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2008年2月 8日 (金)

倖田來未「羊水が腐る」発言をめぐる騒動の本質は何か

倖田來未が今月1日にラジオ番組の深夜番組で行った「35(歳)ぐらいまわると、お母さんの羊水が腐ってくるんですね、本当に」発言が物議を醸して、一週間が経つ。
ネット上で大きな議論になることは容易に想像できたことなので、個人的には特に発言は控えていたが、ここにきて倖田來未本人による謝罪が放映されるなど、事態の終息に向かうかに思われてきた。
状況的にはほぼ意見が出揃った感もあり、少し触れておこうと思う。

この事件をコメントする気になったのは勝谷誠彦氏の発言をネットで知ったことによる。
勝谷氏は2008年2月4日に放送された日本テレビ系情報番組「スッキリ!!」の中で発言、また翌日月5日放送の朝日放送の情報番組「ムーヴ!」でも発言している。
その主旨は「謝っているのだからもう許せばよいのだ」「ネット上の倖田來未へのバッシングは一種のいじめだ」「バッシングを煽っているバカがいる」等という内容であることが報じられている。

確かに昨今のブログ炎上などの事件をみると、しかるべき原因があると思われる一方で「見解の相違」から表現の自由が封じ込められてしまったケースも見受けられる。
しかし、今回の倖田來未「羊水が腐る」発言への反響がバッシングと言えるものなのだろうか?

昨今の大衆(今回でいえば視聴者)の世論がネットによって、急激に過熱する危険性は以前から指摘されている。ひとつにはネットの有する匿名性が拍車をかけているという見方は一面の真理を有していると私も感じている。確かに悪意のある匿名者がある意図をもって世論を誘導するケースもあるだろう。
しかし、少し視点を変えて考えてみよう。
もともとの倖田來未の発言は正しいのか?
もちろん明白な間違いである。
ネットが普及していなかった数年前までは、電波によるマスメディアでの発言は、たとえ明らかな間違いであっても発信した側が訂正放送を行わない限り、一般視聴者(大衆)は「そうなのかなぁ」と思い込まされてしまう状況に置かれていた。特に日本においてはマスメディアによる世論形成は顕著であるといわれてきた(その理由として哲学不在の国民性が指摘もされてきたが今日の本題ではないのでそれはまたの機会に)。

現在の状況は、ネットの普及によって、垂れ流し状態であった電波メディアの誤謬が、短時間に、より多くの大衆の間で意見交換ができる環境になりつつあるということでもある。
これは決して悪いことではない。むしろ喜ばしい状況ではないだろうか。
私個人の印象としては、今回の倖田來未の発言は様々な意味で相当危険な発言だ。
公共の電波で発言することの責任は、非常に大きい。
それは勝谷誠彦氏にもいえることだ。
ましてや倖田來未の歌はティーンエイジャー達にも多くのファンがおり、その影響力は勝谷氏の比ではないだろう。そんな彼女が不用意にも「30歳を過ぎた女性の羊水は腐り始める」なんてデマゴークを公共の電波で、堂々と、しかもいったん問い返されたにも関わらず、訂正もしないまま主張し続けた責任は、圧倒的に、重い。
たしかに25歳という若さだから致し方ない要素もあるだろう。
しかしそうであれば、そんな倖田來未に、生放送のラジオ番組で(当初は生放送と言われながら、実際は収録と報道されているが収録ならなおさら)自由に発言できる枠を1時間近くも与えたメディア制作側の責任も、問われなければならないかもしれない。

活動を自粛しろとか、する必要がないとか、回りから言うことは意味も必要もないと思う。
発言した本人がその発言の重みを自覚して、自ら処断することだ。
そして、より大切なことは、これからどのような行動をしていくかということである。

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