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2008年2月の7件の記事

第35回桂冠塾『人形の家』(イプセン)

035 2月23日(土)に2月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月取り上げた本はイプセンの『人形の家』です。

作品が発表された当時、女性の人権確立が叫ばれていた時代背景とも重なって、女性の自立と権利を主張した作品のように思われがちですがそれにとどまる作品でないことは読み返してみると明白です。

人の幸福とは何か?
人は何のために生きるのか?
こうした生命の本質的な問いかけが随所にちりばめられています。主人公のノーラ(以前の訳本ではノラ)とその夫ヘルメルのすれ違う会話の本質は、価値観の相違そのものでありました。

舞台が開いた時にすでに行われていたノーラの違法行為。ヘルメルにとってはストレートに違法かどうかが問題であるのに対して、ノーラはその行為の動機や目的が一番大切だと思っている。思いが純粋であるのだからその行為は罪ではないと法律書のどこかに書いているはずだと、頭から思い込んで微塵も疑わない。

ノーラへの金銭の貸主であり、夫ヘルメルの就任先の部下になる男であり、かつて手形の偽サインで社会的に失墜しているクロクスタに、脅迫に似た要求を突きつけられて、ノーラの過去の違法行為が白日の下に晒された時。
彼女とヘルメルの状況に対処する姿とその行動理由が実に対照的だ。
そして、リンデ夫人の役回りと絡まってクロクスタがノーラの違法行為の暴露を放棄したあとのヘルメルの豹変振りは決定的だ。
失笑さえ出てくる場面だが、しかし、ヘルメルのとった行為を浅はかだと誰が言えるだろうか。
ヘルメル的行為は、私達の日常生活の中で、実に頻繁に行われており、常態化している。

しかしそのヘルメルの行為がノーラにとって決定的だったのだ。
それはイプセンにとっても、私達読者にとっても、人として何を基準に行動を決定するのか、何のために一緒に生き行動するのかという本源的な問いかけである。

【実施内容など】
http://www.prosecute.jp/keikan/035.htm

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放置自転車「どこに止めようが自由でしょ!」記事に心が痛い...

産経新聞の記事に目が止まった。
記事のレポート現場は都営大江戸線の光が丘駅周辺。私が住む練馬区にある都営地下鉄の駅だ。まったくの他人事とも思えず、どこか恥ずかしい気持ちを感じながら記事を読ませていただいた。

現在の地域の問題のひとつに放置自転車がある。
自転車を朝止めて、電車を利用して都内に出かけた後、戻ってきて自転車に乗っていくのだから、正確には放置とはいえないかもしれないが、駐輪禁止エリアに止めていることには違いはない。

本質的には地域住民一人一人のモラルに起因することに間違いない。
しかし、このモラルを維持すること、立て直すことが、ことのほか難しい。それは何故なのだろうか。
同じ練馬区内・西武池袋線の大泉学園駅を利用する私自身のことを考えてみよう。

私は大泉学園駅前(南口)にある2種類の駐輪施設を利用している。
ひとつは線路沿いに作られている自転車スタンド。自転車の前輪にチェーンをかけてロックするタイプ。1回につき100円で利用できる。
もうひとつはゆめりあタワーに隣接する有料駐輪場。5時間または7時間毎に100円。最初の2時間は無料で解錠できるのもうれしいシステムだ。
ありがたいことに両方とも満車ということはたまにしかなく、時間を考えればほぼ確実にとめることができる。
加えて、我が家から駅までは徒歩8分ほど。時間に少し余裕がある場合は極力歩いて駅に行くことを心掛けている。

その一方で、駅周辺に自転車をとめていく人も後を絶たない。
特に北口側には放置自転車の台数が格段に多いように感じる。現在の住まいに引っ越す前は北口徒歩2分のマンションに住んでいたので、マンション駐輪場に無断駐輪していく会社員が数名いて、マンション住民、所有者の間で対応をどうするか議論になったこともある。

私は、地域社会のルールは守るものだと思っている。
それは「ルールを守らないと迷惑を被る人がいる」と感じるからだ。
放置自転車といっても迷惑になる人が誰一人いないのなら、行政等も駐輪禁止エリアを設けたりしないだろう。事実、利用者人口が少ない地域では駅前すぐの場所に駐輪していることも多々ある。しかし交通機関の利用者が集中する都市部の駅前に自転車を止めると駅への出入りや駅前の通行者に不便が生じる。特にベビーカーや車椅子利用者、点字ブロックを利用する視覚障害者が通行できない場合も多い。歩道を通れないために、駅ロータリー内の車道に降りてバスが通るすぐそばを危険を冒して通過することも見かける。

そんな危険を他人におっかぶせてまで、駐輪する必然性はない、と私は思うのだが、そう感じない人が、かなりの割合で存在する。
他者の気持ちを思い遣る心。
時代と共に、他者とも関わりを避ける、直裁的な意味でも境涯が狭い人が増えてきたように感じる現代社会。私たちが取り組むべき目下の課題が山積している現実に、地道に取り組みたい。

【関連記事】【溶けゆく日本人】放置自転車「どこに止めようが自由でしょ!」(産経新聞) .

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南大門の火災を教訓に

韓国の第一号目の国宝に指定された「南大門(崇礼門)」が放火により焼失した。
70歳の男性が放火の疑いで逮捕、容疑も認めているという。
今回の事件では、初期消火の遅れも指摘されている。
多くの韓国国民にとっても大きな衝撃だと思う。
こうした歴史遺産、特に木造建造物は火災や自然災害にいかに立ち向かうかというのは遺産保全と観光を含む市民への公開という両面を両立させるポイントでもあると思う。
スプリンクラーなどの消火設備が充分であったのか等々、今後に活かす教訓としていきたい。

【関連記事】南大門火災:「国宝第1号」崩壊、放火の可能性も(上) | Chosun Online | 朝鮮日報.

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第18回黎明塾「マーケティング戦略の立案までの重要ポイント」

今月2月1日(土)に第18回となる黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「マーケティング戦略の立案までの重要ポイント」。
概ね第10回から前回までの個々の視点での内容を俯瞰する意味で、今回のテーマを設定しました。

内容的には消費者市場と消費者行動に関する内容の再確認に多くの時間を費やしました。この点は今後の経営戦略の遂行と修正において重要な視点となりますのであえて時間を割くことができてよかったのではないかと思います。

次回からは経営における具体的な意思決定の内容に踏み込んでいきます。

【関連リンク】第18回黎明塾実施内容

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倖田來未「羊水が腐る」発言をめぐる騒動の本質は何か

倖田來未が今月1日にラジオ番組の深夜番組で行った「35(歳)ぐらいまわると、お母さんの羊水が腐ってくるんですね、本当に」発言が物議を醸して、一週間が経つ。
ネット上で大きな議論になることは容易に想像できたことなので、個人的には特に発言は控えていたが、ここにきて倖田來未本人による謝罪が放映されるなど、事態の終息に向かうかに思われてきた。
状況的にはほぼ意見が出揃った感もあり、少し触れておこうと思う。

この事件をコメントする気になったのは勝谷誠彦氏の発言をネットで知ったことによる。
勝谷氏は2008年2月4日に放送された日本テレビ系情報番組「スッキリ!!」の中で発言、また翌日月5日放送の朝日放送の情報番組「ムーヴ!」でも発言している。
その主旨は「謝っているのだからもう許せばよいのだ」「ネット上の倖田來未へのバッシングは一種のいじめだ」「バッシングを煽っているバカがいる」等という内容であることが報じられている。

確かに昨今のブログ炎上などの事件をみると、しかるべき原因があると思われる一方で「見解の相違」から表現の自由が封じ込められてしまったケースも見受けられる。
しかし、今回の倖田來未「羊水が腐る」発言への反響がバッシングと言えるものなのだろうか?

昨今の大衆(今回でいえば視聴者)の世論がネットによって、急激に過熱する危険性は以前から指摘されている。ひとつにはネットの有する匿名性が拍車をかけているという見方は一面の真理を有していると私も感じている。確かに悪意のある匿名者がある意図をもって世論を誘導するケースもあるだろう。
しかし、少し視点を変えて考えてみよう。
もともとの倖田來未の発言は正しいのか?
もちろん明白な間違いである。
ネットが普及していなかった数年前までは、電波によるマスメディアでの発言は、たとえ明らかな間違いであっても発信した側が訂正放送を行わない限り、一般視聴者(大衆)は「そうなのかなぁ」と思い込まされてしまう状況に置かれていた。特に日本においてはマスメディアによる世論形成は顕著であるといわれてきた(その理由として哲学不在の国民性が指摘もされてきたが今日の本題ではないのでそれはまたの機会に)。

現在の状況は、ネットの普及によって、垂れ流し状態であった電波メディアの誤謬が、短時間に、より多くの大衆の間で意見交換ができる環境になりつつあるということでもある。
これは決して悪いことではない。むしろ喜ばしい状況ではないだろうか。
私個人の印象としては、今回の倖田來未の発言は様々な意味で相当危険な発言だ。
公共の電波で発言することの責任は、非常に大きい。
それは勝谷誠彦氏にもいえることだ。
ましてや倖田來未の歌はティーンエイジャー達にも多くのファンがおり、その影響力は勝谷氏の比ではないだろう。そんな彼女が不用意にも「30歳を過ぎた女性の羊水は腐り始める」なんてデマゴークを公共の電波で、堂々と、しかもいったん問い返されたにも関わらず、訂正もしないまま主張し続けた責任は、圧倒的に、重い。
たしかに25歳という若さだから致し方ない要素もあるだろう。
しかしそうであれば、そんな倖田來未に、生放送のラジオ番組で(当初は生放送と言われながら、実際は収録と報道されているが収録ならなおさら)自由に発言できる枠を1時間近くも与えたメディア制作側の責任も、問われなければならないかもしれない。

活動を自粛しろとか、する必要がないとか、回りから言うことは意味も必要もないと思う。
発言した本人がその発言の重みを自覚して、自ら処断することだ。
そして、より大切なことは、これからどのような行動をしていくかということである。

【関連記事】
「35歳でお母さんの羊水が腐る」 倖田トンデモ発言に批判
「ネットでバッシング煽るバカ」 倖田騒動を勝谷が猛烈批判
倖田涙の謝罪インタビュー 「軽率だった」と繰り返す

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いいかげんにしろといいたくなるとき。

いろいろな活動に携わっていると「なんでこんなことに目くじらをたてるのだろう」という程度のことに、精力を投入する人にぶつかる。
今日もまたそんなことに出くわした。

ことは単なる些細な連絡だ。
私は経営者という立場以外にも、ボランティアをはじめ様々な人と関わる活動を行っている。
そこに新しいメンバーが増えることがわかった。
予定していた集まりが急遽変更になった。
そんなときに関係するメンバーに連絡をする。
そのような状況だと想像していただきたい。

私と同等程度の責任を担っている(と思っている)人が別にいると仮定しよう。
その人は自分が気にかけているメンバーの連絡は自分がとりたいという意識でいる(決してメンバー全員へという感覚でないところが微妙なのだが)。
しかし、だからといって私が残りのメンバーのことだけみていればよいというわけではない。
断っておくが、私だけが先に情報を得たわけでもなく、伝達すべき情報は明白な状況である。問題はアクションのスピードと前後である。
多少メンバーに連絡が遅くなっても、私からはその人が懇意にしているメンバーへの連絡はしないでほしいと思っているらしい。そのことを、私は本人からではなく、他の人から聞かされた。
しかし、行為の前後というものは、常に発生する。
私があとから聞くような情報も多々あるが、それを先に連絡を回されたからと言って、卑屈になったりするような感覚は、残念ながら、私には、ない。
「はやく連絡できなくて申し訳ない」というのが、そういう場面での私の偽らざる感覚だ。

また、連絡系統とは別にメンバー間で互いに連絡を取り合う、お互いに声を掛け合うというのは、ごく自然なことであると思っている。
現実に日々起こっていることだが、私から正確に連絡をしたが違う日付や時間等を思い込んでしまって参加できなかったという場合も時々起きている。そんな場合、別のメンバーからの連絡や確認で間違っていることに気づき事なきを得る場合も多い。
そんな現実の問題に対処することを考えれば、連絡の順番の前後を云々することがいかに徒労になっているかがわかるのではないだろうか。

少なくともそう思えない気持ちを、私に直接言ってくれるのであれば対応の仕方もあるが、直接会った際に私には話するわけではない。迂回して他者からそうしたことをクレームとして聞くことがここ数ヶ月続いている。
「そんなこと思っているのなら言って欲しいなぁ」という複雑な気持ち、ときに私からそれとなく言い出すと「そんなことはない」と笑顔が返ってくる。
なんともいえない、複雑な気分だ。

本質を見失った行為を押し留めることができるパワーはいずこに存在するのだろうか。
勘違いの人々を排斥するという考えは、本源的な解決方法ではなく、自分自身が有する理念とは、もちろん相容れることはできない。
そうした排除したくなるような思いと真正面から対峙することが、自身に課せられた巨大な課題であることに、日々気づかせられる毎日である。

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中国産冷凍餃子による中毒事件 冷静な原因解明を

千葉県と兵庫県で販売された中国産冷凍餃子による中毒事件が大問題になっている。
中国における過剰な農薬使用は以前から問題視されてきた。中国茶への検査が徹底できないのは業界では常識になってしまっているほどだ。
しかし、だからといって今回の問題の原因が中国における農薬漬けの野菜経営にあるかといえば、決してそうは断言できない。

今回の問題は少し状況が違う。
食に携わる者であれば誰もがすぐに気づいていることなので、あえて言うまでもないだろうが、数個の餃子を食べて残留農薬を摂取したくらいで今回報道されているような被害症状になるというのは考えにくいという事実があるからだ。
また発生のパターンも居所的で、同じ被害者でも食べた餃子個体によって発生したりしなかったりしている可能性が推測されるからだ。
マスメディアでは、どの局でもどの新聞媒体でも、報道している視点は概要2点だ。
つまり
1)原材料が製造工場に入荷して、製造、輸出して消費者の口に入るまでの経路
2)食べた消費者が中毒症状を発症してから、事件が公になるまでの経緯
この2点、言い換えれば発生に至るまでのプロセスと発生後事実が消費者に認知されるまでのプロセスである。

いずれも大切なことではあるが、特に1点目についてはどのメディアも冷凍餃子が現地で袋詰めの商品の形態に仕上がっていることとから、工場までのプロセスに原因があるとしているようだ。
しかし繰り返しになるが、一度の摂取で危篤になるような大量の有機リン酸系の薬品が検出されていることを考えれば、 何らかの人為的な行為がそこにあったとみるのが至極妥当になる。
あえて踏み込んで推測するならば、商品包装の上から噴霧または浴びせるような状況が想像される。
例えば
・商品製造後の冷蔵処理までの間の保存時に倉庫等を利用している場合に、不衛生等の理由でゴキブリ等の害虫が発生し、その駆除に使用したケース
・船便を使用していることが報道されていることから、荷積みの際に冷凍倉庫を使用せず積まれた場所にねずみ等の害虫が発生し駆除のため薬品を使用したケース
・船舶での輸送の最中に船内に住み着いているねずみ等の害虫駆除に薬品を使用したケース
こうした仮説の方が、製造ラインまでの過程で薬品が残留したり、製造工程の途中で混入したと考えるよりも、検出量から考えると可能性は高いのではないかと思われる。

たしかに中国食品の安全性や農産物の薬物汚染の疑惑はぬぐいきれないものがある。
それと同時に、個々の事件の原因解明は、冷静に、正確に行われるべきである。

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