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2009年9月25日 (金)

民主党の「民主」度は? 八ツ場ダム問題への対応

前原誠司国土交通大臣は、23日(水)に八ツ場ダム建設予定の群馬県長野原町を訪問した。
前原氏は再三にわたり「ダム建設中止を白紙に戻すことはない」と明言。そのうえで地元住民の率直な声を聞きたいといった。地元住民は「建設中止を前提とした意見交換会には参加できない」と話し合いを拒否。地元住民の考えは要望書等の形で前原氏に手渡された。
「なぜダム建設中止はないのか?」との質問に前原氏は「国民に約束したマニフェストを実行する責務がある」とその理由が「マニフェスト」であると繰り返している。

マニフェストは「葵の御紋」か?民主党も自民党も変わらない。

そもそもマニフェストに掲げる段階で、地元住民をはじめとする関係する方々の意見を聴き、様々な影響を検討したのか、大いに疑問がある。「地元の意見を聞きたい」というのならば、マニフェスト作成前に聞くべきではないのか?
地元の声を聞かないで「勝手に」マニフェストを作っておいて、「マニフェストで約束したから」と理由付けするのは、明らかな強弁である。押し込み強盗の言い訳のようにも聞こえる。
そのように言われても、致し方ないだろう。

さらに、「一度マニフェストに掲げたから絶対にやるんだ」というのは強い意志のようにも聞こえるが、一度はじめたら途中で様々な事情が判明しても変更しないできた自民党政治と何も変わらないのではないか。不要な公共工事が公然と行なわれてきた背景と、根本的には同質の危険性が感じられてならない。
地域の住民の声を聞く。
そのことが公共工事決定のプロセスで軽視されてきたことが大きな問題ではなかったのか。民主党は、立場と形こそ違え、根っこの部分では自民党と同じ体質なのだろうか。

庶民の声を聞かない-ファシズムの前兆

前原氏の言動は、自民党よりも危険かもしれない。
自民党は「こそこそ」やっていたが、前原氏をはじめとする民主党議員は「堂々と」「公然と」やっている。
「有権者の信託を受けたのだから、一部地域の国民がなんと言おうと自分達が決めたことはやらせていただきます」
これは専制政治、ファシズムの様相を呈しているのではないか。
なにが「民主」なのか、党名に掲げた理念を、今一度見つめ直してほしい。
マスメディアは「民主」党の「非民主」的言動を指摘しない。
日本のマスメディアの偏向、日和見さは、誰もがわかっていることであるが、ここまでだらしないのかと、あきれて言葉も出てこない。

「八ツ場ダムは従来の公共工事の象徴であって八ツ場ダムの問題ではない」
「八ツ場ダムを止められずして他のムダな公共工事を止められるのか」
一部テレビのコメンテーターは、堂々と、こんな論理を展開している。

「その人」にとっては、人生の全て。

長野原町の人々はスケープゴートなのか。
50年にわたってダム建設に翻弄された「この人」の人生は、その後の公共工事のための犠牲になって当然、致し方ないという論理が、なぜ公然と展開されるのだろうか。
これが戦争という舞台になれば、民主党や社民党の議員は「ひとりの生命は限りなく重い」「多くの人のために一人の人間の生命が軽視されてはならない」という。
高齢者福祉にいたっても同様の論理を展開する。
私は、この考え方は正しいと思う。
決して例外があってはならないと、思う。
ならば、八ツ場ダム建設中止の是非にあっても同様ではないのか、と言いたい。
長野原町の住民にも賛否両論がある。それもわかっている。
そのうえで、あえて問わなければならない。
長野原町の住民の50年間の苦悩は、今後の日本の公共工事改革のために、更に苦悩を続けてくれとは、絶対に言ってはならない、と私は思う。
まだ着手されていない工事と、住民の移転まで済んでいる工事とが、どうして同じ目線で議論されるのか?私は理解、納得できない。
今まで行なわれた工事内容が、どれだけ住民生活に影響を及ぼしているのか。その点を見直しの判定基準に最重点項目として入れるべきだ、と強く主張する。

その場限りの議論をやめよ。見直しのための評価シートの作成を。

蛇足だが、ダム建設中止と続行、それぞれの場合のコスト比較は、八ツ場ダムに限って言えば、二の次の問題である。
このことは、賛成反対両者とも同様の意見だろう。
今の議論では所詮、水掛け論で終わる。
「継続時のコストはさほどかからない」と言っている人達は中止時のコストを高く見積もっており、「継続時のコストのほうが高くなる」と主張する人達は現状と同じ管理方法でのコスト見積もりをしている。中止論者であっても建設後のコストは効率化した後の見積もりをしなくては、理屈にあわない。
治水、利水の観点での専門的論議は、重要で、今後の政治判断として不可欠なステップである。
しかし、それは、今回の八ツ場ダムではなく、別の場所でやってほしいと思う。
更に言えば、公共工事見直し基準をチェックシート形式など、だれもがわかりやすい目に見える形で、数値化できる形式で示すことを、あわせて提案したい。
そうすれば、マイナスポイントが「○○点以上で工事中止」「▼△点以上○○点未満は事業内容の再策定」など、標準化ができ、感情的な論議も少なからず回避できると私は考えている。

何のための政治か。誰のために政治があるのか。

いま八ツ場ダムの現場で必要なのは、「ムダな公共工事を中止する」か、「住民一人一人の気持ちと生活を最優先する」か、ということだろう。
何のための政治なのか。誰のための政治判断なのか。
その原点に立ち返れば、もっと真摯な政治行動があるはずだ。
私は、そう思う。
皆さんはどう感じているだろうか。

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