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2008年7月の4件の記事

2008年7月31日 (木)

第40回桂冠塾『月と6ペンス』(サマセット・モーム)

0407月26日(土)に今月の読書会を開催しました。
今回の作品はサマセット・モーム作『月と6ペンス』です。

サマセット・モームには『人間の絆』などの代表作がありますがモームの存在を知らしめた本作品を取り上げました。
戦後しばらくの期間にわたって英語教育の教材に取り上げられることが多かったようで、中高年世代以上の方には懐かしく感じられる作家です。「モームの作品は英語の副読本で読んだ」という人もいました。

作品そのものの評価は必ずしも高いとは言えないかも知れません。
たしかに何らかの啓発を受けたという人は少ないようですし、私自身読了した感想としては問題提起の意識の高さに比して、独自の思索の深さというものはあまり感じられなかったように思います。
しかしモーム自身の文筆の力には驚嘆させらます。
とにかく先に先にと読み進めたくなる文章とストーリー展開。
適度な話の溜め方には、嫌気が差すほどひっぱりまくる今どきの報道番組のプロデューサー達にも見習ってもらいたいほど、抜群のタイミングを感じます。
モームの短編作品が高い評価を受けているのも、そうした点に大きな要因があるようにも思います。

モーム自身が強く感じていた問題意識とは何か。
それは様々な表現があると思いますが、ある視点から見ると「人間とは何か」という人としての本源的な叫びであったように感じます。
モームはその疑問を生涯持ち続ける中で、ゴーギャンという異色の画家の人生を知り、『月と6ペンス』の構想を具体化していったのだと思います。
ただ、その疑問についてのモーム自身の思索は深化することはなかったように思います。その裏返しとして、自分自身を「通俗的」作家という表現で自虐したのかなとも思います。
自伝的作品である『サミングアップ(The Summing Up)』では「自分は批評家たちから、20代では残忍、30代では軽薄、40代では皮肉、50代では達者、現在60代では皮相と評されている」と書いている。
そのように記述し、また自身もそのように表現することで、そこから先の思索を凍結してしまったように感じる。
モームには、そこで立ち止まることなく、人間そのものを直視し、掘り下げていく努力をしてほしかったと思う。
またそれができる人物だったと思いたい。

作品の発表から明年で90年。
サマセットモームの提示したテーマを解決する必然性が迫ってきているように思えてならない。

【実施内容などは→】第40回桂冠塾実施内容

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2008年7月22日 (火)

社会保険庁の入力ミスで13年間無年金生活

73歳になった男性が、以前に勤めていた年金納付期間がみつかり13年前に遡って月額75000円の年金給付が認められた。
この方の名前は松居幸助(こうすけ)さん。不明になっていた年金記録は1969年2月~4月分。この分の納付記録には名前が「ユキスケ」となっていたという。松居さんは年金受給資格である納付期間20年(240ケ月)に1ケ月足らないとして、65歳の時に訪れた世田谷社会保険事務所で申請を却下された。このとき、氏名の入力違いの疑いのあるデータを調査するなどの処置を社会保健事務所は怠った。今から10年余り前当時の公務員の窓口対応を思い出すと、大柄な態度だったんだろうと容易に想像できてしまう。

松居幸助さんは何度か転職を繰り返しながら65歳まで仕事に従事。65歳以降は兄と公営住宅で同居しながら貯金を切り崩して細々と生活。昨夏に同居の兄が逝去したあとは秋から半年間病気で入院生活となり、弟に家賃を納めてもらいながら生活してきたという。

社会保険庁の心ない安易な作業に人生が大きく狂ってしまった人がいる。
勤務時間をだらだらとやり過ごすことに罪悪感のない社会保険庁職員、何の責任感もなく適当に作業件数をこなすアルバイト、常に責任所在を回避しながら無難に業務を消化し高い金額を得ようとする請負業者...。
無作為による犯罪の責任は、法廷で厳格に裁かれなければならない。

そうした法的処分が行なわれたとしても、やりきれない思いが、間違いなく残る。
私達の人生ってなんだろう。
そんな些細な、どうしようもない、いいいかげんな輩の怠慢によって、大きく左右されてしまう人生とは...。
憤懣をたたきつけることで一時の気持ちは晴れる。
経済的な保証や、場合によっては損害賠償を得ることもあるかもしれない。
しかし、それで自分自身の人生を切り拓くことができたといえるだろうか。
いいかげんな人間の性根を根本から叩きなおすこと。それも精神論や懲罰によってできるものではないだろう。
自分自身を含めた全ての人の生命に巣食う怠惰な生命傾向を転換することのみが根本的な解決の道ではないかと痛感する今日この頃である。

【関連記事】
無年金 入力ミスで13年 73歳、記録見つけ受給資格

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2008年7月14日 (月)

第23回黎明塾「マーケティング・チャネル」

7月12日(土)に第23回の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「マーケティング・チャネル」。

マーケティング・チャネルをどのような形態で構築するのか。
経営の実務面において重要な構成要素となるのがマーケティング・チャネルである。

「マーケティング・チャネルの判断によって1000万円の費用を削減することは1億円の売上に相当する」といった表現が用いられることがある。この表現自体は売上と利益の関係を説明しているに過ぎないが、裏返せばマーケティング・チャネルには経営判断の裁量が大きく、経営を持続できるかどうかのポイントも多く存在しているという見方もできる。

事業は常に変化し続けている。
その変化の兆候を一番最初に感知できる日常活動もマーケティング・チャネルである。それと同時にチャネル全体を自社管理するためには膨大な費用を要する事実があり、それを行なうことは採算性の面から現実的ではない。
では、どのような形態で、どの段階を、だれが担うのか。
ここにチャネル設計の目的がある。
経営は総合芸術である。
一人でできるなら、それは素晴らしいことである。
しかしそんな人間はそうざらにいるものではない。
そこに組織の必然性があり、チャネル・アレンジメントが発揮される。

チャネル・アレンジメントの優劣によって企業としての収益性が大きく左右されるという認識で経営判断に取り組みたい。

【実施内容等について】第23回黎明塾の実施内容

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2008年7月10日 (木)

第39回桂冠塾『三国志』(吉川英治)

6月28日(土)に第39回目の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本は吉川英治作『三国志』です。

039 時代は今から1800年ほど前。
日本においてはやっと邪馬台国の存在が認められる程度で、大和朝廷が歴史に登場する以前の時代である。当時の日本の状況はよくわからないのが実態で、詳細な歴史などもちろん判然としない。日本人にとっては、そんな太古の時代に三国志の世界が繰広げられているのことに大きな驚きを覚えずにはいられない。

皆さんは『三国志』という作品にどのようなイメージを持っているだろうか。
魏・呉・蜀が覇権を争った壮大な大河物語。
劉備玄徳を中心とした信義の世界を描いた物語。
諸葛孔明が活躍する知略攻防の世界。...
こんなイメージが多いのではと思う。そういう私も同様のイメージを持っていたが、今回一気に読み通した読後感は、全く違うものに変わった。

人智の及ぶ限界というか、高き理想を継承し実現することの困難さといえばいいのか、世の常ならざるあわれをひしひしと感じざるを得ない。そんなある意味でやるせない思いが広がった。
諸葛孔明はそうした状況を「天命」「天意」と呼ぶ。
当時の中国、漢民族の奥底にある思想を垣間見ることができるのも「三国志」を読む楽しみ。特に印象的なのが星をはじめとする天文によって将来を予見しようとする思想だ。しかしそれを神通力とか妖術だと短絡視しないところが「三国志」のおもしろさだ。逆に妄信的な思想はことごとく退けられている。言い換えれば自然界の摂理、法則をよく知ることが勝利の秘訣と説かれているとも読むことができる。現代にも通じる考え方である。

物語の後半は、亡き劉備玄徳の遺志を受け継いだ諸葛孔明が、天下万民が天子の元で安心して暮せる国家の創出に全生命を賭けて戦いを挑み続けるシーンが続く。
しかしその壮大な挑戦に綻びが生じる。それは、恣意的で自己中心的な人間の弱さ、ずるさからだ。ここで勝利していれば大願は成就できたはずという緊迫した場面で、だれか一人が自分の利害に固執し、堕落した自分自身の生命に流され、本来の目的を忘れて、団結の呼吸を乱し、そこが敗北の因となっていく。
諸葛孔明は、どんなにか、歯軋りを繰り返したことであろうか。

人こそ、すべての出発点であり、終着点である。
そのためには、人(人材)が綺羅星のごとく涌き出で続けるのか、病んだ歯がぼろぼろと抜け落ちていくようにいなくなってしまうのか...。
蜀の滅亡は、劉備玄徳の息子・劉禅の姿に如実に象徴されている。

今回の桂冠塾では「桃園の巻」「群星の巻」を中心に読み進めていただいた。
諸葛孔明も登場する前であり、魏呉蜀が天下三分の計でにらみ合うずっと以前が舞台である。黄巾の乱から始まり、桃園の誓いが行なわれ、董卓が暴政を行い、曹操がそれを伐つというあたりまでである。群雄割拠する英雄の中で劉備玄徳はどちらかというと、まだまだ影が薄い。曹操も決してスマートで智謀に長けたという感じではなく、感情的で短絡的な行動が目に付いてしまう。黄巾の乱も、発起した際の大義名分は徒党を組んだ当初からどこかに消えうせている。それもあまり疑問を差し挟むことなく淡々と書かれている印象だ。人は大きな権力や人を動かせる立場に立つと、生命の底に潜む悪性を昂然とあらわすのだろうか。「三国志」の世界は出来事を淡々と記述することで、人間の生命の持つ傾向性、生命そのものの本質を赤裸々に描き出し、読む人にそのことを気づかせてくれるのかも知れない。

そんな状況だからこそだろうか。朴訥として人間味くさい劉備玄徳が、次第に人望を集めていく展開に。人の世にあって何が大切なのか、つくづくと考えさせられる。

語りだすとまだまだ尽きることがない。
人生の色々な場面で、何度となく読み続けていきたい一書である。

【関連リンク】

第39回桂冠塾の概要
http://www.prosecute.jp/keikan/039.htm
大三国志展(東京富士美術館)
http://www.fujibi.or.jp/exhibition/sangokushi.html
大三国志展ブログ
http://www.fujibi.or.jp/3594blog/

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