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2009年12月30日 (水)

第56回桂冠塾 『怒りの葡萄』(スタインベック)

056 11月21日(土)に56回目の桂冠塾(読書会)を行ないました。
今回のテーマは『怒りの葡萄』(スタインベック)です。

時代は1900年代前半、舞台はアメリカの開拓地域です。
開催案内で触れましたが、個々の庶民の生活と、社会状況の描写が各章毎に交互に描かれていきます。
⇒ 第56回桂冠塾・開催内容
主人公は、ジョード一家。オクラホマの荒廃していく農地に住む農民一家です。
ジョードは一家の長男で、刑務所を出てきたところから物語が始まります。

ダストボウル(土地の荒廃による砂嵐)に襲われていた一家は、資本家による土地の巻き上げ、大規模化によって住む家を追われ、新天地カルフォルニアを目指して大移住の旅を開始します。

様々な出来事に一人ひとりの心が大きく揺れ動きますが、それでもカルフォルニアに到着します。しかし、ジョード一家をはじめ移住してきた多数の元農民を待っていたのは低賃金の労働、悲惨な住環境。それでも仕事があるだけでも運がいい。夢破れた多くの移住者は、更に条件の悪い仕事に追い込まれていく。

そんな状況下で貧しい者同士が集まり始める。
象徴的に2つの集団模様が描かれる。
ひとつは国営キャンプを舞台に互いを助け合い、共同生活をおくる姿。
もうひとつは、貧しい者の集団のなかで更に階級が生まれていく姿だ。自分の利益を確保し他人を多少踏み台にしてでも、よりもよい生活を送ろうという姿は、現在の社会でもまったく同様といえるかもしれません...。

現在、世界が見舞われている「100年に一度」といわれる経済恐慌。
1929年に始まりましたので正確には80年前になりますが、この世界恐慌がこの作品の時代背景にあります。
スタインベックが描く資本家や事業家の姿勢には「悪辣さ」しか感じさせません。
ポンコツ同然の中古車を買い付けて、修理したように見せかけて無知な庶民に高く売りつける。
金払いの良いトラック運転手にはサービスをするが、単価の安い食べ物しか買わない移住者はさっさと追い払うスタンドカフェの経営者。
これが当時の経済活動の真実だったのかどうかは判然としませんが、少なくともスタインベックにとっての真実であったことには間違いがない。
そもそも、ジョード一家移住の発端となった従業員募集のチラシすら詐欺まがい。本当に必要な人数の何倍も人が集まるように大量のビラを撒く。仕事に対して求職者が多くなった状態を作っておいてから賃金と住居環境を低くたたく。「この条件でいいなら雇ってやるよ」というスタンスだ。多くの元農民は家も土地も手放して移住してきている。いまさら元の棲家へ帰ることもできない。経営者のいいなりに悪条件で、うまいように酷使されていく。

自治体政府の対応も微妙に変化していく。
当初は生活を助けるために援助をするが、次第に人数が増え、経済的負担が増していくと元々の住民から不満が噴出し始める。
徐々に援助は削減され、最後は駆逐する動きに転じていく。

移住した住民が純粋かといえば、必ずしも、そうではない。
銀行家が土地を巻き上げて大規模化をする。手助けになるとわかっていても日払いの賃金欲しさにトラクターの運転手の職に就く。
移住途中のロードサイドのガススタンド。
店主が気が弱いとわかると、ガソリンをタンクいっぱいに入れて、ガラクタを代金がわりに置いていく移住者一家もいる。
当たり前かもしれないが、庶民だから正直だ、というわけでは、ない。

作品全体の構成は、旧約聖書『出エジプト記』のプロットをなぞっているのは多くの研究者が指摘している点だ。ほぼ完全に一致しており、スタインベック自身も認めるところだろう。さしずめジョードはモーゼとなり、横暴なエジプト王とその王政は銀行家や地主、アメリカ国家というところだ。
しかし、「出エジプト記」で描かれる新天地を求める旅と、当時の農民移住が同じ次元で取らえるべきなのかどうか、個人的には甚だ疑問を感じざるを得ない。

時代がかわっても、起こってしまう不幸は何も変わらない。
解決策など、何一つ生まれていないのではないかと思わざるを得ない状況だ。
作品の最後のシーン。
そんな夢も希望も潰えたかに思えた時に、新しい生命が誕生しようとする。
スタインベックは、この子供たちに未来への一縷の希望を託そうとしているかと一瞬読者に思わせたかったのだろうか。しかし、この子どもは死産する。
惨憺たる気持ちになったところで、突然結末を迎える。読んでいると残りページ枚数が少なくなるので終わりが近づいているのはわかるのだが、唐突という感が否めない。

洪水で孤立した丘の上の納屋で餓死しかけている父子。その父親に死産を経験したローザシャーンが自分の母乳を与えて生命を繋ぐというシーンでこの物語が終わる。
日本語訳者である大久保康雄氏はこのシーンを評して
「これこそ人間がいかなる苦難にも耐えて生きていく象徴的な姿と見ていいのではあるまいか」と言う。
「虐げられ、苦難の果てに追われた人間たちにも、なお滅ぼし得ぬ最後のものは、生きようとする本能的な力だ、ということを、スタインベックは、ローザシャーンの微笑を通して我々につたえようとしているのである」とも記述している。

果たして、そうだろうか?
確かにスタインベックが伝えようとしているメッセージは、その通りであるかもしれない。
しかし、この姿をもって「人間がいかなる苦難にも耐えて生きていけるのだ」と主張することには違和感を感じてしまうのだ。

そもそも、苦難とは何のためにあると考えるべきなのか?
そして、その「苦難」には耐えるしかすべがないのだろうか?

もしそうだとしたら、人間の一生とはなんとも苦しいものだと私は思う。耐えて、耐えて、一生を終えるしかない。
逆説的に見れば「苦難がない人生が素晴らしい人生だ」となってしまう。
しかし、本当にそうなのだろうか?
そうだとしたら「苦難は忌むべきもので、避けて通るべきだ」という人生が必然的に出てくるが、それはそれでいいのだろうか?
事実、現代人の生き方を見ているとその方向に向かっているように感じる。

私が思う「苦難」の受け止め方は、180度、違うものだ。
苦難があるからこそ、自身の生命が鍛錬される。
苦難とは、自分自身が「いやだな」と受け止めてしまえばマイナス要因になるが、「これを乗り越える力を発揮してみせる」と挑戦すれば、まだ発揮していなかった自分自身の可能性を開花させる絶好の機会(チャンス)になるのではないかと。

人間の筋力やスポーツに置き換えるとわかりやすいと思う。
自身の筋力を高めるには現在の耐力の1割増程度の負荷(ストレス)をかけることが必要だ。スポーツにおいても自分が修得した技術だけ使っていたのでは新しいテクニックは身につかない。新たな挑戦をし、苦しいトレーニングを乗り越えてこそ、新境地に達することができる。
そのレベルに達してみれば、苦しいと思っていた状況もその後は楽々と何度もクリアできる。
人生においても、生命の鍛錬という次元においても、同様ではないかと思うのである。

しかし多くの人にとって、苦難は、やはり忌むべきものであり、耐え忍ぶものである。
この点における発想の転換が重要であると感じる今日この頃である。

スタインベックの『怒りの葡萄』から「苦難論」になってしまったが(^_^;)
奇しくも、当時と類似した経済恐慌の時代を迎えている現在である。
自身の、そして社会の転換を果たす急所を見つけるべく、語り、行動することも、この作品を読む価値のひとつではないかと思う次第である。

【関連リンク】 第56回桂冠塾・実施内容

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