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2009年9月30日 (水)

第54回桂冠塾 『人類の議会』(ポール・ケネディ)

054 9月26日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本はポール・ケネディ著『人類の議会』です。日本語訳は上下2巻で日本経済新聞社より発刊されています。

9月15日から30日まで国連(国際連合)の第64回年次総会が開催されている。
国連の年次総会は毎年9月に開催され、各国の代表がそれぞれの立場から独自の主張が繰り広げられる。
華やかで全世界の注目を浴びる最高の舞台であるが、議決権をもたないのが総会の特徴でもある。
今回は、「核のない世界」をアピールするオバマ・アメリカ大統領の発言に注目が集まった。一人の偉大な決意が、二人、三人と波動を起こすことを信じたい。

著者のポール・ケネディは1945年イギリス生まれ。イェール大学歴史学部教授、同大学国際安全保障研究部長。国際関係論の世界的権威で現代最高の歴史学者として知られる。ニューキャッスル大学に学び、オックスフォード大学で博士号取得。1987年に発表した『大国の興亡』は世界中でベストセラーになる。1995年にガリ国連事務総長(当時)の要請で、「国連の未来」研究作業部会の共同議長を務めた。

国連についての基礎知識

本論に入る前に、国連(国際連合)について、少し触れておきたい。

国際連合(United Nations)とは、国際連合憲章の下に設立された国際機構である。世界の安全保障と経済・社会の発展のために協力することを目的とする。多くの言語で第二次大戦中の連合国と呼称を同じくする。主たる活動目的は国際平和の維持、そして経済や社会などに関する国際協力の実現である。略称は、国連、英語ではUN。公用語は、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、中国語本部はアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン島にある。

19451024日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコで発足。国際連合加盟国は、現在192か国。最初の加盟国(原加盟国)は51ヵ国。日本は1956年(昭和31年)1218日に80番目の加盟国となった。最新加盟国は、モンテネグロ(2006628日加盟)である

原則として国際連合に加盟できるのは主権を持った国家だけである。国連憲章第2章第4条によ、安全保障理事会の勧告に基いて総会の決定によって加盟国として承認される。承認が得られなければ主権を持っている国であっても加盟できない。現在のすべての加盟国が主権国家であるが、設立当初からの加盟国であるインド、フィリピン、ベラルーシ、ウクライナ、シリアの5か国は国際連合設立当初は独立した国ではなかった。

政府間組織や非政府組織、正式に認定されていないが確かな主権を有する政府等は「オブザーバーとして参加するために招待を受ける団体 (entity) あるいは国際組織」としてオブザーバーとしての演説は行えるが、投票権は認められない。

世界75ヵ国から国家として承認されているマルタ騎士団及びパレスチナを国際的に代表するパレスチナ解放機構PLO)は、オブザーバー参加になっている。
スイス、バチカン市国は中立を保ちたいとの理由でオブザーバーとなっている。
コソボ共和国は、常任理事国のロシアが強く加盟に反対しているために加盟が困難な状況である。
ソマリランド共和国や北キプロス・トルコ共和国など、紛争地域における独立国は、国家承認をしている国が皆無または極めて少ないため、国家の存在自体が認められていない場合が多い。
サハラ・アラブ民主共和国は、アフリカ連合諸国や中南米諸国などの多くの国が国家として承認しているが、オブザーバー参加もできていない。

本書の構成

本書は、8章立て3部構成になっている。

第一部 起源
 第一章 新世界秩序に向けての困難な歩み 1815年-1945年
第二部 1945年以降の国連諸機関の発展
 第二章 安全保障理事会の難問
 第三章 平和維持と平和執行
 第四章 経済的課題
 第五章 国連の活動のソフトな一面
 第六章 国際的な人権の推進
 第七章 「われら人民」-民主主義、政府、非政府組織その他の団体
第三部 現在と未来
 第八章 二一世紀の約束と危険

第一部は第一章だけが割り当てられており、国際連合が誕生するまでの経緯が述べられている。
第二部は第二章から第七章の6つの視点で構成されており、国連の現状を理解する重要な部分となっている。
第三部は第八章のみ一章のみで、ポール・ケネディ氏の国連改革の主張と今後の展望について語られる箇所である。

各章の流れに沿って書いていくと、相当な文章量になりそうなのでどうしようかと思うのだが(^_^;)いくつかポイントと思われる箇所を指摘しておきたい。
まず第一章は、第一次世界大戦前の欧州5大国によるコンサート・オブ・ヨーロッパ(欧州協調)の評価に触れるところから実質的に書き出されていく。欧州協調は必ずしも欧州全体を鑑みるものではなく、第一次世界大戦と防ぐことはできなかった。
この構図は、第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟を想起させるものである。国際連盟は、第一次世界大戦の反省のうえに、大きな戦争を防ぐことを目指すが、アメリカ、ソ連の2国は自国の利益優先の姿勢を崩すことなく、ドイツ、日本の暴走を止める力など全くなかった。最終的にアメリカもソ連も連合国に参画するが、あきらかに戦後世界の勢力争いに参集するものでしかない。
そうした中で、1943年頃よりイギリスを中心として戦後世界の協調体制を目指す試みが始まる。
国際的な責任体制に参画することを嫌悪するアメリカ、ソ連の2大国をいかにして国際協調の枠組に組み込むことができるのか。これが戦後世界が成功する最大不可欠の条件であったことは誰もが認めるだろう。
こうした状況下で必然的に認められたのが「拒否権」の付与であった。
この歴史的認識を共有化するのが第一章の目的であるといってよい、と私は思う。

第二部は6つの視点で国際連合(国連)の現状と問題点、現在までの功罪を記述している。
現状として、最も関心を集めるのは安全保障理事会に関する問題である。
第二章に詳しいが、拒否権をめぐる常任理事五ケ国の行動が問題を大きくしているのは紛れもない事実である。ではその拒否権を制限すればいいのか。そんな単純な問題でないことを私たちは学ばなければならない。その点が第二章の主眼のひとつである。
拒否権を、そして常任理事国のあり方そのものを批判する国は、多い。
しかしそんな国が常任理事国になれるという可能性が提起されると、こぞって「なりたい」という。安保理の常任理事国とは魅力あるもののようである。

国連憲章には6つの機関の設置が明示されている。
憲章上では対等に位置づけられているようにも読めるが、実態は安全保障理事会がその頂点に立っている。けっして「総会」では、ない。(蛇足だが、信託統治委員会にいたっては有名無実である。)
加盟国すべてが発言の機会を得ることができる「総会」は人類の議会のイメージそのものであるが、私たちの「国連」は安全保障理事会が決定した事項を総会で追認するというのが実態である。
総会がいかに勧告を出そうとも、安全保障理事会は自分たちの価値観で無視することができる。事実、過去の歴史がそうであった。
その安全保障理事会の意思決定は5つの常任理事国に握られている。
現在、それ以外に10の非常任理事国が2年任期で交代して任命されているが、彼らは拒否権を持つ常任理事国に比べて、まったくの無力である。それは「だらしない」とかの問題ではなく、国連憲章の規定によってパワーバランスが決まっているのである。

私たちの住む日本は、そんな強大な権力を持つ常任理事国になりたがっている国の筆頭格だ。
どうして日本は常任理事国になりたがるのだろうか?
これは自民党も民主党も、同様の傾向である。民主党の小沢氏にいたっては「熱望」状態かもしれない。
ポール・ケネディ氏は安保理理事国を目指す理由は、「名誉」と「拒否権」の2つであるとバッサリ切り捨てている。
「世界平和の実現のため、世界でリーダーシップを発揮するためには、常任理事国にならなければならない」という主張には、論理的な理由がみつからない。
常任理事国になれば何ができるというのだろうか。
少し学べば誰にもわかることである。

第三章『平和維持と平和執行』は、現在の世界が抱える喫緊の問題である。
元々、各国が国連に加盟するには、常任理事会の了承を経て国連総会で承認される必要がある(加盟国の実態概要は→こちら)。

日本人の多くが理解していない事実として、国連は武力による平和維持及び平和執行活動を前提としている(国連憲章第42条)。すべての国連加盟国は国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便宜を安全保障理事会に利用させることを約束している(同43条)。日本がその特例になっているという事実はない。
つまり、もし国連加盟国に紛争が起こり、その安全保障が脅かされる場合において安全保障理事会の要請があれば、加盟国は必要な兵力を提供する義務を負っていることになる。もちろん、国連憲章は各国の国内法を優先するため、その国の法律が執行の前提になる。
この観点で現在の政府の対応を検証すると、明らかな義務の不履行が存在するといわざるを得ない。
国際の平和のために軍事力を持つ必要などは、もちろんない。
しかし、軍事力を持たないことが、紛争地域に日本国民を送り出さなくてもいいという理由にはならないのである。
民主党連立政権が主張するような「民生分野に限定した国際貢献」しかしないという主張は、国内法の根拠はないということである。
仮に日本が担当しなければ、他の国が担当することになる。
危険な地域での平和維持及び執行活動は他国に押し付けて、日本は生命の危険のない分野での貢献しかしない。
中小国であれば、それでもいいだろう。
しかし、果たしてこれで「国連の中で強いリーダーシップを発揮したい」という鳩山総理の主張が、真正面から受け入れられるかどうか...。

ソマリア、セルビア、カンボジア、ルワンダ...。
国連の平和維持及び平和執行の失敗が続く。
なかでもルワンダの失敗は国連の責任が重過ぎると言わざるを得ないだろう。
これらの紛争の中で生命を落としていった人々のことを思うと、またその同時期にその事実すら知らないですごしていた自分自身の来し方を思うと、世界の平和って何なのかと考えてしまう。日本としても、民生分野だけと言って、それ以外の検討をしないでよいのだろうか。
どんなきれいごとを言っても、世界のどこかで紛争が起こっている。
国際紛争の解決としての軍事力を放棄した日本であるが、だからと言って、紛争で苦しんでいる世界の同胞を守らずでよいのだろうか。
なんらかの責任を果たし、住民の安全を守るために働くとしたら、その業務を前提に人員を募り、訓練し、現地に赴く取り組みを検討することを提案したい。

第四章『経済的課題-北と南』は実に興味深い分野である。
「三脚椅子」のたとえのように、経済の復興、貧しさからの脱却は平和実現における大きな要素である。
しかし、この重要な分野での国連の貢献度、かかわりがどの程度有効であったかは、ポール・ケネディ氏が指摘するように、極めて疑問視すべきである。
民間の財団による貢献、そして主に自助努力で戦後復興を成し遂げたアジア諸国の成功例を目の当たりにしてきた私達から見ても大いに共感する論点である。
重要な課題であり、今後の世界平和を支える不可欠要素であるが、国連との関係という視点では、語るべき内容はさほど多くない。
しかし、経済的課題、特に南の国家発展を推進するためには、その財源の確保が不可欠である。その負担を北の先進諸国がどこまで担うのか。またそうした経済的支援を、南の国々は返済することができるのか。
現実問題として、不採算であれば継続することは困難である。

そしてここで指摘されるもうひとつの問題は、「世界の大国は本当に安保理常任理事国の5ケ国なのか」という点である。
国連が目指す、軍事的衝突がない世界が実現された暁には、常任理事国に付与された拒否権という特権も消滅させるのか。経済的大国となっているであろうインドやアジア諸国、中南米諸国が自国の利益のために国連を脱退すると言わないとは、誰が保障できるだろうか。そんな状況になった場合に、経済的大国に拒否権を付与することで国連に留まれという主張を、当事国自身が主張することも想定されるのではないか。

経済的課題の底辺には、こうした今後の国連内のパワーバランスの問題が大きく横たわっている。

そして、この経済的課題への挑戦は、第五章にも関連する地球規模の環境破壊と深く関係する。
第五章のソフト面の国連活動として取り上げているのは、女性と子供の問題、公衆衛生、人口問題、環境問題、そして文化の多様性の尊重である。「軍事」「経済」的活動をハードな側面と規定し、その対照軸として論じている。

しかし、国連憲章では、こうしたソフト的課題を担う部署は規定されていない。
必要に応じて設置された機能委員会や専門機関が精力的にその責務を遂行している。
そして、こうしたソフト面の理解、融和が世界の政治的軍事的危機を回避する大きな、かつ本源的な力になる事を、私たちは大いに理解している。
こうした活動を効果的に推進するために、「国際会議」という舞台を積極的に活用している。国際会議がもたらす効果は、実に広範囲に広がる。
ひとつの国際会議が終わる時点で、次の会議までの達成(努力)目標が決議される。それと同時に次の開催時期、開催地域が発表される。
ここは前人の智慧を大いに感じるところだ。
明確な数値目標を掲げることで、次の会議でその達成度がはっきりする。
各国が批准すらしない場合もあるが、それも各国の状況が国際的な明らかになるということでもある。
確かに、目標の不達成が続くと会議そのものの意味が問われることにもなりかねない。
しかし、それも現状に立脚するために必要なワンステップとなるだろう。

ここで取り上げられている各種団体、組織の取り組みや比較は非常に興味深い。

第六章では「人権」の課題を取り上げている。
いうまでもなく、生命尊厳という偉大なテーマと深く関係する課題である。
国連創設の精神的基底部に、ナチス・ドイツが犯した非人道的行為への激烈な怒り、人類としての反省があったことは間違いない。
その一方で、国連創設後もしばらくの間、植民地統治は続けられた。
相矛盾する行為であるが、国家というものは、人間というものは、自身の利益のためには平気で矛盾する行為もするし、エゴイスティックにもなれるということだろう。

特に民族独立を進めてきたアフリカ地域、東南アジア地域での事件は凄惨を極めた。ルワンダ、カンボジアの悲劇を繰り返さないために、私たちは何ができるだろうか。

ポール・ケネディ氏は、人権問題の分野で国連から広まる進歩の可能性として、
①指導者のレベル
②人権侵害の報告とデータ収集の強化
③国連人権高等弁務官事務所の存在による世界へのメッセージ発信
この3点をあげている。しかし、その主張は実に脆弱である。

現在の国連において、人権を大きく主張できるのは国連総会であり、国連事務総長の存在といえまいか。国連人権高等弁務官事務所を活かしつつ、総会としての運動の推進を強く期待したい。

第七章は今後の国連、世界を代表する国際機関としてのあり方について言及している章である。
いうまでもなく、国連は国家の連合体である。
前述のとおり英語表記は United Nations であり、国連軍とも訳されることもあり、直訳すれば「国家連合」を意味する言葉である。
今後の世界の潮流を展望すると、国家の枠組みでない民衆の声を代表する機関が、いかに世界を代表する国際機関の中で発言権を得て、庶民の意思を反映させていくかという大きなテーマがある。
この章では、その問題について真摯に考察が行なわれている。

そして、第三部『現在と未来』に入る。
ここは第八章「二十一世紀の約束と危険」の一章が充てられている。
ポール・ケネディ氏が提唱する様々な国連改革案が丁寧に主張されている箇所である。
この内容については、各人で確認していただきたい。
※私なりのまとめは別途記載しておきたい。( →メモはこちら )

ポール・ケネディ氏は本書の冒頭で次のように綴った。

(国連が、現実に)人類共通の善と長期的利益のために、自らの不安や利己主義を克服できるかどうかである。
二十一世紀の歴史の大半は、その課題にわれわれ全員がどう対処するかにかかっていると言えよう。

そして、次の文章で本書を締めくくっている。

数々の予想外の展開や後退、恐ろしい統治の失敗、おぞましい人権侵害、憲章の目的を尊重せず独自の道を貫こうとする政権と遭遇することも、覚悟しておかねばならない。我々はそんなことに最善の対応を妨げられることなく、「戦争の惨害から将来の世代を救う」というこの常に成否相半ばする試みの歴史をよりよくし、「基本的人権に関する信念をあらためて確認」し、「いっそう大きな自由のなかで社会的進歩と生活水準の向上とを」促進するために、知恵を絞らねばならない。
この国連憲章の前文は、まさしく正鵠を得ている。
問題は、われわれにそれができるかどうかである。

眼前の危機を乗り越えながらも、今一度、問題の本質に迫る努力を私たちは開始しなければならない。
広範囲にわたる問題群に対して、ややもすれば個々人の努力は無力であるように感じてしまう。身近であるはずの政治や行政ですら、何か大きな力の流れで動いていて、一人の人間の意見では何も変わらないように感じる今日この頃である。
ましてや、世界の平和だとか人類の幸福などと言うと、個々人が想像をすることすら無意味であるように感じるのは致し方ないのかもしれない。

しかし、である。
突き詰めて思索を重ねるならば、一人の人間における地道な意識変革と具体的行動のみが世界を変えるという、絶対的法則に行き着くのではないかと思えてくる。
ここに書かれているのは、「人類の議会」が必要だと感じた人々が行動してきた歴史であり、その具体的な方策の成功と失敗の記述である。
そして、二十一世紀の現在を生きる私たちが「何をすべきか」を考えるための一書である。

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