【読書会】『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック) 第48回桂冠塾
年度末が差し迫った3月28日(土)に3月の桂冠塾を開催しました。
今回の本はM.スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち-虚偽と邪悪の心理学-』です。初版から20年近く経過した本ですが今読んでも様々な示唆に富んでいるように思います。
■誰が邪悪なのか、何が邪悪なのか
当日話題にもなりましたが、ケースタディとして紹介されている事例を精査してみると「誰を邪悪だと指摘しているのか」「その人物のどの行動、思考が邪悪とされているのか」が曖昧に見えてくるケースがあります。
例えば第一章で紹介されているジョージのケースはその典型でしょう。
何をもってジョージが邪悪と指摘されているのか。
・自分自身の強迫神経症の症状から抜け出すために悪魔と契約したことが邪悪なのか。
・悪魔という、神と対立する考えをもったことが邪悪なのか。
・ジョ-ジ自身が信じていない悪魔という空想をしたことが邪悪なのか。
・悪魔という考えが架空だから邪悪なのか。
・強迫観念と対峙する罰を悪魔との契約に盛り込んだことが邪悪なのか。
・その悪魔との契約に自分の息子の生命を盛り込んだから邪悪なのか。
・悪魔という忌み嫌うべき存在を空想することで現実の葛藤から逃げたから邪悪なのか。
この点に関して、スコット・ペック氏の記述は極めて曖昧である。感情的といえるかもしれない。示唆的に「伝統的なキリスト教的宗教モデル」に基づいて「神と悪魔のあいだの大きな戦い」であると書いていることから類推すると悪魔という概念に組み込まれたことを問題視しているように思える節もある。
しかしそれは心療内科的な見地から「邪悪」を科学的に研究するという趣旨からは逸脱しているのではないか。人が邪悪な考えを持ったからといってそのこと自体を非難したり否定することは現実を見ていないように感じる。人は誰でもそうした考えをもつことがあるのではないだろうか。
少なくとも上記ジョージ氏のケースでは被害を受けた他者は存在しない。
彼自身の心の中の葛藤の域を出ない。
現実の社会には悪影響を与えていない。
しかもジョージはその精神的遣り取りによって精神的不安定さから抜け出すことができている。これは誰でも空想しうる出来事であり、邪悪といえないのではないかという指摘もあるだろう。
■「邪悪な人」は身近にいる
第二章以降のケースは、ジョージに比べると邪悪な人物、行動の特定は比較的に明瞭である。しかし本文でも指摘されているように依然として邪悪の判明は曖昧であり、加害者、被害者の関係も一定しているわけではない。相互依存でもある。
スコット・ペック氏が主張するように、病症のひとつとして「邪悪」という認定を行うことは大きな一歩を踏み出すことであるのかもしれない。実際の生活をしているとスコット・ペック氏が指摘する「邪悪な人たち」は厳然と存在する。
その特徴を本文から列挙すると...
・邪悪な人たちは、自身の罪悪を認めない。
・多くの場合、堅実な市民として生活している。
・彼らの犯罪は隠微であり表に現れない。
・自分自身には欠点がないと思い込んでいる。
・自分自身の罪悪感に耐えることを徹底的に拒否する。
・自分の行為を隠蔽するために他人に罪を転嫁する、スケープゴートにする。
・世の中の人と衝突すると、必ず他人が間違っているために問題が起こると考える。
・自分自身の欠陥を直視する代わりに、他人を攻撃する。
・自分自身の中の病を破壊する代わりに、他人を破壊しようとする。
・道徳的清廉性を維持するために絶えず努力する。
・他人が自分をどう思うかという点に鋭い感覚を持っている。
・善人であろうとはしないが、善人であると見られることを強烈に望んでいる。
・自身の邪悪性を認識していないのではなく、その意識に耐えようとしない。
・邪悪な人の悪行は罪の意識から逃れようとして行われる。
・社会的な対面や世間体を獲得するために人並み以上に奮闘し努力する。
・地位や威信を得るためには熱意を持って困難に取り組むこともある。
・自身の良心の苦痛、自身の罪の深さを認識する苦痛を耐えることができない。
・自分の正体を照らす光を嫌う。
・自分中心的な行為が他人にどのような影響を及ぼすのか考えない。
このような傾向を持っている。
上記のような人物が、誰の身の回りにも一人や二人はいるはずである。「そうなんだよ!」という声があちこちから聞こえてきそうである(^_^;)
日頃から「あの人、これっという決定的な出来事はないけど生理的に信用できない」という知人がこれに当てはまることが多いのではないかというのが、私の個人的印象でもある。
それはペック氏も指摘しているように、邪悪の認定の困難さのひとつが「隠微さ」にあることに起因している。一つ一つの行為を見ていると、それだけのことでは邪悪とはいえないのではないかというケースが殆どである。仮にひとつふたつの行為で回りの人の大半が「この人は邪悪だ」とわかる人は早かれ遅かれ法律によって裁かれる。そうではない人が問題なのだというのがペック氏の指摘である。
その後、ペック氏の論点は自らに最もかかわりを持った患者であるシャーリーンにうつった後、集団の悪について論じていく。
「邪悪の認定」については多くを語るペック氏であるが、その処方箋となると必ずしも多くのページを割いているわけではない。キリスト教信徒らしく、神の加護を信じ、愛の実践を貫くことを主張している。
作品の全編を通じて、ペック氏の思想の底流に流れているのはキリスト教による愛の実践である。彼が宗教的な問題と科学的問題が対立するという際の「宗教」とは、常にキリスト教であり、仏教等の思想はこれに含まれていない。
こうした点とも関連するわけであるが、ペック氏は「人はなぜ邪悪になるのか」という点については触れていない。その結果の必然として、「どうすれば邪悪の精神を克服できるのか」という我々読者が最も知りたい結論についても論及することができない。
この点がこの作品の限界と言える。
■「邪悪な人」は修羅の生命状態
では生命論的に考えると「邪悪」という状態、「平気でうそをつく人たち」とはどのように考えればよいのだろうか。
仏教観で考えると、生命の状態は刻一刻と変化し続けている。「人生は無常(常ではない)」という表現はまさにここから出ている概念だ。
その意味では「邪悪」な状態も当然出てくることもあれば他の生命状態が中心になっていることもある。したがって人によっては、「邪悪」な生命状態がことのほか多く表面化しその人の人生の大半を占めているというケースも意外と多いように感じる。「生命の基底部」と表現される、その人が最もよく帰着する生命状態が問題なのである。
「邪悪な人」とは生命論では修羅界の生命状態に最も顕著に現れると言えるのではないか。
自分の対面を繕うために他人をスケープゴートにするあたりは他化自在天と呼ばれる生命そのものであり、自身を認めさせようと強烈に努力するあたりは下品の善心であり、勝他の念であり、我慢(自分が、自分が、という慢心の生命)のエネルギーそのものである。
仏法では、そうした生命状態も十界互具であるからこそ自己を高め、幸福社会実現へのエネルギーとすることができると解明する。またその原因は過去世からの自身の業行に他ならないと説き、すべては自分自身から出発し自分自身に帰結することをその根本法則として解明している。そのうえで生命の大転換を行う方途を宇宙を貫く大法則して展開し、実践するうえでの最重要要素として生命法則を実際に体現する人間の生命活動に着眼し、そうした人間の連続性を継承する師弟の存在の重要性を論じている。
ここに、ペック氏が指摘だけに終わっている諸課題の解決の方途があるのではないかと私は受け止めている。
■「邪悪な人」克服のキーポイントは自身の生命変革にある
回りの人間の邪悪性を見抜く力を持つことも大切だろう。
邪悪というメカニズムを科学的因果律で解明しようとする努力も必要だろう。
そのうえで、それ以上に、そうした邪悪な生命状態を表に顕わした人達とも、変わらず接しながらより高い生命状態の環境に変化させていく努力を行うことが最も求められているように思えてならない。
回りの環境に一喜一憂するのではなく、自分を取り巻く環境を粘り強く変えていく努力。それはとりもなおさず、自分自身が変わることにある。
自分は変わらずして、回りを変えようという生命は他化自在天の生命であり、邪悪な人そのものに成り下がってしまう。
その意味で、日々の生活は自分自身の人間革命の挑戦といえる。
そう思えた時、自分が本当に変わることができるのではないだろうか。
回りに対する不満をぶちまけているだけでは、行く末は自分自身が「邪悪な人」になってしまう。
環境に紛動されていることに少しでも早く気づき、また日々決意をしながら自分自身から社会を変えていく一日、また一日でありたい。
【関連リンク】第48回桂冠塾実施内容
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コメント
┐(´-`)┌たしかに「邪悪な人」思い当たる人がいます
どのように接するべきか悩みは多いです...。
投稿: 名無しの太郎べえ | 2009年5月 7日 (木) 14時05分
そうですね。全く持って同感です。自己内省の道を自ら閉ざしてしまうと、他化自在天の様な生命状態い陥ってしまうのでしょう。意志の強い人であればあるほど、その傾向性は高いといえると思います。・・・
後、言葉の感じからして貴方は「学会員」さんだと思うのですが、当たりですか?
投稿: 徒然熊 | 2009年10月 7日 (水) 07時21分