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2013年5月31日 (金)

第97回桂冠塾 『職業としての政治』マックス・ウェーバー

0975月18日(土)に5月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回のテーマ本はマックスウェーバー著『職業としての政治』です。

多くの方が学生時代に一度は耳にした社会学者の一人がマックス・ヴェーバーではないかと思います。従前は経済学の一部のように扱われていた学問分野を、独立した社会学としての立場を確立した世界的な社会学者といってよいと思います。
マックス・ヴェーバーの代表作として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があることからもわかるように、ヴェーバーの社会的考察の視点は、近代文明の発展の軌跡を人間の信仰観と合理性追求の関係性から解明しようとした側面があります。

そうした視点の展開の中で行なわれた講演として「職業としての学問」「職業としての政治」を位置づけることができると思います。

本書は1919年1月、ミュンヘンの自由学生同盟の学生達のために行なった公開講演の記録です。
時代は第1次世界大戦にドイツが敗戦した直後。愛国者でもあったヴェーバーは敗戦によって個人的な衝撃も受けていましたが、それにもまして心を痛めていたのは、この敗戦を「神の審判」のごとく受取り、自虐的な敗者の負い目を感じつつ、いつか訪れるであろう「至福千年」の理想に心酔しようとしている一部の知識人達の言動であったと言われています。
しかも、そうした知識人の多くがヴェーバーの親しい先輩、友人、教え子達であったため、彼らの考えを糺して現在の社会状況の本質を語ろうという意図があったと推察することができます。
当時のドイツの知識人が思っていた思想は次のようなものだったといいます。

”敗戦を喫したドイツ国民の我々は理想を実現する民であり、それを滅ぼした敵国は悪の枢軸であり世界は悪に染まっている。だから我々は必ず神の力によって世界を改変して千年王国を築くことができる。”

戦争と敗戦の本質は、果たしてそのようなものだったのでしょうか。
ヴェーバーは、政治の本質的属性が権力であり、国家相互の間であれ国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力が政治であると定義して自説を展開します。
                  当時の政治の現状を分析しつつ、講演の後半では政治と個人的倫理についての考察へとテーマが推移していきます。
文脈に沿ってみていきたいと思います。

■政治とは、政治家とは何か

冒頭から政治に関する様々な概念に対してのウェーバーの私論が次々と展開されていきます。
まず政治についてのウェーバーの定義が述べられます。

政治とは、国家の指導またはその指導に影響を与えようとする行為である。
国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である。すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。
政治とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。

そして政治を行なう者は必ず権力を求める。その理由として
①別の目的を実現するための手段とするため
②権力自体がもたらす優越感を満喫するため
という2点を指摘しています。
政治家の清き思いが、権力の魔性によって悪しき方向へ変質することは必然であるともとれる指摘です。1点目は個々の目的を精査して対処することが求められますが、2点目についてはいかようにしてでも克服するしかありませんが、権力の誘惑に溺れる政治家がいかに多いかは多くの庶民が実際に目の当たりにしているとおりです。

次に、国家と人間との関係を論じます。
政治がその影響力を行使する国家とは、暴力行使に支えられた、人間の人間に対する支配関係であり、その支配関係は正当であるとし、この支配関係の正当性の根拠として
第一「伝統的支配」
第二「カリスマ的支配」
第三「合法的支配」
の3点が挙げられています。

ウェーバーはその中でも「カリスマ的支配」について論及していきます。
指導者個人に対する信仰ゆえに服従する形態を「カリスマ的支配」と呼び、その形態として
①呪術者と預言者
②選挙武候、一味の首領、傭兵隊長、民衆政治家(デマゴーグ)と政党指導者
があると指摘しています。
近代以降における政治家の選出は選挙によって行われるわけですが、選挙のたび毎に政治家の虚言に右往左往させられている有権者の姿は、ウェーバーの指摘するカリスマ的支配そのものとも思えます。

そして政治家は、自己の支配権を主張し支配関係を継続させるために外的な手段(補助手段)を用いる点を指摘します。
政治家が継続的な行政を行なうために必要な手段として
①人的な行政スタッフ
②物的な行政手段
この2点を挙げます。現在の政治家の姿もまったくこのとおりですね。現在の日本においてはこの2点を揃えるための原資として政党助成金などの形態で税金を投入することも行なっています。

■国家秩序の分類

次にウェーバーは、政治を行う舞台である「国家」について論じます。
国家は成立の過程から
①人的行政スタッフが行政手段を自分で所有する形態(身分制的に編成された団体)
②行政スタッフが行政手段から切り離されている形態(君主の直轄支配)
この2つに分類します。
現在でもドイツのような連邦制国家は①であり、日本などは②の形態と言えるでしょう。
この②の形態は「官僚制的国家秩序」に変化し、近代国家の発展と共に広まっていったと見ることができます。

国家の実務を掌握する官僚は、君主と比類する他の私的な担い手に対する収奪が用意されるにつれてその権力の範疇は広がりかつ活発化していきます。
ここで用いられている「私的な担い手」とは、行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の政治的に利用できるあらゆる種類の物材を、自分の権利として所有している者と指しており、それぞれに独立している国家君主とみてよいと思います。すなわち、国家として行使できる権力を、他者から独立した形で所有するのが国家そのものであると言い換えてよいでしょう。

そうした官僚国家の発展は、資本制経営が発展してくる過程と完全に併行しており、政治運営の全手段を動かす力は事実上単一の頂点に集まる。つまり一人の国家指導者に権力が」集中するという指摘です。
そうした官僚国家においては、行政スタッフと物的行政手段の分離が完全に貫かれている。現在の国家体制は原則においてその通りの姿になっているのではないかと思います。

■新しい発展型国家と第二の「職業政治家」

そしてこの講演が行われた直前の1918年ドイツ革命を、国家という収奪者から政治手段と政治権力を収奪しようという動きであったと定義し、簒奪や選挙で政治上の人的スタッフと物的装置に対する支配権を入手した根拠を被治者の意思に求めたと位置付けます。
このことを通して、近代国家とは、ある領域内で支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタイト的な支配団体であると定義します。
そして、その独占の目的達成のために物的運営手段は国家の指導者の手に集められ、その頂点に国家が位置すると見ました。

そうした新しい形の国家においては、政治支配者に奉仕する、第二の意味での「職業政治家」が現れます。

その政治家は、君主の政策を行うことで物質的な生計を立て精神的な内実を得ます。
君主の最も重要な権力機関であり、政治的収奪の機関となっていきます。

■職業政治家の存在の意味

政治家には大きく3つの分類があるとして
①臨時の政治家
②副業的な政治家
③本職の政治家
を挙げます。
①臨時の政治家とは、現代でいえば選挙活動や自治活動に取り組む一般庶民のことであって、いわゆる政治家とは一線を画します。
②の類型は、現代においては財界活動や地域の自治会で役職について活動している方達がこれに相当するでしょう。多くの場合は無報酬もしくはわずかな謝礼程度です。
③本職の政治家が、現代における政治家に相当すると考えてよいと思います。
本職であるので報酬も受け取ります。
国民生活が多様化していくにつれて、国家君主も、自由な政治団体である国家そのものも、本職の職業政治家を必要としていきます。
ここでいう自由とは、伝統的な君主権力支配を受けていない国家体制であることを指していて、暴力的な支配を伴わないということではありません。ざっくり言えば前者は王政国家であり、後者は国民主権国家などがその一例です。

■政治のために生きるのか、政治によって生きるのか

政治を職業とする「本職の職業政治家」は
①“政治のために生きる”人達と、
②政治によって恒常的な収入を得ている“政治によって生きる”人達に
分類される。
この違いは天地雲泥ほどの大きな差があるわけだが、現実にはこの2者をいとも簡単に行ったり来りもしてしまう。

ウェーバーは対比する類型制度として論じているが、この点については少し違和感がある。
ウェーバーは、国家や政党の指導が「政治のために生きる」人達によって行われれば、人的補充は金権的になると指摘。つまり人事権が政治家の特権のひとつとなり、恣意的政治になる危険と賄賂が横行する温床になる。それを防ぐためには金権的でない方法で政治的スタッフや官僚が任命されることが必要であり、そのためには権力を握る政治家の意向に関わらず、政治の仕事に携わる人達が定期的かつ確実な収入が得られることが必要となると指摘している。

つまりこの論点からさらに論を進めれば、「政治のために生きるのか、政治によって生きるのか」という二者択一の問題ではなく、「政治によって収入を得ながら、政治のために生きる」職業政治家が求められていると考えるのが適切ではないかと思うのである。

■職業政治家による政治形態

このあと、職業政治家を輩出する土壌、機関の有無を考察したのち、官僚と政治家、マシーン(政治指導者のために機能する政党組織)を伴う一人の政治家を中核とする政治形態と、カリスマ性を有する指導者個人に依存しない派閥政治等の集団としての政治について、論点が提示されていきます。
その一つの結論として、直接選挙による指導者の選出(大統領制)か、議会による指導者選出なのか、その選出方法にも言及しており、現在の選挙と政治体制の在り方を考えさせられる論点が提示されています。

■指導者としての政治家に求められる資質と政治倫理

ウェーバーは求められる政治家の資質として
①情熱
②責任感
③判断力
の3点を挙げ、この3点のバランスが重要であると論じます。いかに情熱があっても事物に対して距離を置いて見ることができない政治家は大罪を犯していると断言します。

そして、政治行為の最終結果は往々にして当初の意図と大きく食い違い、正反対の結果になる現実を指摘。さらに、政治家が求める「あるべき姿」がどうあるべきは信仰の問題であると断じます。

■最後のテーマ-仕事としての政治のエートス-

ここからウェーバーは、いよいよ本講演の核心である「政治と倫理」のテーマに踏み込んでいきます。
ウェーバーは端的に「政治が人間の倫理的生活の中でどのように使命を果たすのか」という視点で論じていきます。現代に生きる私達にとっても大いに関心がそそられるテーマです。

■真の道義的行動は「倫理」でなく「品位」によって可能

ウェーバーは一例として恋愛での例を挙げながら、戦争後のそれぞれの立場において自己弁護や正当化のためにしばしば「倫理」が独善の手段として用いられてきた事実を指摘。真の道義的行動は、倫理ではなく品位によって可能となると述べています。
さらに山上の垂訓に象徴されるキリスト教的倫理観が現実社会では何ら行動規範とならないばかりか、現実には正反対の行動をとることが多くの人達から求められていると論じます。山上の垂訓の通りに行動するならば、戦争を仕掛けられ領土を焼かれたとしても、抵抗は許されず、かつまだ侵犯されていない残りの領土を自ら差し出すことになってしまう。国家と国民の守るべき政治家に、そうした行動は当然ながら許されるはずはありません。

■心情倫理と責任倫理

さらに倫理的行動は、相反する2つの要素がある。キリスト者は正しき行動を行ない結果は神にゆだねるという「心情倫理」と、予測しうる結果には責任を負うべきであるという「責任倫理」によって構成されているという矛盾である。

加えて倫理を行動規範とすれば、善き目的を徹底して達成するためには危険な手段も用いることになる。またそれがどこまで正当化されるのかの基準も不明瞭である。事実、歴史の中で多くの逸脱した事例をみつけることができてしまう。
悪からは悪が生まれ、善は善からのみ生まれるという非現実的な教説がまことしやかに流布される。

■政治は暴力に潜む悪魔との戦い

こうした矛盾が宗教発展の原動力であったとウェーバーは論じている。
様々な宗教倫理が「人間は生活秩序の中に位置づけられている」と論じていることを、ギリシア神教、ヒンドゥ教、カトリック、プロテスタンティズムを挙げて論じ、その思考過程において「正当な暴力行使」を位置づけてきた経緯を推論している。
したがってどのような理由によって政治闘争を行なったとしても、政治権力を行使できる立場になれば人間は旧態依然たる日常生活を台頭させ、信仰そのものは消滅するか政治的俗物の一部と化すと断言しています。

政治を行う者は、この倫理的パラドックスと自分自身がどうなるかという点についての責任を片時も忘れてはならない。政治家は全ての暴力の中に姿を潜めている悪魔の力と手を結ぶのである、と。

ここで「暴力」について少し触れておきたいと思います。
ウェーバーが言う暴力とは、物理的に人間を傷つける行為のみを指す狭義ではなく、何らかの力で他者の行動や思考を制限する行為や威力そのものを指していると思われます。政治はその国家や団体に属する人々に対して何らかの影響を及ぼす行為であるがゆえに、必然的に暴力をその基盤に有しているとみるべきであると考えられるでしょう。

その意味で資本主義国家や封建国家にとどまらず、「社会主義の未来」や「国際平和」においても同様の問題が出現する。

■政治とは生の現実に打つ勝つこと

この問題と対峙するためには年齢等は役に立たず、修練によって生の現実を直視する目を持つこと、生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つことが絶対条件となる。
ウェーバーは責任倫理に重きを置きつつ、心情倫理と責任倫理が相俟って「政治への天職」を持ちうる真の人間を生み出すと結論づけている。

そしてウェーバーは、聴講する学生達に「10年後にもう一度話し合おう」と語りかけている。今自分自身が心情倫理家と感じ革命に陶酔している人々がどうなっているか。諸君一人一人はその時どうなっているのか。
・憤懣やる方ない状態にあるか
・俗物になり下がってぼんやりと渡世をおくっているか
・現世逃避にふけっているか
いずれにしろ自分自身の行為に値しなかった、この世にも日常生活にも耐えられなかったのだ、と。

ウェーバーは、一方で自己弁護的な敗戦戦犯探しに警鐘を鳴らしつつ、もう一方で「自分達は神の子であり敗戦は偽りの姿である」「自分達は神の御心のまま行動したのであるから結果も神にゆだねる」との心情的革命家と化している同僚や教え子達に真の政治家のあり方を情熱的かつ論理的に語り抜いたのである。

■いかようにして生の現実に打ち勝つのか

あえて、この講演全体を通じて消化不良と言える点を2つ挙げておきたいと思います。
ひとつは、全体を通じて分析主張する論拠が示されていない個所が多いこと。
もうひとつは、ウェーバーが結論づけた政治家像を実現するためにはどうすればよいかという具体的方途が示されていないことです。

一つ目については時間の限られた講演でだったとも思われますし、政治の様々な側面を論じていることを考慮すれば、至極当然かなとも思います。
重要なのは二点目です。
平坦な言い方をすれば、政治が本源的に持っている権力の魔性をいかに克服して、情熱・責任感・判断力の資質をいかにして磨くかということになります。
その本質は「権力の魔性に勝つこと」にあるとして、その実現のためには「修練によって生の現実を直視する目を持つこと、生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つことが絶対条件」という点までは言及しています。

■政治家に必要な修練とは生命レベルの闘争を続けること

ではその「修練」とはどのようなことなのか?
このための方途をウェーバーが全く触れていないかと言えば、必ずしもそうではありません。少し違う角度で、達成しがたいこの点が宗教的発展を促してきたという指摘があります。しかしウェーバーの指摘はここまでで、宗教の限界も指摘する文脈になっています。

今一度の確認になりますが、政治権力の現れ方として、ひとつには他の目的を実現する手段として、もうひとつは自分の優越感を満足させるために、現出します。
一点目を克服するためには、目的の手段化を防ぐ理念哲学と歯止めをかけるルールづくりが必須であると感じます。
そしてより深刻で本源的な問題が二点目。
これを克服することは、すなわち己心の低い生命状態を克服することと同義。いいかえれば自分自身の生命変革であり、境涯革命の勝利が必要であると言えるのではないかと感じます。
生命レベルでの鍛錬こそが政治家の必須要件である。
このように結論づけることが重要ではないかと思います。

翻ってみて現代。
真の政治哲学や理念思想を持ち実践する政治家はどこにいるのか。
生命レベルでの闘争を続ける政治家は誰なのか。
そうした視点で政治家を選出することが、有権者である私達に課せられている重要課題であると思います。

■真の政治家の姿とは

最後にウェーバーを訴えた真の政治家像を、本文をそのまま引用して紹介したいと思います。

政治とは情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようであれば、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
これをなしうる人は指導者でなければならない。
指導者であるばかりではなく、英雄でなければならない。
そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志で、いますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま可能なことの貫徹もできないであろう。
自分が世間に対して捧げようとするもの比べて、現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。
どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。
そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。

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