿泊付きのリゾート高原バイトは、貧乏学生の自分には夢のような経験だった。

ホテルのバイトの仕事はいくつかのグループに分けられていて、私はレストランとルームメイキングを交互にやっていた。ナイトバーの担当になると夜が遅くなるが、自分の担当は朝が早くて昼休憩があり、夜は早めに上がれていた。

その日は夕刻には仕事が空けて、同じチームのバイト仲間とホテル前の草原に寝転がって缶ビールを飲みながら歓談していた。近くの食堂に食事に行った後だったように思う。
その時に夕空の端の方で飛行機が飛んでいくのが見えた。彼方に小さく見える機影を眺めながら「めずらしい位置に飛んでるよね」と会話した。

そのあとホテルに戻り、まもなくして日航機がレーダーから消えたニュースを聞き「あの飛行機だったのではないか」と思って慄然とした。
あとから次第に事故の事実がわかってきた。墜落場所の御巣鷹山から菅平高原は100kmほど離れているので他の飛行機の機影だったのかもしれない。
それでも私は死者520人の大惨事をあの夜の衝撃と共に今も忘れることができない。

様々な人生の途上で一瞬にして人生を奪われた人たち。

自分を振り返ってみれば、将来の進むべき道を見つけることができない不甲斐ない人生を送っている。なんと表現すればいいのかわからない気持ちが次々と湧き上がってくる。その後も墜落原因の不可解さと共に懸命に生命を救おうとしたクルーの方々の死闘、亡くなった乗客の方々の人生が報道されることが続き、そのたびに複雑な思いを重ねていった。

何もできないが真摯に自分の生き方を考えようと思った。
それがあの事故から自分自身が学んだわずかな教訓だったように思う。
その後大学院には進学できず翌年に就職して生活は激変した。当時のバイト仲間の大半は1,2年で疎遠になり、一人の友人とは親交が続いたが7年ほどで会えなくなってしまった。

あれから35年が経ったんだなと改めて時間の経過を感じる。結局何が大切なのかもわからないまま、その場凌ぎの人生を溺れるように泳いできただけなのかもしれない。

長年かけて積み上げてきた仕事は新型コロナ禍で4月以降は全く受注がない状態になり、3年半前に開店した店舗も事情が重なり終息に向けて動かなければならない状況になった。

残るのは赤字を続ける事業のみで、全てが振り出しに戻る。
コロナ禍を理由にするのは簡単だが、まだまだ人生は続く。
私は今もまだ人生に迷っているのかもしれない。

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