« 会期延長 各地の選挙管理委員会の反応に苦言。 | トップページ | 人の誠意とは »

2007年6月21日 (木)

革新という幻想に打ち勝て。

近年、Webでの情報発信、個人の主張が豊富になってきた。
その中で、非常に興味深く感じることがある。
それは同じ事象を見聞していても、180度違う見解がその人の当然の見解として述べられている事実だ。
個々人の意見の違い自体は、Webが進化する以前から存在していたわけだが、現在の状況はかなり違う様相を呈している。

その一面を指摘すると、思考の前後関係がわからないまま、唐突に単発的なコメントが散乱する現象がある。
リアルな付き合いであれば「なぜそのような発言になったのか」その人となりや経験から推測もできるし意見交換もできる。また書籍等で意見を展開する場合では、それなりの論理的な手順を踏んで思考段階を説明していたように思う。
しかし、現在のSNSやブログでは短く書くことがスマートで読みやすいという風潮があり、結論のみを書く人が極めて多い。
その結果、前後の脈絡は全く不明で、一見すると独善的な断定口調の文章が飛び交っているのではないかと、私は思うのである。

たとえば、いま旬の話題のひとつは参院選だ。
匿名での公開が多いブログでは、現状の政治への批判ばかりが目につく。
批判ばかりしていても何も生産的な行動は生まれてこないのだが、自分が政治家になろうという人以外は「そんなこと知ったことではない」となるのが大半だろう。
批判されるのは常に体制側であり、保守と呼ばれてきた。
批判する側は革新派と呼ばれて、体制批判することが役割のようになってきた。
体制側を支配層と位置づけて、支配層対非支配層の対立を煽ってきたのが従来型の政治構図でもある。
日本には歴史的にも政治が庶民に身近だったことがなく、反体制的な思想が充満してきた。これは今はじまったことではなく、少し前なら全学連、全共闘が跋扈していた60年代の学生闘争があり、さらに前には明治維新や自由民権運動があった。

近代を生み出した明治維新の評価も近年少しずつ変わりつつある。
「明治の元勲」などという表現もあるが、当時の文献等を調べてみると政治家の多くは私利私欲に走っていた。
今も昔も、権力の魔性を打ち払って庶民の幸福のために一生を捧げている政治家は、ほんの一握りでしかないのだ。

腐敗した体制を批判するにもいいだろう。
革新を叫ぶ次の体制を狙う一群に期待するのも、自由だ。
しかし、民衆の理想を叫んだ改革者が体制側になった瞬間に、抑えていた魔性が吹き出すことを、歴史は証明している。
明治維新がそうであったように、さらにはフランス革命がそうであったように。

世間では、昨今の政治を「強行採決ばかりだ」とか「社会保険庁の監督すらできない無能の政府」等々の批判もくすぶっているように思える。
それは、事実だ。
しかし物事の本質を見極めなければならないのは私たち民衆だ。
体制への批判を仕事にしているマスメディアの過激なタイトルに踊らされていないか。
「強行採決」になった要因は何か。その中で最も深刻な主要因は何か。
「社会保険庁」の悪弊が改善されてこなかった最も責任をとるべきは政府なのか。社会保険庁自身なのか。
政府、社会保険庁という「団体」が問題なのか、それとも真の要因はさらに一歩掘り下げた先に存在しているのか。
そんなことすら考えもしないで「政府憎し」で感情的な発言を繰り返していては、自らの首をしめるようなものだ。
短絡的で、マスメディアの報道ひとつで考え方をコロコロ変えてしまう、成熟することができない国民性が恥ずかしくなってしまう。

では私たちは何を基準に行動を決するべきか。
本源的には、一人一人の行動を現実的に規定している哲学思想を見極めるしかない、と私は思う。確固たる哲学思想を持たないのは、論外だ。
哲学思想に基づいた現実の行動を、私たちは判断していくしかない。
私達の運命共同体は、こうして微妙な判断を積上げていくしかないと私は思うのだが、皆さんはどう感じられるだろうか。

〔追記〕
Webでの発言の難しさということに関連して興味ある記事がありました。
本人のキャラクターと違う「メール人格」ってないですか?

|

« 会期延長 各地の選挙管理委員会の反応に苦言。 | トップページ | 人の誠意とは »

信念理念」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 革新という幻想に打ち勝て。:

« 会期延長 各地の選挙管理委員会の反応に苦言。 | トップページ | 人の誠意とは »