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2008年1月27日 (日)

第34回桂冠塾『隊長ブーリバ』(ニコライ・ゴーゴリ)

034 1月26日(土)に第34回となる桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本はニコライ・ゴーゴリ作『隊長ブーリバ』です。

ゴーゴリには『外套』『検察官』や『死せる魂』などの代表作があるが『隊長ブーリバ』を取り上げてみた。
ドストエフスキーやトルストイと共に19世紀のロシア文学を代表すると称されるゴーゴリであるが、その人生の大半をロシアの中心都市で送っているわけではない。
生まれはウクライナ地方。ペテルブルクで創作活動を行った時期もあるが国外に逃亡した生活も長く送っている。

※このあたりの経緯は桂冠塾のページを参照下さい↓
http://www.prosecute.jp/keikan/034.htm

『隊長ブーリバ』はゴーゴリの思想を如実に反映したリアリズム作品でありロマンチズム作品であると思う。
中心的な登場人物は題名にもなっているタラス・ブーリバ、長男のオスタップ、次男のアンドリイである。それを取り巻くようにユダヤ人商人のヤンケリ、ポーランド人の将軍の娘、コサックの団長、長老、隊長たち..。

皆さんはこの作品を読んでどのような感想を持っただろうか。
リアリズム作品の特徴といってよいと思うが、どのような視点で読むのかによって一人一人の登場人物への印象は180度変わってしまう。もちろん題名になっているタラス・ブーリバを中心に描かれているのだから、彼の視点で読み進むのが正道かもしれない。しかしそれでもタラス・ブーリバの行動や思想の全てを肯定的に受け止めることは、私にとってほとんど不可能だ。だからとって彼の行動全てを否定しようということではない。ゴーゴリ自身が作品の中で書いてもいるが、いいとか悪いとかの判断以前にそうした時代が存在していたということだろう。

そのうえで、あえていくつかの視点で指摘しておきたいと思う。

タラス・ブーリバの生き方について。
この作品の主人公にして、最も評価が分かれる登場人物だ。
いかなる状況にあっても部族の誇りと自らの信念の旗を降ろすことなく、戦い続けた英雄。これが主題的な評価だろう。
別の視点からみれば、こんな見方もできる。
→自分自身の信念を無条件に息子達を従わせようとする器量の狭さがあったかも知れない。
→小休止的とはいえ一時の平和な状態を、自らの思いのみで存在しなくてもよい闘争を捏造し、多くの同胞たちの生命を奪う元凶をつくった。
→ぎりぎりの二者択一の決断に際して、個人的な理由を、さも大義名分があるかのように言葉で言い繕い、多くの同胞たちの運命を強引に変更させてしまった。
→次男アンドリイの微妙な、しかし決定的な行動を目にしながら察知することができなかった。
→意味がないとわかりながら子息を神学校に進学させるという常識的な子育てをしながら、卒業帰宅と同時にそうした学業の蓄積を活かそうともせず、戦場に赴かせるという重大な決断を、母親や当人達の意思を聞くことなく、独断で決定した。
→民族的、時代的な要因が大となり、女性への蔑視、軽視が著しい。
→ロシア正教への信仰の忠実忠誠が、異教徒の排斥、殺害という痛ましい行為を生み出している。
→自民族の誇りがそうさせているのだろうか、他民族の人達への対処は、望ましい人の行為とは到底言えるものではない。特にユダヤ人への蔑視、こういう奴らだという決めつけの認識には根深い偏見が如実に横たわっている。
→次男アンドリイの裏切りが明白になり、自らの手で我が子を殺害する。生涯をかけて更正させる道もあったのかもしれない。
→囚われの身になりながらも我が同胞に逃げ延びる方途を指し示す。どのような状況にあっても信念に生き、最後の瞬間で希望を捨てず行動し続ける姿には多くの共感が生まれたに違いない。
→同胞たちが戦いに負けてもなお一人戦い続ける老兵タラス・ブーリバの姿に自分自身の最終章の生き方を重ね合わせる人達も多くいることだろう。

そうした点もありのままにみていくことがタラス・ブーリバの評価には必要ではないかと思う。

長男のオスタップの生き方。
いわゆる優等生的人生の典型ではないか。
10代から20代初めまでの多感な時期に、体制や親世代へ反発もするが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。その後は忍耐、努力の季節を地道に積上げて故郷に戻ってくる。
知識として学んだことを、実践の中で血とし骨肉としていく過程は私たちの現実生活にオーバーラップする感覚を覚えるだろう。
そして一貫して、組織の中のリーダーであり、親であり、人生の師匠である父タラス・ブーリバの行動から自らの生き方を受継いでいく。

次男アンドリイの生き方。
長男オスタップに比べるとある意味で「現代人」ぽい。
オスタップほどには自分の自身の思いを表にあらわすことはなく、回りの大人達との摩擦を起こすこともない。異性への関心に代表される個人的な感情は内に秘めて、決して他言はしない。親にも言わない経験を有している。表面的には一貫して従順な態度をみせ続けるが、本心は必ずしもここにあるわけではない。
最後は、恋愛感情を持った女性への思いを最優先し、同胞たちとの絆をあっさりと捨てて、敵方につく。そしてその流れのままに、生まれ育った故郷の同胞たちを何の心の呵責もなく殺戮していく。
そんなアンドリイでも、最後の最後で父親タラス・ブーバの前に出た時には、剣を振り上げるどころか父親の顔をまともにみることができない。
アンドリイがみせた行動は、別の視点でみれば純愛物語ともいえるかもしれない。舞台設定は異なるがアンドリイの生き方に焦点を当てて主人公として物語を再編するならば「ロミオとジュリエット」のような思いを抱く読者も多く出てくることだろう。

他にも、ユダヤ人商人のヤンケリ、ポーランド人の将軍の娘、コサックの団長などに焦点を当てて、その思想と行動をみていくだけでも、色々な思索が深まってくる。
私たちの生きる現代社会にもおいても、直接的に訴えかけてくるテーマも多い。
長くなったのでひとつだけ指摘して終わりにしたい。

それはオスタップとアンドリイの生き方を分けたものは何だったのかというテーマである。

偉大な父達が築き上げた一時代。そのあとを生きる次の世代たちがどのように自らの人生を切り拓いていくのか。挑戦する人生を選ぶのか選ばないのかという選択も含めて、これはまさに、現在を生きる我々が直面している大きな難問である。
経済的も一定の豊かさを手に入れた現在。
貧しさからの復興を目指してがむしゃらに働くことが人生の最大の目的として生きてこれた時代は、既に過去のものになってしまった。
人生の哲学思想を真剣に求めたのも、いわゆる親世代の人々だったのかもしれない。
その時代の人達が、子ども世代に「自分達のように生きろ」と訴えても、原体験を持たない次世代の若者達はどこまで我が事として実感し、実践することができるのだろうか。
時代を超えて積上げてきた経験や哲学を継承すること、後継者を育成することは現代を生きる私達にとって最大の課題である。

同じタラス・ブーリバの子供であっても、同じよう接した(と親世代としては思っていた)二人の息子、オスタップとアンドリイの人生は、明白に分かれてしまった。
それも180度もの違いを見せて。
その違いは、どこで、なぜ、生まれてしまったのであろうか。
私たちが『隊長ブーリバ』から学ぶことのひとつが、こんな視点にもあるのではないだろうか。

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