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2011年9月30日 (金)

第77回桂冠塾 『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ) ※後半

077 9月17日に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月は先月に続きデュマの大作『モンテ・クリスト伯』です。

前回、ダンテスがモンテ・クリスト伯としてパリの社交界にデビューするあたりまででしたので、今月はそれ以降を含めて全篇を通して開催しました。

あえて誤解を覚悟で「ざっくり」この作品の流れを一言でいえば...
全く思い当たることのないダンテス青年が一生出られないと言われたシャトーデフに投獄され、そこで出会った師匠の薫陶により人生の光明を見出し、脱獄後に彼の人生を陥れた張本人達に復讐を遂げていく....
こんなストーリーと言えるでしょうか。

パリの社交界に登場した後のモンテ・クリスト伯は縦横無尽に活躍していきます。その行動は本人が言い切るように「神の代弁者」であり、神に次ぐ完全無欠の権威者そのものです。明らかに独善的にも思えます。事実、モンテ・クリスト伯からその言葉が語られるシーンを読んだ多くの読者の中には「なんと傲慢な人格になったものか」と感じた方もおられたと推察します。
なぜダンテスはこのように自らへの疑いもなく断言できたのか。
ここに『モンテ・クリスト伯』の重要なテーマの糸口が秘められています。

当日の参加者の中からもこのような質問がありました。
「今自分がこうしていることができるのがある人のおかげであるとしたら、その恩人を最大限に讃えて宣揚するのが人の道ではないか」
「ダンテスはファリア神父を人生の師匠と言いつつ、脱獄後に活躍する場を得た後においてもファリア神父を讃えることを全くしていない」
また
「モンテ・クリスト伯となったダンテスはその人生の後半生を復讐を目的につき進んでいる。そもそも復讐を主眼においた物語とはいかがなものか」
このような指摘がなされました。

現実的な話をすれば、ダンテスがモンテ・クリスト伯として活躍できるのはファリア神父が残した財宝があったからこそです。その点だけ見ても感謝をささげるべきはずですが、師匠を宣揚した形跡は全く読み取ることができません。
この点も前述の傲岸とも思えるダンテスの思考と根っこを一にしているのではないかと私は思います。
先月の折りにダンテスがファリア神父を師匠と定めた根拠について少し論じました。そのことを踏まえたうえで
・ダンテスが自らを神の代弁者と言いきれた根拠
・ファリア神父を師匠として宣揚しなかった精神的内側
・復讐を是とするような物語が成り立つ背景
を理解するひとつの視点としてキリスト教的生き方をみることができるのではないかと感じています。

キリスト教思想の特徴を論じる際のひとつの視点として天地創造者としての「絶対的存在としての神」が指摘できます。
人間は神に似せて作られたものであるが神にはなれない。
この点が仏教に代表される東洋的思想と根本を異にする重要な点です。

仏教思想においては最高の生命状態は自分自身の生命そのものに内在しており、その生命状態を「仏」と名づけている。その「仏」の生命は個々の人間に一人ももれなく存在しており宇宙全体の生命としても存在する。その最高の生命状態を現出し一人でも多くの人が最高の生命状態を目指す中に「自他共の幸福社会」の実現があると考えられている。

対してキリスト教の思想においては、最高の生命状態は「神」という形で個々の人間の外側に存在する。非力な存在である人間には御することができない森羅万象の出来事も全て神の意志のもとで行われている。人知の及ばない出来事に対しては人は非力であるが神への信仰を持ち続ければ必ず神の祝福がある。
その経過においては、悪しき行いをした場合には神の前で懺悔をし、思いもよらぬ福徳に恵まれた場合には神に感謝の祈りをささげるのである。

仏教においては全ての事象が自分から発すると考えることに対して、キリスト教的思想においては全ての事象は神の御心のなかで動いているのである。
この思考の前提を踏まえて今一度『モンテ・クリスト伯』を読み返してみたい。

ダンテスはどのような罪で自分が投獄されたかわからずに暗黒の牢獄の中で一生を終えようとしていた。
自殺を図ろうとするがファリア神父との出会いによって共に脱獄をするという目的を持つ。
しかしファリア神父の衰弱によって自らも死を共にしようとする。
生き抜くことを言い聞かせるファリア神父は自らが隠し持っている財宝のありかをダンテスに伝え、ダンテスの話を聞きながらダンテスが投獄に至った経緯を推測する。今の境遇に落とされた原因について全く思い当たる節がなかったダンテスだったが、ファリア神父の指摘によって自らの人生を暗転させた真実に気づくことになる。
ダンテスは自分自身を暗黒の人生に追い込んだ人間達に対しての憎悪が最高潮に達する。生きて牢獄をできることができるならば、全人生をかけて彼らへの復讐を果たしてやると深く思いを定める。

このような状況の中で、ダンテスは不可能と思われてきたシャトーデフからの脱獄を果たすのである。
ダンテスの果たした生還はまったく人知の及ばない出来事であった。
なぜこのような奇跡ともいえる出来事が実現したのか?
これこそ神の意志であるとダンテスが考えたのは至極自然なことであったであろう。
そしてダンテスが考え続けてきたこと。
それは脱獄ができれば必ず復讐するということだった。
奇蹟である生還を果たすことができたという事実。それはとりもなおさず「ダンテスよ復讐を実行してよし」との神の意志であるとダンテスが考えたのは、キリスト教的思考として必然ともいえる結論だったのではないか。
以上のような思考がダンテスの中で行われた。
こうしたキリスト教的思考を基盤としてこの作品が書かれている。
そのように私は考えている。

この仮説が間違っていないとするならば、いくつか指摘された疑問点はいとも簡単に氷解する。
→完全に獄死するはずであった自分が生かされたのであるから、後半生の自分が行う行動はすべて神の意志である。すなわち神の代理人とも神に次ぐ存在ともいえる。
→ファリア神父を師匠とは仰ぐが、その出会いもすべて神の意志によるものである。したがって神への感謝に比べれば人生の師匠への感謝が軽くなっても不思議ではない。
→復讐そのものが是か非かを論じる必要はない。復讐することを神が許したのであるから。

このような結論が導かれる。
そしてこの仮説と結論はさほど外れていないとも思えるのである。

そのようなモンテ・クリスト伯であるが、小説の最終盤に入るあたりから復讐の決意が微妙に揺らぎ始める。物語として読みごたえのある展開である。しかしキリスト教的信仰の面からみると複雑な思いを感じる人もいると思う。
このあたりがデュマ作品の限界かも知れない。
新聞小説として書かれた大衆小説の宿命ともいえる。

さて自らを貶めた3人への復讐を果たしたモンテ・クリスト伯は静かに舞台から去っていく。人生最大の目的を復讐に定めてその目的を果たした彼にとっての「第3の人生」にはどのような展開が待っているのだろうか。
我が子のように愛するマクシミリアンに対して「社会に有意な人生を送れ」と語るモンテ・クリスト伯に、その言葉をそのまま投げ返してみたいと思う。

『その後のモンテ・クリスト伯』という作品を誰か執筆するとおもしろいと思うのだが、みなさんはどのように感じられましたか。
また遠路参加いただきました宮城県の笹野さん、京都府の杉本さんと市原さん、また初参加いただきました小山さん、ありがとうございました。

【第77回桂冠塾の実施内容】↓
http://www.prosecute.jp/keikan/077.htm

※なお次回は10月15日(土)14時~開催いたします。
 作品は『レ・ミゼラブル』を取り上げます。
 今回も大作ですので2ケ月連続で行います。
 http://www.prosecute.jp/keikan/078.htm

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