改めて痛感 「想定外」の未熟さ

「未熟」というのはこういうことを言うのだろう。
昨年の3.11勃発当時に首相官邸の「テレビ会議システム」が全く使用されていなかったことが報道されている。このシステムは東海村臨界事故を教訓にして国家最高レベルの危険事態に対処するために整備された。専用回線の維持費だけで年間5~6億円が投じ続けられているという。
何のために国費を投じて整備したのか。
毎回の訓練の時には接続されていたという。何のために訓練しているのか、総理大臣(当時は菅直人)を先頭にした首相官邸の面々が当事者意識を持っていたのか、はなはだ疑わしい。
明らかな、民主党政権の未熟さである。
自公政権でもそうだったじゃないかとの声は当然ある。しかし自公政権であれば政権経験が豊富な政治家と官僚の関係から考える、と首相のスタンドプレーはありえず、このシステムも組織で動き粛々と活用されただろうと推察される。
現実の結果は正視眼で見なくてはならない。

一国のトップからしてこの体たらくだ。
自国の国民に「防災意識や生命を守る意識を持って、いざという時に行動せよ」と言っている本人が動いていないのだから、個々の国民の意識は推して知るべし、と言ってしまいそうになる。
防災は「自助・共助・公助」の組み合わせだと言われている。
しかしどこまでいってもその基本は「自助」だ。
現在の日本国政府の体たらくを嘆くだけでは自身の生命を守ることはできない。
みずからが今いる場所で即刻行動を始めなければならない。

先日来、親しい友人に群馬大学教授の片田先生のインタビューを収めたDVD映像を見ていただいている。片田先生の防災教育によって多くの子供たちとその家族の生命が救われた『釜石の奇蹟』を「奇蹟」ではなく「想定内」にする努力を私達が続けることが、今求められていると感じられてならない。

◆片田教授のインタビューはこちら
 防災教育から生まれた『釜石の奇跡』※前半
 防災教育から生まれた『釜石の奇跡』※後半

◆メディア報道
 官邸テレビ会議未接続 原発事故時「思いつかず」

2012.4.4 08:01

 昨年3月の東京電力福島第1原発事故発生時、首相官邸と経済産業省原子力安全・保安院、現地のオフサイトセンター、自治体などを結ぶ国の専用回線に、首相官邸のテレビ会議システムが接続されていなかったことが3日、分かった。

 官邸では訓練の時だけつないでおり、事故時に誰も接続作業をしなかった。システムは平成11年に起きた東海村臨界事故を受けて整備し、回線の維持費は年間計5億~6億円。福島事故では放射性物質の拡散予測システムを活用しなかったことが判明しており、巨額の費用で整備した防災システムを生かさなかった事例がまた表面化した。

 システム機材は、事故対応に当たる官邸地下の危機管理センターではなく4階の会議室に置いてあり、接続作業は原子力安全基盤機構と内閣官房が担当。機構の担当者は「オフサイトセンターの支援などに追われ、思いつかなかった。官邸や保安院から要請もなかった」とし、内閣官房は「保安院の職員が官邸に詰めて電話やファクスで連絡を取っていた。必要なかったか余裕がなかったか、使わなかった理由は分からない」と説明。常時接続するよう改めるという。(MSN産経ニュース)

《記事元リンク》
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120404/crm12040408020002-n1.htm

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第82回桂冠塾 『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー ※後半

081_22月25日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。
前回に引き続き、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』の後半を行いました。
今一度、この作品を全体の構成を俯瞰しておきたいと思います。

■いまいちど作品の構成をみてみる

第1部では、グルーシェニカをめぐる諍いを前面に出しながら主要な登場人物のアウトラインを描き、その一方で、ゾシマ神父とアリョーシャを中心にしてロシア正教会のあり方と「神は存在するのかしないか」というテーマが論じられます。

第2部では、ミーチャの言動によって引き起こされた様々な憎しみや騒動の結果をアリョーシャが順々に巡っていくという形態が取られています。ミーチャの言動は、カテリーナとグルーシェニカ、そしてヒョードルとの愛憎から起きています。そしてこの第2部ではイワンによる『大審問官』が朗読され、ゾシマ長老の談話と説教が続き、死に向かっていきます。悪魔と神、信仰をめぐる様々な重要なテーマが凝縮されていきます。その意味ではこの作品の底辺に流れる哲学思想の問題を明らかにしたとも言えるのではないかと感じます。

続く第3部では、ゾシマ長老の遺骸から腐臭が発生したことで大きな動揺が置きます。そして第8編「ミーチャ」ではミーチャが3000ルーブルを手に入れようと奔走します。しかしその願いは成就することはありませんでした。全てに絶望し、グルーシェニカが訪問したと思い込んだフョードルの家へミーチャは銅の杵を握りしめて向かう。そしてそこでフョードルの殺害が起こります。グリゴーリーへの暴行は認めるがフョードルは殺していないと主張するミーチャ。殺人事件をめぐる予審が進んでいきます。

第4部では裁判をめぐりそれぞれの立場で暗躍、葛藤が続きます。
一方でイリューシャ、コーリャら少年達とアリョーシャとの交流が描かれます。そしてこの第4部で大きな比重を占めるのが次兄イワンです。神の存在を信じないイワンが精神的に異常をきたしていく...。そこにはフョードル殺害の真犯人であるスメルジャコフとの葛藤がありました。
そして検事と弁護人それぞれが繰り広げる法廷のシーンはまさにディベート対決。言葉の持つ力がひしひしと迫ってくる場面でもありますが、逆に真実がなくても言葉は展開されるのだという事実も痛感せざるをえません。

そして迎える「エピローグ」編。
罪を償う生き方とは何か提起する章でもあります。
そしてイリューシャ少年の葬儀。最後のシーンで少年たちを前にアリョーシャが自らの思いを力強く語り、全員が「カラマーゾフ万歳!」と叫んで物語が終わります。

( ※この記事は書きかけです )wobbly

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第81回桂冠塾 『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー ※前半

081今回の桂冠塾の本はドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』です。
今月と来月の2回で取り組みます。

今年最初の桂冠塾は1月28日(土)に開催しました。
『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの遺稿となった作品であり、彼が生涯の集大成と考えていたと思われる面もある作品です。
2006年に亀山郁夫氏によって発刊された新訳でブームになったので記憶に新しい方もおられることと思います。
最初にあらすじを押さえておきたいと思います。

■作品の導入部

この作品は「著者より」編につづき、全体が4部+エピソードで構成されています。

「著者より」編で「わたしの主人公」はアレクセイ・カラマーゾフ、愛称アリョーシャであると書かれている。
彼はカラマーゾフ家の男三人兄弟の3番目。
父はフョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ。長男ミーチャ(ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)はフョードルの最初の妻の子で、次男イワン(イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)とアリョーシャは2番目の妻の子である。
前段であえて「わたしの主人公」という表現をそのまま引用したのは、読了した方は感じるかもしれないが、ミーチャもイワンも相当の重みを持って登場しているからだ。作品のタイトルからして「カラマーゾフの兄弟」だから当然ながら2人の兄の存在も大きい。多くの書評に書かれるような「父殺し」に視点を置いて読むと、長男ミーチャのほうが圧倒的な存在感を感じてしまいそうだ。

父フョードルは道化師のような性格と書かれている。
若い日から女好きで放蕩を繰り返し、その時その時にあわせてありもしない作り話やおべんちゃらを平気で放言し続け、育ちの良い上流階級の娘を最初の妻にする。彼女の資産を自分のものにするが、もちろん放蕩はやめない。最初の妻とは早々に離縁する。フョードルは子供は妻方の親族に預けてしまい放蕩にふけ続けるが、自分の利益には目敏く、このとき手にした資金を元手にひと財産を築く。しかし長男ドミートリーには資産総額を明かそうとしない。
孤児であった当時16歳の2番目の妻ソフィアと8年の再婚生活をするがソフィアは死去する。彼女は神経症(文中では「おキツネさん」と邦訳されている)を患いヒステリーの発作を繰り返した。

時代は下って、物語の始まりの時は長兄ドミートリー28歳、次兄イワン数えの24歳、三男アリョーシャが20歳になる頃である。
ドミートリーは父譲りの性格なのか、母の資産を当てにしながら乱れた青春時代を送りつつも将校となる。その時に縁をした上官一家の窮地をにつけ込み下心ある行為によって危機から救い、次女と許嫁になって故郷の町に戻っている。
イワンは父の資産は当てにせず苦学をして学業を修め、翻訳や新聞への執筆投稿などで生計を立てていたが、突然生まれ故郷に帰ってきて父と同居して暮らし始めていた。
三男アリョーシャは物語が始まる1年ほど前から故郷に戻り、修道院でゾシマ長老に師事して修道院で暮らしていた。

このカラマーゾフ一家が物語の核を形成していくのである。

「カラマーゾフ」の意味

いわゆる文学論的な解釈は様々な評論書が出ているので、それらの本に譲りたいと思います。
一例として触れておきたいと思うのは、主人公の名前。題号にも使われている「カラマーゾフ」の意味です。多くの方が評論しているようにその言葉の奥底には作者ドストエフスキーの生い立ちや父親の死にまつわる事件が深く影響していると思われます。
「カラマーゾフ」の言葉には「黒く塗りつぶす」との意味を感じ取ることには大きな間違いはないと思います。世界の東西を問わず決してよい印象のない「黒」「塗る」という意味を主人公の一家に冠する。ある意味で「おぞましい物語」を書くつもりなのだろうかとも思ってしまいそうですが(^^; 物語を読む中でも、そうした血縁にまつわる一種の傾向性を認める考えもあるようにも感じます。
「カラマーゾフ的」「やっぱりカラマーゾフなのだ」等々の表現がその一端をあらわしています。

そうした点も踏まえながら、その傾向性を踏襲するのか、転換するのか。
元々書かれようとしていた「もうひとつのカラマーゾフの兄弟」のストーリーとして、ドストエフスキーはどちらの方向を想定していたのか。大変に興味をそそられます。

■殺人事件の物語

メインストーリーは殺人事件である。
多くの出版社の編集者は「父殺し」というキーワードで帯を作っているが、必ずしも父親⇔子供の関係で殺人が行われたと断定できるわけでもない。むしろそうではないというストーリーであり、その点は決して謎解きにもなっていない。本の売上を意識したこうしたキャッチコピーの氾濫はよくあることだが、本来の作品の主旨に誤解を与えるコピーは控えるべきだと言っておきたい。

資産と女性をめぐって諍いを続けてきた父フョードルと長兄ドミートリー。
その緊迫した状況は最高潮を迎えて父子の争いはフョードルの死によって新たな展開を広げる。当然のことながらフョードル殺害の殺人容疑者としてドミートリーが拘束される。
しかしドミートリーは自身の無罪を主張し、真犯人として使用人スメルジャコフを名指しする。

作品の後半は検事と弁護人による法廷闘争である。
ただ真正面からの対立というわけではなく、弁護人はドミートリーの無罪は信じておらず情状酌量の戦術に打って出る。
ドミートリーは最後まで無実を訴える。
決定的な物的証拠はなく、状況証拠もドミートリーの有罪を裏打ちしているともいえない。
しかし陪審員の出した結論は「有罪」だった。

■信仰にまつわる諸テーマ

『カラマーゾフの兄弟』にはメインとなるストーリーと副次的な単発のストーリーが意図的に組み合わされている。こうした手法は多くの文学作品にみられるので決してめずらしいことではない。逆に言えば、古今東西の名作にはこうした手法によるものが非常に多いと思う。その副次的なテーマの代表例が信仰にまつわる諸テーマである。

作品の前半で顕著に表わされている個所としてゾシマ長老を中心とした信者との対話、説法、そして死に際しての「腐臭」が挙げられる。
説法や信者との会話の中では、神を頂点とした信仰観や生き方が説かれていく。
ロシア正教会独自の慣習的制度として紹介される長老制度についても是非の両面から考え方が紹介されている。そしてその根底にある神秘性についてはゾシマ長老の死体の「腐臭」によって痛烈な場面を展開する。生前の信奉者であった者たちの大きな動揺、自虐的ともいえる転向。生前から悲観的であった者たちにしてみれば「それ見たことか」と言わんばかりの傲岸とも言える言動がこれでもかと描かれている。

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『RED TAILS(レッド・テイルズ)』 1/20全米公開

ジョージルーカス監督による『RED TAILS(レッド・テイルズ)』 の全米公開が今月20日に迫った。
公開に先立ってジョージルーカス監督がアメリカ政治風刺番組「ザ・デイリー・ショー」に出演し、依然としてハリウッドに蔓延する黒人差別の実態について激しく批判したとの報道が目についた。
登場する主要キャストが黒人俳優というメジャー映画はアメリカでは前代未聞だという。日本でしか生活したことがない私には想像もつかない人種の壁がアメリカには存在するのだろう。大手映画会社の協力を得られなかったジョージルーカス監督は私費を投じてこの映画を完成させたという。

レッド・テイルズとは「赤い尾翼」の意味で、第二次大戦の欧州戦線で活躍した黒人兵士だけの航空部隊の名前。部隊が使用したP51ムスタング戦闘機の垂直尾翼が識別のために赤く塗装されていたことに由来する。

 第二次大戦以前は米国では黒人は戦闘機のパイロットになることはできなかったが、差別と戦った活動家たちの努力で1940年から黒人だけで編成された航空部隊が誕生した。
(報道記事より)

「最後の監督作品か?」との憶測も流れている本作品。
日本公開が待ち遠しい。

【報道記事の内容など】
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/542123/

【レッド・テイルズ予告編】
http://www.traileraddict.com/player.swf?id=44292&e=y

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第80回桂冠塾 『漂流』(吉村 昭)

080_312月17日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。
今回で80回目を迎えました。ご参加いただいている皆様に厚く感謝申し上げます。

今回取り上げた本は吉村昭作『漂流』です。
時代は江戸期。天明5年(1785年)の土佐の国から物語が始まります。
物語といっても史実を基にしたノンフィクション作品。実際に漂流事故に遭遇しながらも日本に帰還した方の取り調べを受けた供述書を依所として書かれた小説です。

物語に一貫して登場するのは水夫の長平。水夫とは船乗りのことですが、鎖国政策をとっていた徳川幕府の統治下の時代ですので遠洋航海ができるような船を持つことはもちろんできません。幕府は千石船と呼ばれる沿岸航行ができる軽装の船を推奨していました。したがっていったん暴風に遭遇すると遭難する危険は極めて高いわけです。加えて土佐の国は太平洋に面した領地。船が行きかう航路は外洋に接している場合が多くあります。さらに台風の通り道にもなっていて他地域に比べて暴風雨が多発するだろうことは容易に推測できます。徳川幕府の政策によって水夫達の生命の危険が何十倍にも拡大していたでしょう。
事実、長平は24歳の若さにもかかわらず、死に至らないとも限らない事態に何度も遭遇しています。今回の作品で描かれているような漂流事故は起こるべくして起こっていたのではないかとさえ思えてしまいます。

********

天明5年(1785年)に漂流事故に遭遇した長平は、シラ(冬に吹く北西の強風)による暴風雨で船体が破壊される中、ぎりぎりのところで無人島に漂着する。
そこは火山島で湧水一つすらない過酷な環境。
しかしアホウドリの飛来地であり、鳥肉だけはふんだんに食べることができた。
この無人島で、後から漂着する2組の難破船の乗員と力をあわせて日本への帰還を果たすことになるのだが、詳細は省略する。

この物語がフィクションであったならばさほど説得力はなかったのかもしれない。しかし紛れもない事実に基づいた話である。
描かれる男達の一つ一つの言動に多くのことを気づかされる。
・仕事しないで遊んで食べていけると喜ぶが、体を動かさない人間は死んでいってしまう。
・漂着して死んでいった先人の洞窟を見つけた際にネガティブに捉えてしまう人間とポジティブに捉える人間の違い。
・アホウドリの行動の変化から鶏肉の干物を作ると思い至る智恵。
・希望を失い精神的な均衡を失いかねない状況から脱出する力。
・手に入るものを形にする使っていく智恵と努力。
・島を脱出するための部材を入手することと難破する他人がいることが同意であると気づいた時の思い。
・経験がない船舶作りに着手し成し遂げる執念。
など数えていくといくつも挙げることができる。
日本に帰還を果たした者たちの中で最も長い期間を無人島で過ごした長平が白米のご飯を食べようとして受け付けない身体になっていたことに言いようもない悲しさも感じる。

漂流記というと私も含めて多くの人はロビンソンクルーソーの物語や十五少年漂流記を思い浮かべる。『漂流』を読むとこれらの作品はやはりスマートに書かれていると思えてしまう。

真実の力とはそのようなものなのだろうと感じた一冊でもありました。

【桂冠塾 当日の内容などは...】http://www.prosecute.jp/keikan/080.htm

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第77回桂冠塾 『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ) ※後半

077 9月17日に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月は先月に続きデュマの大作『モンテ・クリスト伯』です。

前回、ダンテスがモンテ・クリスト伯としてパリの社交界にデビューするあたりまででしたので、今月はそれ以降を含めて全篇を通して開催しました。

あえて誤解を覚悟で「ざっくり」この作品の流れを一言でいえば...
全く思い当たることのないダンテス青年が一生出られないと言われたシャトーデフに投獄され、そこで出会った師匠の薫陶により人生の光明を見出し、脱獄後に彼の人生を陥れた張本人達に復讐を遂げていく....
こんなストーリーと言えるでしょうか。

パリの社交界に登場した後のモンテ・クリスト伯は縦横無尽に活躍していきます。その行動は本人が言い切るように「神の代弁者」であり、神に次ぐ完全無欠の権威者そのものです。明らかに独善的にも思えます。事実、モンテ・クリスト伯からその言葉が語られるシーンを読んだ多くの読者の中には「なんと傲慢な人格になったものか」と感じた方もおられたと推察します。
なぜダンテスはこのように自らへの疑いもなく断言できたのか。
ここに『モンテ・クリスト伯』の重要なテーマの糸口が秘められています。

当日の参加者の中からもこのような質問がありました。
「今自分がこうしていることができるのがある人のおかげであるとしたら、その恩人を最大限に讃えて宣揚するのが人の道ではないか」
「ダンテスはファリア神父を人生の師匠と言いつつ、脱獄後に活躍する場を得た後においてもファリア神父を讃えることを全くしていない」
また
「モンテ・クリスト伯となったダンテスはその人生の後半生を復讐を目的につき進んでいる。そもそも復讐を主眼においた物語とはいかがなものか」
このような指摘がなされました。

現実的な話をすれば、ダンテスがモンテ・クリスト伯として活躍できるのはファリア神父が残した財宝があったからこそです。その点だけ見ても感謝をささげるべきはずですが、師匠を宣揚した形跡は全く読み取ることができません。
この点も前述の傲岸とも思えるダンテスの思考と根っこを一にしているのではないかと私は思います。
先月の折りにダンテスがファリア神父を師匠と定めた根拠について少し論じました。そのことを踏まえたうえで
・ダンテスが自らを神の代弁者と言いきれた根拠
・ファリア神父を師匠として宣揚しなかった精神的内側
・復讐を是とするような物語が成り立つ背景
を理解するひとつの視点としてキリスト教的生き方をみることができるのではないかと感じています。

キリスト教思想の特徴を論じる際のひとつの視点として天地創造者としての「絶対的存在としての神」が指摘できます。
人間は神に似せて作られたものであるが神にはなれない。
この点が仏教に代表される東洋的思想と根本を異にする重要な点です。

仏教思想においては最高の生命状態は自分自身の生命そのものに内在しており、その生命状態を「仏」と名づけている。その「仏」の生命は個々の人間に一人ももれなく存在しており宇宙全体の生命としても存在する。その最高の生命状態を現出し一人でも多くの人が最高の生命状態を目指す中に「自他共の幸福社会」の実現があると考えられている。

対してキリスト教の思想においては、最高の生命状態は「神」という形で個々の人間の外側に存在する。非力な存在である人間には御することができない森羅万象の出来事も全て神の意志のもとで行われている。人知の及ばない出来事に対しては人は非力であるが神への信仰を持ち続ければ必ず神の祝福がある。
その経過においては、悪しき行いをした場合には神の前で懺悔をし、思いもよらぬ福徳に恵まれた場合には神に感謝の祈りをささげるのである。

仏教においては全ての事象が自分から発すると考えることに対して、キリスト教的思想においては全ての事象は神の御心のなかで動いているのである。
この思考の前提を踏まえて今一度『モンテ・クリスト伯』を読み返してみたい。

ダンテスはどのような罪で自分が投獄されたかわからずに暗黒の牢獄の中で一生を終えようとしていた。
自殺を図ろうとするがファリア神父との出会いによって共に脱獄をするという目的を持つ。
しかしファリア神父の衰弱によって自らも死を共にしようとする。
生き抜くことを言い聞かせるファリア神父は自らが隠し持っている財宝のありかをダンテスに伝え、ダンテスの話を聞きながらダンテスが投獄に至った経緯を推測する。今の境遇に落とされた原因について全く思い当たる節がなかったダンテスだったが、ファリア神父の指摘によって自らの人生を暗転させた真実に気づくことになる。
ダンテスは自分自身を暗黒の人生に追い込んだ人間達に対しての憎悪が最高潮に達する。生きて牢獄をできることができるならば、全人生をかけて彼らへの復讐を果たしてやると深く思いを定める。

このような状況の中で、ダンテスは不可能と思われてきたシャトーデフからの脱獄を果たすのである。
ダンテスの果たした生還はまったく人知の及ばない出来事であった。
なぜこのような奇跡ともいえる出来事が実現したのか?
これこそ神の意志であるとダンテスが考えたのは至極自然なことであったであろう。
そしてダンテスが考え続けてきたこと。
それは脱獄ができれば必ず復讐するということだった。
奇蹟である生還を果たすことができたという事実。それはとりもなおさず「ダンテスよ復讐を実行してよし」との神の意志であるとダンテスが考えたのは、キリスト教的思考として必然ともいえる結論だったのではないか。
以上のような思考がダンテスの中で行われた。
こうしたキリスト教的思考を基盤としてこの作品が書かれている。
そのように私は考えている。

この仮説が間違っていないとするならば、いくつか指摘された疑問点はいとも簡単に氷解する。
→完全に獄死するはずであった自分が生かされたのであるから、後半生の自分が行う行動はすべて神の意志である。すなわち神の代理人とも神に次ぐ存在ともいえる。
→ファリア神父を師匠とは仰ぐが、その出会いもすべて神の意志によるものである。したがって神への感謝に比べれば人生の師匠への感謝が軽くなっても不思議ではない。
→復讐そのものが是か非かを論じる必要はない。復讐することを神が許したのであるから。

このような結論が導かれる。
そしてこの仮説と結論はさほど外れていないとも思えるのである。

そのようなモンテ・クリスト伯であるが、小説の最終盤に入るあたりから復讐の決意が微妙に揺らぎ始める。物語として読みごたえのある展開である。しかしキリスト教的信仰の面からみると複雑な思いを感じる人もいると思う。
このあたりがデュマ作品の限界かも知れない。
新聞小説として書かれた大衆小説の宿命ともいえる。

さて自らを貶めた3人への復讐を果たしたモンテ・クリスト伯は静かに舞台から去っていく。人生最大の目的を復讐に定めてその目的を果たした彼にとっての「第3の人生」にはどのような展開が待っているのだろうか。
我が子のように愛するマクシミリアンに対して「社会に有意な人生を送れ」と語るモンテ・クリスト伯に、その言葉をそのまま投げ返してみたいと思う。

『その後のモンテ・クリスト伯』という作品を誰か執筆するとおもしろいと思うのだが、みなさんはどのように感じられましたか。
また遠路参加いただきました宮城県の笹野さん、京都府の杉本さんと市原さん、また初参加いただきました小山さん、ありがとうございました。

【第77回桂冠塾の実施内容】↓
http://www.prosecute.jp/keikan/077.htm

※なお次回は10月15日(土)14時~開催いたします。
 作品は『レ・ミゼラブル』を取り上げます。
 今回も大作ですので2ケ月連続で行います。
 http://www.prosecute.jp/keikan/078.htm

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第76回桂冠塾 『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ) ※前半

076 8月20日(土)に8月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月と来月2回で『モンテ・クリスト伯』を取り上げます。

作品の舞台は1815年。フランス革命の最中に、フランスを代表する港湾都市マルセイユから物語は始まります。
《マルセイユの風景↓》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Marseille_Old_Port.jpg

主人公はエドモン・ダンテス。モレル商会に所属する船舶に乗船する20歳の若き一等航海士です。
物語の冒頭で、航海の途中で船長が病死し代行で船舶を指揮したダンテスは、船長の遺言に従ってナポレオン一世の流刑先エルバ島に立ち寄り、ナポレオン側近のベルトラン大元帥からパリ在住のノワルティエ氏宛の手紙が託されたことが語られます。
この逸話がその後のダンテス青年の人生を大きく変えていきます。帰港したダンテスは人生の春を謳歌していました。次の船長をモレル商会から約束され、美しい恋人メルセデスとの結婚も目の前。年老いた父への孝行もできて多くの友人からも祝福される人生を送っていた...。

しかしそう思っていたダンテス本人の思惑とは別に、彼に嫉妬する輩も現実にいました。ダンテスの人生にとって負の方向に関係する重要人物として3人の人間が登場します。

一人目は、同僚の船乗りで経理を担当していたダングラール。
二人目は、恋人メルセデスの幼馴染のフェルナン(後のモルセール伯爵)。
そして三人目は、ポナパルト派の活動家ノワルティエを父に持つ法律家ヴィルフォール。

ダングラールは自分が船長になれない原因がダンテスがいるからだと思い、ダンテスを追い落とそうと画策する。フェルナンは、ダンテスさえいなければメルセデスは自分の恋人になると思い、ダングラールの才略に乗っかってしまう。
いずれも自分自身の栄達や恋愛感情という自己中心的な感情のままに行動する。ダンテスの人生など考える余地はない。彼らは「ダンテスがエルバ島に寄ったのはナポレオンの密書を受け取るためであった」として当時の王政に反逆する者であるとの密告を行った。

その告発状を元に、ダンテスを取り調べたのは検事代理のヴィルフォールだった。ヴィルフォールに対してダンテスは「自分はベルトラン大元帥から私的な手紙を預かっただけだ」と託された手紙を見せ、ヴィルフォールも冤罪であることを見抜く。
しかしダンテスを釈放する直前に手紙の宛先が「ノワルティエ」という人物であることを知りヴィルフォールは愕然とする。ノワルティエはヴィルフォールの父親だったのだ。手紙の内容はナポレオン軍の再上陸に備えて準備をすすめるよう命じる命令書であった。

王政復古の世の中において身内にナポレオン支持者がいることは身の破滅につながると考えたヴィルフォールは、一切の不都合をダンテスに追い被せて、彼を政治犯が収容されるマルセイユ沖のシャトー・ディフ(イフ城)に投獄しダンテスが一生牢から出られないように画策する。

その企ては見事に実行された。
個人的な思惑によって不幸なめぐり合わせが重なり生涯出ることができないとされるシャトー・ディフに送還されてしまったダンテス。
人生の希望を失ったダンテスは自殺を図る。しかし、死に切れない。
完全に生きることの意味も希望も失ったそんな時、脱獄を果たそうと独房から穴を掘り進めてきた老人ファリア神父との出会いが実現する。ダンテスはファリア神父と共に脱獄を実行しようと計画を進めるが、ファリア神父が重篤の状態になったことで脱獄を断念してファリア神父に添い遂げようとする。重病によって死期が迫ったファリア神父は、モンテ・クリスト島に隠されている財宝の秘密をダンテスに託す。その財宝の話はファリア神父をして回りの人間達から狂人と思わせていたものだった。

ファリア神父の死に乗じて脱獄を果たしたダンテスは、モンテ・クリスト島の財宝を原資とし、モンテ・クリスト伯として表舞台に登場する。
そのとき投獄から14年が経過していた。
ファリア神父の推理が正しいことを知ったダンテスは、今や成功して時の人となっていたダングラール、フェルナン、ヴィルフォールに近づき、自分の富と権力と知恵を使って復讐を開始する...。

このあたりまでが前半部分となります。

人生順風満帆であった20歳の青年に襲いかかってきた人生のめぐりあわせ。
不幸といえば実に不幸。
本人には何も落ち度がないといえばそう言える不運な人生。
こうした災難に直面した時に私達はいったい何ができるのかと自問自答してしまいます。しかし多くの場合、答えらしきものは何も出てこないのではないかとさえ思います。
ましてやダンテスの場合は、自分がどのような理由で投獄されたのかすら思いも及ばない状況で14年が過ぎていきました。
それも当初は数日で釈放されるだろう、いやもう少しかかるかもしれない、でも数カ月もあれば自由になれる...。そう思いながら、次第に希望が薄れていく人生を送っていく。
その状況を想像すると胸がつぶされてしまうような、息苦しさを感じてしまう。
真綿で首を締め付けられるようなという表現がありますが、そんな感じかもしれない。

自分の明日を思い描くこともできない。
なぜ自分がここにいるのか。
自分にとってひとつも理解することもできない現実。
おそらく理解することすら許されていないのではとしか思えない状況。
自分自身が思いも及ばない出来事が起こるのが人生なのだと。

そうしたときに、物事には道理があり、何かが起こるにはその原因があると教えてくれたのがファリア神父だったのではないかと、私は推察します。
ここにダンテスにとってのファリア神父をして人生の師匠とした大きな要因をみることができると思うのです。
一般的には、人生万般の教授をしてくれたからファリア神父は師匠であると思われてきた節があります。しかしその程度のこと(決して学問全般の教授が軽いと言っているわけではありません)でダンテスが師匠を定めたというのは物語の流れからいっても違和感があります。事実、日本語訳本でいっても全7巻の中で学問の教授を受けたことは数行しか書かれていません。

人生の生きる意味や目的を完全に見失っていたダンテスに、物事にはすべて原因と結果があることを教え、目を開かせたがゆえに、ファリア神父は人生の師匠足り得たのでしょう。
そして、その事実を知ったダンテスは自分自身を不条理に不幸に陥れた3人の輩を心の底から憎いと思った。できることならば復讐してやりたいと思ったのです。
ここが、それからのダンテスの人生を方向づけることになっていきます。

ここから先は後半に移っていきます。
続きは9月実施後に(^^)/

【つづきはこちら】↓
 第77回桂冠塾 『モンテ・クリスト伯』(アレクサンドル・デュマ) ※後半

【第76回桂冠塾の実施内容】↓
http://www.prosecute.jp/keikan/076.htm

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謙虚になれ 公僕であることを忘れるな

相手がどんな人であれ、謙虚になれない人間は下劣の類いである。

松本復興相は3日、岩手県庁で達増拓也知事と会談し、被災地の復興について「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない。そのくらいの気持ちを持って」と述べた。また、「九州の人間だから、(被災地の)何市がどこの県とか分からん」と冗談めかして発言した。

その後訪れた宮城県庁では、村井嘉浩知事が後から部屋に入ったことについて、「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ」と語った。同県が重点的な漁港整備を要望していることについても、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々何も知らんぞ」と述べた。
(2011年7月4日付  読売新聞より転載)

指摘するまでもないが、自分を「お客さん」と呼ぶ現職政治家は存在するべきでない。

それぞれの人が実際に見て判断していただきたい。
【松本龍氏・会見時の映像】↓
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00202721.html

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【第74回桂冠塾】『あすなろ物語』(井上靖)

074 6月25日(土)14時から今月の桂冠塾を開催しました。
今月取り上げた本は井上靖作『あすなろ物語』です。

作品のあらすじ

まずはじめに本作品のあらすじを確認しておきます。
この作品は6章から構成されています。

第一章 深い深い雪の中で
第二章 寒月がかかれば
第三章 漲ろう水の面より
第四章 春の狐火
第五章 勝敗
第六章 星の植民地

各章毎に要約してみますと概ね以下のような内容になります。

〔第一章〕 深い深い雪の中で
主人公・梶鮎太が祖母りょうと過ごす13歳の時代。
19歳の冴子が登場。
冴子が大学生の加島と心中するまでの出来事が描かれます。

〔第二章〕 寒月がかかれば
中学三年生になった鮎太。秀才、神童と呼ばれていた時代。
三年生二学期の終わりにN市の中学に転校。
下宿先である寺の娘・雪枝が登場。
学業成績が落ちていく中で鉄棒、喧嘩と経験していきます。

〔第三章〕 漲ろう水の面より
北国の高等学校を卒業した鮎太。
佐分利信子が登場。高等学校時代からのマドンナ的存在の未亡人。鮎太たちが卒業と同時期に東京に移り住みます。
鮎太は九州の官立(国立)大学に進学するが勉学をすることもなく旧友の住む東京に行き来する。友人達が自身の信じる道を進む中で鮎太は漫然と日々を送ります。

〔第四章〕 春の狐火
招集も経験した鮎太は大学を卒業してR新聞社の新聞記者として大阪で社会人生活を始めます。山岸大蔵、杉村春三郎らの先輩に囲まれて新聞記者としての経験を積むシーンが展開されます。
杉村春三郎の妹・清香が登場。
故郷・岡山の支局に移った杉村の手紙を機に「春の狐火」の取材に向かいます。取材の夜、幻想的な体験をした相手が清香だったことを後日知ります。

〔第五章〕 勝敗
社会部の遊軍記者となった鮎太。L新聞社の左山町介が現れます。記者としての能力は高いが要領よく友人はいない。次第に互いに心を通わすライバル的存在になっていきます。
左山の恋愛事件にもからんでしまい結婚披露宴にも出席。その席で13歳の時に出会った加島浜子に再会しますが、浜子は気付かずにわずかなシーンで終わります。
鮎太と左山はそれぞれ従軍記者、特派員になり戦地に赴任。石家荘から天津に向かう貨物列車で偶然の再会を果たします。その後左山は軍艦の甲板上で戦死。

〔第六章〕 星の植民地
終戦前の大阪。結婚をした鮎太は妻と二人の幼い子供を疎開させて一人新聞記者の仕事を続けます。
終戦の日。町の表情を記事にした鮎太。自分の思いを綴った初めての記事でした。
夕刻に合った熊井源吉。今日出会った女と明日結婚をして住みついた他人の土蔵で店を開くという。
翌日開店した熊井の汁粉屋でオシゲと出会います。
犬塚山次、田原との交流、熊井夫婦の不仲、オシゲと親密な関係に陥るなどいくつかの出来事を経て、オシゲは秋田の米屋に嫁いでいきます。
最後に二人が別れた場所は、かつて熊井達と月見の宴を開いて月を見上げた際に「星の植民地」という言葉が浮かんできた、まさにその場所でした。

概ねこのようなストーリーといえるでしょうか。
井上靖氏の自伝的小説とも評されることもありますが必ずしも事実に沿って書かれているわけでもありません。
いくつか論点が提示される本作品ですが時間の都合もあり(^_^;)ここでは一点のみ指摘しておきたいと思います。
それは題号にもなっている「あすなろ」に込めた思いです。

変遷する「あすなろ」が象徴する意味

この物語の最大のキーワードは「あすなろ」です。
そのことは多くの人にも異論なくそうだと言っていただけると思います。
この「あすなろ」の木に託す思いとして多くの読者は、「明日は檜(ひのき)になろうと念願しながら永遠に檜になれない翌檜(あすなろ)」に重ね合わせた主人公・梶鮎太の多感な青春時代が描かれている...このように受け止められていると思います。
これは書評や文庫版の裏表紙に書かれている要約文(※出版社の社員が書いている?)の影響が大きいと思います。全くの間違いとは言いませんが、作品の中での「あすなろ」に託す思いとしては一部分にしか過ぎません。
じっくりと読んでいくと、井上靖氏は「あすなろ」の意味合いを作品中で、少なくとも3つの段階を経た位置づけをあたえています。

(1)絶対に檜になれない翌檜(あすなろ)

小学校と中学の途中まで「神童」と呼ばれてきた鮎太。しかし学業が頓挫し始め、鉄棒も続かず、歌もへた...。自分が何者なのかわからず、もがき続ける十代の少年。北陸の高校へ進学し、無試験で九州の大学に入学し怠惰な学生生活が描かれる頃までの文中で出てくる「あすなろ」の意味合いは、身の丈を知らない「檜になれない翌檜」そのものです。
その中でも努力をし続けることの健気さが描かれているのが印象的で、多くの読者の青春時代を思い起こさせるシーンだと思います。

(2)翌檜と思いこんでいる檜がいる

二番目の意味合いを持って「あすなろ」が語られるのは第三章の途中からです。
「英ちゃんのために乾杯しましょうよ。英ちゃんが翌檜でないように!」
「誰が檜の子かしら」
多くの人間はたいてい翌檜であるが、その中に大きくなって檜になるれっきとした檜の子がその中に混じっている。その見分けがつかないことが問題だ、という表現も書かれています。

(3)希望を持って努力する人の異名「あすなろ」

社会人になってからの生活が描かれる第四章以降。「あすなろ」という言葉にもうひとつの意味が加えられます。
「新聞社内はあすなろでいっぱいだった」
「明日は何ものかになろうというあすなろたちが、日本の都市という都市から全く姿を消してしまったのは...」
また終戦後一番早く自分の生活の建て直しに積極的に取り掛かった熊さんを評して「翌檜第一号」と称えています。
ここに至って、あすなろとセットになっていた檜云々の話は出て来なくなる。
明日に向かって努力を続ける人はすべて「あすなろ」であり、そうした「あすなろ」達によって戦後日本は再建することができた。このようにも聞こえてきます。
第六章の最終部分に次のような表現があります。

気付いてみると、あすなろは今や、オシゲと並んで歩いて行く彼の周囲にもいっぱい氾濫していた。

あすなろは努力し続ける人の異名として描かれてこの作品は終わります。
ここに井上靖氏の思いの一端があったと思うことに、さほど大きな間違いはないように私は感じます。

その他にも各章毎に登場する女性の存在と役割、前半三章と後半三章との対比など、作品を楽しむ読み方も語り合ったが、また時間のある時にでも記したいと思います。
また井上靖氏の執筆スタイルである詩と小説。まずモチーフが凝縮された詩が創作されたのち、そのテーマで小説が書かれていく。『あすなろ物語』も忠実にこのステップが踏襲されています。

井上作品のテーマ

桂冠塾で取り上げる井上靖氏の作品は『蒼き狼』に続いて二作品目でした。
かたや成吉思汗(チンギスハン)の生い立ちから生涯の活躍を描いた壮大なロマン小説。
今回の作品は自伝的な色彩もあると言われている日本的な作品。
一見するとまったく違う作風かと思われる二つの作品の間にも共通するモチーフを感じます。
モンゴル族の血を継承していることを自身の人生の勝利で証明したいと戦い続けた成吉思汗(チンギスハン)は、将来の夢をあきらめずに努力し続ける「あすなろ」達の姿に重なっているのではないかと思います。
井上靖氏の数々の作品の底流を流れる思想というものは、いくつかのテーマに凝縮されるのではないだろうか。
いつかゆっくり研鑽してみたいとも思います。

今回、宮城県から参加いただいた笹野英二さん。本当にお疲れ様でしたm(__)m

【第74回桂冠塾の概要】 http://www.prosecute.jp/keikan/074.htm

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居座りを決め込んだ 菅直人

昨日の参議院本会議において70日間の会期延長が民主党、共産、社民、みんなの各党などの多数で議決した。

時の政府与党と総理大臣が国益を無視した瞬間である。

なぜ延長日数が「70日」なのか。
直前まで「50日」延長で民主、自民、公明の3党合意ができていたではないか。
2次補正予算の審議議決とその財源となる特例公債法案の議決のためには「50日」で充分だ。「70日」は参議院で否決された場合を想定したとの報道があるが、3党合意を信じていないと宣言した格好である。
また本格的な復興支援となる第3次補正予算を議決するためには「70日」では短すぎる。「90日」または「120日」が必要とされる。
今回議決された「70日」延長では、70日後にいったん会期を閉じてから9月以降に改めて臨時国会を召集して第3次補正予算の議案上程、審議、議決となる。場合によってはその時点で民主党総裁選挙が行われる可能性もある。
いずれにしろ被災者と被災地への本格的復興支援のための本格的予算編成が大きく遅れることを意味する。
しかもそうした決定が、与野党を超えた合意を破棄してまで行われたのである。

なんのための国会延長なのか。
誰が、何のためにそんなことをやっているのか。
時の総理大臣である「菅直人」氏に対して不審の思いを強くするのは国民感情として至極当然の成り行きである。
そもそも復興支援のためには「通年国会」の開催が必要だとマスメディアや国会の場で訴えていたのは菅直人その人ではなかったのか。

しかし議決はすでに行われた。
最悪のシナリオに沿って事態は進行している。
9月以降に開催される第3次補正予算の審議は当初「新首相」のもとでとなっていた表現を「新体制」と変更させた菅直人氏と民主党執行部。次の総理は菅直人氏が務める可能性が最も濃厚である。

こうした日本憲政史上最悪と言えるかもしれないトップリーダー(総理大臣)のもとでも、私達は最善を尽くさなければならない。
「菅が最低だから何をやってもだめだよ」
たしかにそうかもしれないが、それを言ってしまったらそれこそ最悪の結果が待っている。

「大悪起これば大善来る」
「闇が深ければ深いほど暁は近い」
「一番苦労した人には一番幸福になる権利がある」

様々な言葉が示しているとおり、望むべき結果を勝ち取るためにはあきらめずに努力を続けていくしかない。
仕事がある人は、誠実に全力投球で毎日の仕事をやり切ろう。
勉学に取り組んでいる人は、近い将来にその努力を活かす場に立つことを信じて地道な努力を続けよう。
一定の仕事をやり終えた境涯にいる人は、余裕のある時間と能力を社会のために活用する貢献の日々を送ることを模索するのもよいかもしれない。

大切なこと。
自分が今いる場所で今できることを全力でやる。
今はこれしかないと思う毎日である。

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迷走する国会 進まぬ震災復興 -再生可能エネルギー法案への固執に疑問-

今国会の会期末が明日に迫ってきた。
現時点で国会の延長日数すら合意されていない状況である。
停滞の根源は菅直人にある。言わずと知れた時の総理大臣である。
菅氏は「再生可能エネルギー電気調達特別措置法案の成立」までは自分の内閣で成立させると意気込んでいるという。つい最近までは第2次補正予算案と特例公債法案が成立すれば退陣と思われたが、この2案の成立は大丈夫と見込んで欲が出てきたのだろうか。

ここで多くの国民は「だったら早く再生可能エネルギー電気調達特別措置法案を成立させて辞めてもらえばいいではないか」「7月中旬の退陣予定が1ケ月ほど延びるだけでしょ」と思っているかもしれない。
この認識には大きな落とし穴が少なくとも2つある。

ひとつは、再生可能エネルギー電気調達特別措置法案の主要目的のひとつが再生可能エネルギーの全量買い取りの義務化にあることである。
「脱原発」という流れから見れば「それでいいんじゃない?」という声が聞こえてきそうだが、問題はその買い取りを行うための原資である。現在各家庭等の太陽光発電での買い取り価格は各電力会社が各家庭に配電する際の価格を元に算出されているわけではなく国策として高い単価が設定されている。
現時点(平成23年度)で住宅用(10kW未満)で1キロワット当たり42円等と定められている買い取り価格。その原資は一般消費者の電気使用料金に上乗せして確保されている。同じ方式で全量買い取りの義務化を実施すれば各家庭や法人等の事業者の負担は多大になることは明白である。
震災後の状況に加えて震災前からの長引く不況状況下での経済活動を直撃するのは必至であり、復興のための消費税増税も決まるとすれば、国民と日本企業の負担は膨大な数字となる。
仮に再生可能エネルギーの全量買いを実行するとしても、その制度設計は慎重に、精緻を尽くして行われるべきである。脱原発、地球温暖化を抑制することも含めたCox排出の抑制、電気使用総量のあり方など様々な影響分野での結果を予測しながら、何らかの新たなスキームが検討されなければならない。
重要でかつ実行に値する法案であることには間違いがないと私は感じているが、それと同時に、遅速に行われるべきではないと断じておきたい。

もうひとつの視点は「辞めると宣言した人の言い分は何でも通るのか」という道義的問題である。
毎日新聞にこんな記事が載っていた。

経団連の米倉弘昌会長は20日の会見で、退陣表明しながら時期を明確にしない菅首相の姿勢について「自分が言ったことをちゃんと実行しないと、若い人たちの教育上も具合が悪い」と述べた。

他のメディアでも同様の報道が続いており枚挙にいとまがない。
与党である民主党執行部一人ひとりからテレビメディア報道のカメラの前で堂々と「辞めてほしい」と言われた総理大臣も貴重な存在だ。歴代の総理大臣でも似たような状況が皆無ではないが、皆が国益のために辞める決断をしてきた。
しかし菅直人という人間は、どうも違う感覚を持ち合わせた異質の人間のようである。

さらに敢えて踏み込んで言わせていただくと、再生可能エネルギーの全量買い取りの義務化よりもやるべきことがいくらでもあるではないか。被災された方々の復興支援の道筋もままならない状況下にあって再生エネルギーが最重要課題だと言わんがばかりの議論は不遜だと断じたい。
日本国の政治は総理大臣のクラブ活動ではないのだ。

※一応補足しておくと私は再生エネルギー利用を促進することに反対しているのではない。
私の事務所では創業時から15年間再生可能エネルギーに取り組んできており今も積極的にその事業を推進している。
【新エネルギー普及事業】新しいエネルギーへの転換を図る

国家であれ地域であれ、個々の企業や家族いずこにあっても、最も重要な要因は人である。
今のような程度の総理大臣を頂かないといけなかった日本国にあって、その責任の一端は私たち一人一人にもあることは紛れもない事実である。そのことを深く自覚し、まずはこれからできてしまう傷口をできる限り小さく抑えて次のステップに進まなければならない。どうしようもないとあきらめを感じた瞬間から、悪は際限なく蔓延るのだ。菅直人の居座りはその典型である。
私達はいま一番苦しんでいる人のためにできることを着実に実行しよう。
その先にやっと次の展望が開けてくるのだと信じて。

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やっと交代か 菅内閣

自民・公明の両党は来週末6月3日までに内閣不信任案を提出することをほぼ確定したとの報道が行われている。
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210527028.html
http://www.komei.or.jp/news/detail/20110528_5329
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110527/stt11052710410003-n1.htm

「やっと交代か」

これが国民の正直な感想だと思う。
不信任案可決のためには民主党議員から70名余の賛成者が必要になる計算だが、可決否決に関わらずこれだけ「交代せよ」との声があることを真摯に受け止めて、不信任案が提出された時点で辞任してはどうかと思う。
小沢一郎民主党元代表も米紙ウォールストリート・ジャーナルのインタビューに「一日でも早く代わった方がいい」と菅総理退陣を明言した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110527/stt11052719520009-n1.htm

流れは菅内閣退陣で決まった。
問題はポスト菅内閣だ。
だれがトップリーダーを務めるのか。いや務まるのか。
それぞれの国会議員はどのように行動すべきか。
東日本大震災の復旧復興は当然として、日本経済や高齢化社会を取り巻く環境は日に日に厳しさを増してきている。
文字通り「待ったなし」の政治が求められている。

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体験農園 第5回目

第5回目の今週は
(1)トウモロコシの種蒔き
(2)枝豆の種蒔き
(3)生姜の植え付け
(4)落花生の準備(マルチ敷き)
を行いました。

ひとつひとつの作業は初めてのことばかりですが、かなり要領、感覚がつかめるようになってきました(自分なりに...ですが^^;)。
今日も娘と二人でスタート。途中で妻が来ました。

来週はお休みで次は2週間後です(^^)/bud

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体験農園 第4日目

今週で4回目になりました。

今週の農作業は...
(1)トウモロコシの準備(マルチ敷き)
(2)枝豆の準備(マルチ敷き)
(3)コールラビーの植え付け
(4)サニーレタス・サンチュの植え付け です。

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自身の可能性を信じてもっと智恵を絞れ

政府は25日の電力需給緊急対策本部の会議で、経済活動や国民生活の大幅な見直しも含む節電を呼び掛ける方針を決めたと報じられている。

会議での発言をメディア報道から引用すると...
官房長官の枝野氏は「産業部門の事業活動のあり方や国民の生活様式にまで踏み込んだ抜本的な対策が必要だ」と述べたとされ、与謝野経済財政大臣は「大事なのは生産拠点に連続して電力を供給することだ。そのためには一般家庭などの節電をお願いする。もう一段の節電には、電気料金の体系を変えるべきではないか」と語り、一般家庭の電気料金引き上げを提案したとされている。(2011年3月25日11時10分  読売新聞より)

間違っていると断じることではないが、呼びかけるだけでなんとかなるのだろうか。電気料金をあげれば使用量が少なくなるだろうというのは、実に貧弱な発想と言わざるを得ない。勧善懲悪的、旧態依然とした旧タイプの経済理論であって、いまどき、大学の授業でもこんな稚拙な手法は教えていないのではないだろうか。
※余談だが与謝野氏の経済的考えはどうもこうした傾向があるように思えて、一抹の不安を感じている。
政府のリーダー達はそんなことで需要と供給のバランスが保たれると本気で思っているのだろうか。
おそらく何のアイデアもないままに集まってきて、ああでもない、こうでもないと井戸端会議でもしているのだろうか。
民主党政権の発想と行動は、所詮この程度だ。

発電した電力は保管しておくことができない。
その反面、需要が少ない時でもある程度発電し続けなければ操業開始停止に伴うロスも発生してしまう。
今回の「計画停電」実施の目的は、ピーク時の電気使用量が発電総量を超えてしまうことによる対策である。
この「計画停電」という手法だけが、ピーク時の唯一の対策ではないはずだ。
たとえば、ピーク時(山)の電気使用量を均して余裕のある時間帯(谷間)に使用することを考えることも必要だ。業務改善、経営改善でいえば「平準化」という考え方であり、極めて基本的な改善手法である。

政府のリーダー達には、こうした改善手法のイロハを今一度勉強し直して、即座に実践することを強く求めたい。
菅直人氏は原子力に詳しいと豪語しているそうであるが、そんなことはどうだっていい。
首相として国家のトップリーダーとして、今何をすべきか、よくよく考えて行動するべきである。

そうすれば、具体的な、様々な「平準化」の方策が出てくるだろう。
一例を挙げれば、製造工場系の事業所には昼間の操業を控えていただき夜間操業中心で経営計画を立て直してもらうということがあるだろう。もちろん既に3交代勤務の大企業も多くあるが、中小零細の事業所にも奨励していければ大きな電力消費のシフトが見込めるのではないか。その対応をとっていただく見返りとして夜間深夜電力の割引率を割り増すことも考えてよいだろう。
一般家庭への電気料金引き上げという与謝野氏の発言とは180度真反対の案であるが、どちらが実施効果が望めるのか一目瞭然ではないだろうか。

その他にも平準化の方策はいくつでもある。
また改善手法には、平準化以外にもいくつも手法がある。
手法の一つである「標準化」の考えを応用すれば、省エネ型の電力使用の具体例を例示することや効率的消費を促す機器的システムモジュールの追加投入等も有効的なアイデアとして出てくるだろう。

また、発電所に頼らない太陽光発電や小水力発電、エコ住宅の一層の推進のために平成23年度の助成金を倍増するなどの方策もよいかもしれない。
エネルギーのシフトは改善手法的にいえば「代替」の考え方である。
真摯に智恵を絞れば、それ以外にも、いくらでも効果的な具体策が出てくるのだ。

無能というと語弊があるが、自分自身が持てる無限の可能性を信じて、出来うる限りの智恵を発揮してこの難局を乗り切ってみせるとの決意がない人間は、リーダーの立場を他の人間に譲らなければならない。
本来、無能な人は一人として、いない。
それは、人にはどんな苦難をも乗り越えることができる無限の可能性を、誰人でも一人ももれなく、秘めていると信じるからだ。
しかし、悲しいかな、自身の可能性を信じて行動する気持ちがない人間が存在することも事実である。苦しい思いはしたくないと、限界まで挑戦したくないという人間もいる。
それは信念哲学の不在という、現代社会の世相そのものなのかもしれない。
しかし、リーダーになるべき者はその可能性を信じ抜き、率先垂範で現実の難局を解決する使命がある。

今、その実践と成功が、切に求められている。

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地域の声を尊重せよ 統一選特例による延期27選挙にとどまる

震災の被害を受けた自治体を対象に4月の統一地方選の選挙期日を延期する特例法案。与野党合意で成立した18日から一週間が経とうとするがその適用は27選挙区にとどまっている。直接の地震や津波、原発事故の被害を受けた自治体以外は対象外になっている。
認定しているのは総務省。
主管大臣は鳥取県知事経験者の片山氏だ。

認定される自治体の少なさは、論外だ。話にもならない。
いま国家を挙げて震災被害に立ち向かおうとしているときに、被災者を受けて入れている周辺自治体や、液状化現象に苦しむ浦安市が対象にならないというのは、庶民の感覚では全く理解できない。どのような政府の理屈なのか、理解もしたくない。
与野党を超えての法案成立の趣旨は、今の政府の運用の形を想定していないだろう。自民党、公明党をはじめとする野党も明確に抗議し、看過すべきではないはずだ。

少なくとも岩手、宮城、福島の3県は全県単位で延長とすべきだ。
浦安市をはじめ延期要請が出ている自治体の選挙日程は、原則自治体側の意向を尊重し延期対象とすべきである。
選挙の実務を行うのは地元自治体であって、政府ではない。
選挙で首長なり議員なりを選ぶのは、その自治体に住む有権者である。
その名前の通り「権利が有る」のは地域住民であって、政府与党の政治家ではないのだ。

日本国民が総力を挙げて震災に立ち向かおうとしている今、国家政府が最大限に尽力すべきであるが、今の政府与党にそんなことは望んでも仕方がないかもしれない。
しかし少なくとも、国民の努力の足を引っ張るような愚政だけは、やめていただきたい。

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福島原発 日本最大の危機 なにが何でも乗り切る。

今後の世界の未来がかかっていると言っても過言ではない。

東北関東大震災の被害は私達の想像をはるかに超えた。
地震と津波によって大きな被害を被った東北の中でも原子力発電所があった福島県で、次々と連続して起こり続ける福島第一原子力発電所での事故。
管轄する東京電力の対応に不満が集中しているのもわからないでもないが、いま最も求められているのは、この危機的状況を最小限の被害で脱出することだ。

だれもが冷静に、いま自分がなすべきことをやろう。

菅直人氏をはじめとする政府与党も東京電力の現場の足を引っ張ることはやめよう。
現場を知らない政治家の記者会見など、誰も必要としていない。
東京電力のメンバーを叱りつけるなど言語道断だ。
いま一番必死になっているのは、他ならぬ現場の人間たちではないか。
あなた方が求められているのは、国家を挙げて支援体制を整備することである。そのために必要な財源確保、特措法の成立、国際協力、民間支援との連携、避難所の確保、被害がなかった県での被災者受入れ等の広域救援の実施、支援物資や燃料類の確保と配給など、やるべきことはいくらでもある。
迅速に、叡智を発揮して陣頭指揮にあたることを強く求めたい。

首都圏を中心に計画停電が実施されている。
できる限り生活に影響を出さないようにという考え方からだろうが計画していた停電が回避されていることも多い。しかし、停電を予測して氷を買いこんでいたら停電はなく翌日になって事前予告なく停電になった、外出先で電車が運休になって帰れなくなった...様々と不測の事態が起こっている。
東京電力の方々には計画停電の実施のガイドライン、実施に踏み切る際のコンセプトをよくよく説明と周知徹底を願いたい。技術的にも「できない」「難しい」等と安直に言わずに、智恵を絞ってできる限りの社会を支える努力を発揮していただきたい。
しかしそれも人間のやることであり、未経験の非常事態下でのことだ。私達一人一人も、不手際や至らないことが多いことをお互いに理解をしよう。

首都圏を直撃する地震発生の不安も拭いがたい。
しかし非常時物資の買入れは最小限度にとどめよう。
新たな食料購入は2~3日分程度に抑えよう。
燃料類も日常生活に必要な分ずつ購入しよう。
店頭に商品が減っている最大の要因は被災地への物資提供であることを正しく理解しよう。
そして経済活動もできる限り抑え込み、消費電力削減に協力したい。
危急の仕事がない方々の出社はやめ、有給、自宅待機、自宅勤務に切り替えよう。
いま大切なことは、自分たちの利益を確保することではなく、社会として危機的状況を脱出することだ。
原子力政策や原発安全神話への批判も噴き出す気持ちもあるだろうが、いまは一切封印しよう。それはこの危機的事態を克服した時点で、思いっきり議論すればいい。

原発を管轄する直接の担当者の方々には、最大限の叡智を発揮し、迅速かつ的確な方策を打っていただきたい。想定しうる全ての可能性を網羅し、事故を事前に回避する方策を打ち続けていただきたい。人的な要素での事故はこれ以上ひとつたりとも起こさないとの決意で臨んでいただきたい。
こればかりは担当者以外の人には何もできない。

そして、私達が最も忘れてならないことがある。
それは、自身の生命を投げ出してでも、原発事故の拡大を阻止しようとしている同胞がいるという事実だ。

確実に死に直面しながら、一歩も引くことなく、淡々と、しかし強い決意で現実を直視している同胞がいる。途方もない絶望感に襲われる場面も一回や二回ではないと推察する。それでも投げ出すことなく、自身の生命を賭けて戦っている。彼らにはこの危機を乗り越えた後も、世間の激しい批判や被爆の後遺症に苦しむ後半生が待っているかもしれない。

その事実を直視すれば私達がやるべきことははっきりしている。
私達は、滅私の尊い行動に深く感謝し、絶対成功を真摯に祈り続けたい。
この危機を乗り切れるかどうか。
今後の世界、人類の未来を決する最大の正念場を、私達一人ひとりにとって間違いなく人生最大の危機的場面を、私たち一人一人の深く強い祈りと行動で、必ず乗り切るのだ。

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その意味がわかっているのか 政権交代の原点を否定する発言

 「児童手当法を修正しても、新しく法律を作っても、その児童手当法の修正の中身にもよるわけですから。既存法を修正するか新法を作るかというのは技術的な問題なので、私はむしろ中身の問題だと思います」(民主党 岡田幹事長)

そうであれば、政権交代しなくてもよかったのでは?
児童手当の拡充は自公政権の既成路線だったわけですし。
自公を否定してきた国民としては何を信任すればよいのか。
新しいものに期待して託してみるしかないという構図では、どこまで行ってもギャンブルの域を抜け出すことができない。
「隣の芝生は青い」といわれるが、今一度、自分達が今いる場所で、できることを思索しなければと痛感する毎日である。

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本当にやってしまった 予算案を単独で参議院へ送付

3月1日未明、政府与党は衆議院本会議で、2011年度予算案を民主、国民新両党などの賛成多数で可決し、参院に送付した。
多くの報道で知らされているように、予算関連法案と分離しての可決である。
予算関連法案の中には税制改正関連法案、赤字国債発行に必要な特例公債法案、地方税法改正案が含まれている。与党議員らは、なぜ、こうした歳入の裏付けとなる予算関連法案を審議せずして、予算案のみを可決できたのだろうか?
民主党が政権与党になってから、もっと言えば政権交代を旗印に総選挙時に発表したマニフェストの時代から、常に指摘されてきたのが「財源の曖昧さ」であった。

ここにきて、民主党が掲げた政策のための財源は、赤字国債と地方に大きなウェイトが置かれようとしている。そうした歳入関係の法案を審議せずして、財源が確保されたことを前提とした予算案のみが先行して強行採決された。

こんな乱暴な政治は日本の憲政史上、類を見ない暴挙であると断じたい。

しかし日本国憲法の規定によって、この予算案は参議院送付後30日で自然成立し、年度内に成立することが確定した。
しかも歳入に関する予算関連法案は否決される公算も高く残っている。
財源の裏付けのない予算が執行されるのである。

これは、今一度、全国民に信を問うべき決定的な状況となった。
歳入に関する法案審議を事実上封印してでも予算を成立させた民主党政治を信任するのかどうか。これが今度の衆議院総選挙の眼目である。
民主党政権自身が、この状況を作り出したということを、明確に認識していきたい。
要するに、勝負に打って出たのは、民主党自身であるということだ。
「解散総選挙したら議席が取れない」云々を理由とした解散先延ばしは、もはや通用しない。ましてや「残り2年半の任期を全うしたい」など寝言の類いだ。
残り2年半の任期を投げ捨てたのは、他ならない民主党自身である。

総選挙をやるなら、迅速に行うべきだ。
まずはつなぎ法案を早急に提出可決し、3~4ケ月の時間を確保し、解散総選挙を実施。総選挙後に即座に新しい内閣を組閣し、補正予算という形で事実上の予算審議をやり直して、関連法案とあわせて的確な経済対策、給与支払、福祉サービスの継続的実施を確保しなければならない。国民生活への支障を最小限に抑えることは議員たる者の最低限の義務である。

民主党政治に「あきれてものも言えない」と言うことは、ある意味で簡単である。
しかし、そんな民主党に「一度政治をやらせてみようじゃないか」と信任したのは、他ならぬ日本国民、有権者である。
「託すに足る政治家はいない」という声も、よく聞く。
それも真実かもしれないが、そんな状況の中でも私達は、今いる場所で生きていくしかないのだ。
そうであるならば、後ろ向きな気持ちを立て直して、今の状況を少しでもよくするために自分自身が何ができるかと思索し、行動したいと思う。
そうした小さな、しかし不断の努力だけが、今の閉塞状況を変えていけるのだと信じて、行動を続けていきたい。

それが今の私達に課せられた課題である。

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Yahoo 知恵袋を悪用 氷山の一角か

Yahoo 知恵袋を悪用し、大学入試をすり抜けようとした行為がメディアをにぎわせている。
メディアの関心は
・どういう手口だったのか?
・犯人は誰か?その人物像は?
・大学等の試験実施側の今後の対策は?
等に集中している。

すでに韓国ではIT機器を悪用した大規模な不正行為が発覚し、入試会場への電子機器類の持ち込みは禁止されている。金属探知器によるボディチェックはよく目にするシーンである。
今回の不正行為発覚直後から、携帯電話のカメラ機能を使った手口等が推測として報道されており、文部科学大臣も試験会場への携帯電話持ち込み禁止等に言及している。
しかしそんな手口はごく一例にすぎない。
やり方はいくらでもある。
試験会場外に共犯者が存在しているのは自明の理であり、その共犯者との質問文のやり取り、正答例の受け渡しができれば、彼らのことは足りる。

一例としての組み合わせを挙げると...
(1)会場内の受験者は送信用に無線CCDカメラ、受信用にイヤホンを装着
 CCDカメラはメガネタイプ、イヤホンはコードが付かないワイヤレスなら殆ど気づかれない。
(2)CCDカメラを経由して問題文を会場外の共犯者が読み取り、手元の携帯電話で知恵袋に投稿。
(3)知恵袋で得た回答例をマイクを通じて口頭で会場内の受験者に伝達。
(4)受験者はイヤホンで回答例を聞きそのまま回答用紙に記入する。

他にも組み合わせのバリエーションはいくつもあるが、こうした電子機器の使い方をすれば、携帯電話を持ち込み禁止にしてもボディチェックを実施しても簡単にすり抜けてしまう。
対処療法としての対策はある意味でシンプルだ。
どの組み合わせでも必ず必須なのが試験会場内との電波による情報の送受信だ。
この試験会場内との電波送受信を完全に遮断すればよい。
コストとの絡みが出てくるが、これが一番効果的である。

しかし、問題の本質はそんなことにあるのではない。
そのことは多くの人が感じている。

今回Yahoo知恵袋を悪用したことで不正行為が露呈したが、数名で回答チームを編成して会場外で問題を解いて受験者に伝えるとしていたらばれずに合格していただろう。そうした不正行為を行った合格者が過去にいなかったとは、誰も断言できない。
人数の多少はわからないが、おそらく、間違いなく、数名以上は存在していると思ってしまう。

なぜこうした不正行為を行ってしまうのか。
一部には愉快犯との指摘もある。そうした側面も否定できない。年数を経る毎に進化するIT技術を試してみたくなる気持ちもあるかもしれない。
しかしなによりも、ばれなければ大概のことはOKという気持ちが根底に巣くっていると思えて仕方がない。
たしかに「正直者が馬鹿を見る」世相である。
日本のトップリーダーが率先して自分の都合のよい言い訳をして恥ずかしげもなく開き直る時代だ。企業トップも自社の利益のためには海外の安価な労働力を使い捨てる。民主党政権のマニフェストに代表される、政権をとるためにはできないことを平気で公言し政権を獲得したら「国民だってできないと思っていたでしょ」的な開き直りはその典型だ。

そんなトップリーダーの姿を毎日のように見せられたら、自分達だって小利口に渡っていきたいと思うのは人情かもしれない。
しかし、である。
私たちは何のために人生を送るのだろうか。
楽に、困難を避けて、唯々諾々と長生きできればそれでよいのだろうか。
大学入試にしろ、苦労を避けて大学生活できればそれがベターなのだろうか。
社会人になっても、大した責任は無く、働いた時間の分だけ給与をもらえる人生がよいのだろうか。

2月の桂冠塾(読書会)ではベルグソンの『創造的進化』を取り上げた。
ベルグソンがテーマとして掲げた「生命の実在とは」という問題意識は、私たち自身が生きるとはどういう意味があるのかという哲学的命題を考えさせられる。
ベルグソンは、時間とは常に持続する連続であり、生命の躍動とは創造しようとする要求、欲求であると喝破した。

昨今の事件を我がことと捉えるにつけて、いま現在人に根本的に欠落しているのは、まさに人生を生きるための哲学であると痛感する。
そこに焦点をあてない限り、形を変えて、事件は起こり続けるのではないだろうか。

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何を勘違いしているのか 無実を証明するのは力士本人だ

大相撲八百長問題で疑惑をもたれている力士の中に携帯電話を提出していない者がいるとの報道がしきりだ。
携帯提出拒んだ力士「妻が踏んで壊した」 調査委に(朝日新聞)

何か勘違いをしていないか。
疑惑をもたれているのは自分自身だ。
本当に「妻が踏んづけて壊した」「機種変更をして以前の携帯が残っていない」のであれば、自ら携帯電話会社から通信記録を取り寄せて提出する等の無実証明に動くべきだ。
疑惑をかけられている力士は「自分は無実だ」と主張するのであれば、証明できなければ相撲界を去るという覚悟で、自らの無実を証明すべきではないか。
「調査に協力」云々の次元ではない。
疑惑の力士自身が無実を証明できなければ引退。
陶片追放、魔女狩りとの批判もあるかと思うが、故意の証拠隠滅とも受け止められてしまう行為を行っている輩がいる現実を前にした今回の状況ではこの姿勢しかない。
事態の重大性を鑑みれば、この判断しかないのではないか。

逃げ得は絶対に許してはならない。

八百長問題は国技とされてきた大相撲の命運を絶つ事件だとの真摯な認識で、全容解明に臨むことを望みたい。

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第70回桂冠塾 『塩狩峠』(三浦綾子著)

0701 1月29日に今年最初となる桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月の本は『塩狩峠』(三浦綾子著)です。

本作品はキリスト教誌「信徒の友」に連載されていたことからも推察されるように、キリスト教思想がベースとなった人生が描かれている。作者の三浦綾子自身が1952年、結核の闘病中にキリスト教に帰依。結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、プロテスタントとしての信仰に根ざした著作を次々と発表。『塩狩峠』は代表作にひとつである。

物語の主人公は永野信夫。
決まって書評等では死に至る最後のシーンが紹介されているが、作品の大半は永野信夫がキリスト教信者と出会い、様々な出来事を通して自らがキリスト教を根本とした生き方を送る変遷が描かれている。身を投げて死に至るシーンとその後の回りの人達の心境等の描写は予想している以上に少なく感じるのではないか。

最後のシーンは現実の事故がモデルになっていることはよく知られている。
実際の事故は作品連載が始める57年前の1909年(明治42年)2月に起きている。その時、塩狩峠にさしかかった列車の客車最後尾の連結器が外れて暴走をはじめた。その客車に乗り合わせていた鉄道院職員の長野政雄が暴走する車両の前に身を投げ出して列車を止めた。この献身行為によって大事故になることはなかったのだという。
主人公の名前の類似からみてもこの事故の犠牲者であった長野政雄の行為が作品のモチーフに大きな影響を与えている。

キリスト教は日本においては永く「ヤソ」と称されてきた。
作品の舞台となった時代は、キリスト教は日本伝来の宗教とは違う、江戸時代のキリシタン禁止令によって信徒がキリシタン類族として激しく弾圧された等の歴史から「受け入れがたい他国の宗教」というイメージが広く流布していた時代である。
※このあたりは第27回桂冠塾『青い空』でも触れました。

そうした時代に、自分自身の複雑な出生を抱えながら、自身が思っていることとは異なる思想、宗教を信じる人達と遭遇し、反発し、思索していく主人公の軌跡は考えさせられるものがある。
とかく自分の意見と異なる考え方の人とは努力をしてまで付き合おうとはしない風潮の現代である。中でも現代日本人の気質との指摘もされる傾向だ。
当たり障りのないところまでは楽しく会話するが、人生だ信念だとかの話は笑って踏み込ませず踏み込まずがスマートな生き方と言われたりもする。
「自他共の幸福」なんて言おうものなら失笑すら買いかねない。
第一そんなものがあるのかないのか考えすらしないし、別に関係ないしと受け流す。

私達の目指す人生のゴールとはどこにあるのだろうか。
今一度考えてみたいと思う今日この頃である。

【関連リンク】
第70回桂冠塾 『塩狩峠』(三浦綾子)

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第69回桂冠塾 『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ)

069_2 12月23日に今年最後の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本は『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ)です。

華氏451度 ―― 本のページに火がつき、燃え上がる温度・・・・・・。

この印象的な言葉で始まるこの小説は分野的にはSF小説とされる本で、作者のレイ・ブラッドベリは『火星年代記』の作者として知られるSF作家です。
この作品の舞台は、本を読むことが禁止された近未来社会。

主人公の男性モンターグの職業は焚書官。
法律で禁止されている本を持っているという密告を受けて、ガソリンをまいて火炎放射機で家財道具もろとも焼き尽くすのが彼の仕事です。
ある日モンターグは近所に住む少女クラリス・マックルランに出会います。そして彼女との会話がきっかけでモンターグの中でくすぶっていた本に対する気持ちの何かが動き始めます...。

まず作品のあらましを紹介します。

【第一部】炉床(ろしょう)と火トカゲ

焚書官(ファイヤーマン)の仕事をしている主人公モンターグ。彼の腕には勤務先を示す「火とかげ」、胸には不死鳥のバッジをつけている。
この世界の人達は本を読むことを禁じられていて、本を所持していることがわかると焚書官によって焼き払われるのである。
すべての家庭にはテレビ室があり、情報やドラマはすべてテレビによってもたらされる。
モンターグはその夜の仕事を終えて帰宅する途上、近くに引っ越してきた少女クラリス・マックルランと出会う。彼女と話すうちにモンターグの気持ちは落ち着かなくなっていく自分に気づく。
モンターグが暮らす国は近隣と小規模、断片的な戦争状態にある。
妻ミルドレッドと二人暮らしのモンターグが帰宅すると、妻は睡眠薬を過剰に服用して危篤状態にあった。病院に電話をかけると現れたのは医者ではなく機械を操作する2人の技術者。彼らは1回50ドルで吸引機のような機械を使ってミルドレッドの体液をすべて吸い上げて新しい血液に入れ替えた。
彼らは一晩で10人近い人間を同様に処置している。

クラリスと話したモンターグは焚書の仕事に疑問を持ち、法律を犯して焚書の現場から本を持ち帰って読み始める。
モンターグの変化を察した署長のビーティがモンターグと語り合う。
モンターグは本を所持して読んでいることを妻に告げる。

【第二部】ふるいと砂

モンターグは以前に出会った老人フェイバーに電話をかけて「現在残存している聖書は何冊あるか」と尋ねる。電話を切られたモンターグはフェイバーを訪問する。焚書現場から本を盗んだことを告白するモンターグ。本を印刷しようと意を固めた二人。モンターグはフェイバーから耳に装着する通信機をもらう。
その夜、自宅に集まっていた妻の友人たちに本を見せて詩を朗読してしまう。その詩を聞いた女の一人は涙を流した。
仕事に復帰したモンターグを待っていた焚書の仕事現場は、モンターグ自身の自宅だった。

【第三部】火はあかるく燃えて

モンターグが本を所持しているという密告は妻ミルドレッドによるものだった。
火炎放射器で自宅を焼き払うモンターグ。その最中で通信機をみつけてフェイバーへ触手を伸ばそうとするビーティ。モンターグはビーティを焼き殺してしまい逃走する。
いったんフェイバー宅に逃げ込むが、機械シェパードの追跡をまくために川に沿って逃走し、鉄道線路跡をたどって郊外へと進む。
たどりついた森でグレンジャー老人達に出会う。
そこで見たテレビ画面では、モンターグ追跡の模様が報道されていた。
モンターグを見失った当局は別人をモンターグとして逮捕し追跡劇は偽りの幕を下ろした。
グレンジャー老人達は一人が一冊の本として作品を記憶し朗読する人達だった。
そして行動を開始するために街に向かって歩き始めた。

■作者が伝えたかったものとは

レイ・ブラッドベリはこの作品で何が言いたかったのでしょうか。
ストーリーの流れに沿って考えると
・焚書に象徴される情報統制への批判
・進化する情報機器への警鐘
この2点が見えます。

焚書や禁書といった思想統制は、人類が社会を形成して以来、古今東西で行われて続けている行為です。社会主義や資本主義などの対立する政治的思想の排他、有害とか犯罪を誘発すると判断された思想の封じ込め、宗教的考えなどからその時代や地域の権力者や国家によって行われてきました。レイ・ブッラドベリが暮らしたアメリカにおいてもこの作品が書かれた時代にはマッカーシズムが吹き荒れていましたので、そうした社会状況が背景にあると指摘する人もいます。
レイ・ブラッドベリがこの点を強く意識していたことは間違いないと思われます。

情報機器への警鐘という面でも昔から新しい技術革新が起こる毎に批判がなされてきました。この作品ではテレビ室が登場し人としての機微がわからなくなっていく人達が描かれています。
現実の社会にあってもこの作品から少し時代をくだると、日本でテレビが登場した時には「一億総白痴化」という言葉が流布しましたし、インターネットが普及し始めた時も、携帯電話がビジネスシーンから一般生活に広がり始めた際にも、その悪影響が大きく議論されてきました。また「本を読まなくなる」という危機感はずっと今に至るまで議論され続けています。
ある面ではレイ・ブラッドベリは常識的感覚を備えた大人であったとも言えるかもしれません。

そしてレイ・ブラッドベリはこうした批判の先に何か別のものをみていたのでしょうか。
推察して考えるならば、それは本が持つ力を信じていたということになるのではないかと私は思います。
自身の財産すべてを失ってしまうというリスクと法律を犯してまで本を読もうとする情熱と欲求。
本の一節に触れただけで感激して涙を流してしまう生命の純粋さ。
一冊の本(文章)を残し続けるという思いが国家に反逆するエネルギーにまで凝結していくすさまじさ。
これらをレイ・ブラッドベリは「本の持つ力」として劇的に描き出そうとします。

■舞台装置のおもしろさ

舞台として描かれている社会も興味深く感じます。
たとえば作品の冒頭でモンターグの妻ミルドレッドが睡眠薬を飲みすぎて意識不明に陥ったシーンが登場します。病院に電話をかけると現れたのは医者ではなく機械を操作する2人の技術者。彼らは吸引機のような機械を使ってミルドレッドの体液をすべて吸い上げて新しい血液に入れ替えると、ミルドレッドは息を吹き返す。
---こんな社会が描かれています。
人間が機械化、非人間化されていることを象徴的に表現している典型的シーンです。
また職業犬として登場する機械シェパードは「機械」そのもの。レイ・ブラッドベリの風刺が直截的に表現されています。
またフェイバーとモンターグが会話に使った通信機器は現代社会では日常化しています。
このあたりはSF作家の真骨頂と言えるでしょう。

■継承と共に創造する力の具現化を

その一方で、作品のとしての深みがもう少しほしいと感じる点もあります。
いくつか指摘してみると...
・冒頭に登場する少女クラリスの役割がいまひとつ十分ではない?
・本を印刷する機械を作ると言って別れたフェイバーはどうなった?
・隣国との戦争はどうなっているのか?
・戦争について国民はどう思っていて生活にどのように影響しているのか?

また、作品の根本的ストーリーに関わってしまうので指摘するのはどうかなぁとは思いますが(^_^;)、最後にもう一つだけ私の意見を述べておきます。

レイ・ブラッドベリが描く「抵抗する人々」が創造的ではないと感じます。
焚書という政府方針に抵抗することが結果的に自分達の行動と発想の足かせになっている。
最も端的に表れているのは、皆が古典文学作品を守って次世代に継承しようとはしていますが、新しい文学作品なりを執筆する人が一人も描かれていないことです。
本当の意味で、既存の体制や権力に抗議し、改革していこうとするならば、新たな創造の生命力が不可欠だと私は思います。
確かに昔からの文学作品を継承することは大切ですが、それにもまして重要なのは、創造する力であると思います。
新しい創造物、この作品であれば文学作品を生み出していくことが、焚書に対する本当の抵抗であり、そこから真の変革が生まれるのだと確信します。

私達も日常の生活にあって、自分自身の意見を述べる際に、自分の意見を言ったら「それで終わり」という感覚になってしまっていることが、実に多い。
また現在の制度ややり方に対して反対をすることはある意味で簡単であるが、自らが主体者となって、現状を乗り越えて大きく発展させる意見と行動をとれる人は、思いのほか少ない。

ただ単に反対の意見を述べて抵抗するだけの行動にとどまることから、徐々に卒業しよう。
一歩でも二歩でもよいから、創造的行動を踏み出す今日一日にしよう。
その持続だけが現状を変えることができると心から信じたい。

【関連リンク】
第69回桂冠塾 実施内容

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群馬県片品村 第4回訪問

12月11日(土)に日帰りにて片品村を訪問。
通算4回目の今回は、ホタルの幼虫を放流すること、農業体験事業の打診、練馬大根の沢庵漬けの状況確認などが主な目的である。
前回訪村の際に2ケ所に放流したカワニナが無事定着していて一安心。
練馬から持参した幼虫を入れてきたバケツの水に現地の水を少しずつ混ぜて水温を下げていく。ほぼ同じくらいの水温になってから幼虫を少しずつ小分けにしながら放流。

民宿みやまに戻り、温泉のお風呂に入れていただく。
やはり、温泉はいい。
昼食をいただく。カレーと一緒に出していただいた白菜漬け等の漬物類もうまい。
親父さんいわく「畑の刺身」。本当にそうである。
昼食後、様々懇談。
現在受入れを続けている小学生の農業体験のイメージが強い印象を受ける。
子ども農山漁村交流プロジェクトだ。
私たちが提案する農業体験は就農の入口にも位置付けることができるプラン。
似ていて異なるもの。
多少はその違いがわかっていただけたかなと。

その後、人工芝のグランドゴルフ場を見てから練馬大根の沢庵漬けをやっていただいているお宅へ。まだ漬け方が浅い頃とは言え、ピリッとした味覚は練馬大根の特徴をよく出している。歯ごたえもよく、おいしい。
「片品の高原で栽培して漬けた練馬大根」としての差別化ができるかどうか、要検討だ。

民宿みやまでいただいた白菜3個と沢庵漬けのおみやげ。
自宅に帰ると奥さんが喜んで迎えてくれた(*^^)v20101211

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おかやまファーマーズマーケットノースヴィレッジ 第11回

11月16日(火)~18日(木)でOFMノースヴィレッジに行ってきました。
今回のポイントは農業体験と食品製造体験の体験事業を中核にした事業部門間の連携による全社的取組みへの意識改革である。

診断会では意欲を奮い立たせるが時間の経過とともに日常業務に終始するという悪循環の傾向がみられる。ここを打破するのは一人の人の地道な努力の積み重ねしかない。
OFMノースヴィレッジの魅力とはなにか。
この地域に存在する価値は何に見出すのか。
この思索の先には「農業体験ヴィレッジ構想」があり、最終形としての就農促進と新しい近郊型農村の未来像がある。

明年1月オープン予定で増設しているいちごハウスの建設、苗も順調だ。
これが冬場の事業の中核となる。
仮称いちごフェスタの準備が急がれる。
次のステップは、地域との協働の模索だ。
「春野菜づくり体験」を地域農業従者との連携で実現する。

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【第68回桂冠塾】『ビジョナリー・ピープル』(ジェリー・ポラス他共著)

068 11月27日(土)に11月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本は『ビジョナリー・ピープル』です。

作者は、ジェリー・ポラス、スチュワート・エメリー、マーク・トンプソンの3名による共著になります。最初に名前が挙がっているジェリー・ポラス氏はジェームズ・C・コリンズ氏との共著『ビジョナリー・カンパニー』の作者としても知られている方です。邦名タイトルから続編のように捉えている方も多いようですが、必ずしもそうとも言えないわけです。
※ちなみに『ビジョナリー・カンパニー』には2作、3作が発刊されており、こちらの著者はジェームズ・C・コリンズ氏。本著の3名は関わっていないようです。
筆頭に記載されているのでジェリー・ポラス氏が中心者かと思ったりしますが、その後の講演活動等は後者の2名の方が積極的に行っているような節も見受けられます。

一応上記の原作タイトルを挙げておきます。
『ビジョナリー・ピープル』 SUCCESS BUILT TO LAST Creating Life that Matters
『ビジョナリー・カンパニー』 BUILT TO LAST  Successful Habits of Visoinary Companies
『ビジョナリー・カンパニー②』 GOOD TO GREAT
『ビジョナリー・カンパニー③』 HOW THE MIGHTY FALL

ビジョナリ・・・のタイトルはおそらく日本の出版社の感覚ですね。

執筆の動機

まず冒頭に本書を執筆した理由が述べられている。
ネルソン・マンデラ氏の行動を通して、
「永続的に成功をおさめている人たちや並はずれた組織がなぜ生き生きと活動しているのか」「なぜ新たな意義を見つけ出し、その場しのぎや自分だけのためではなく、永続的に続く成果を生み出すために苦労しながらあらゆる困難を克服してでも成長するという選択をしたのか」
という疑問に対する答えを探るためだと書いている。
そしてそれらの人々は元々そうだったわけではなく、人生の変転があったのだという。
その結論として
「健全で持続可能な社会であるためには、健全で持続可能な組織の存在が不可欠」であるとし、その持続可能な社会の構築は「創造と成長に意義を見出せる人類」以外にではできないと断じている。
この点については、論理的な推察は書かれていないので違和感を感じる読者も少なからず出てくると思う。が、ここはそうした主張なのだと受け止めて読み進めることが肝要だと思う(^_^;)

そのうえで本書に取り上げた人物の基準等が述べられるがここでは割愛する。

ビジョナリー・ピープルにおける「成功」とは

次に「成功」についての定義を行っている。
この点は非常に重要だ。
まず一般的な「成功」の定義を辞書等を元に記載している。
そのうえで「ビジョナリーな人」における「成功」とは、「個人的な充実感と変わらない人間関係を与えてくれる、そんな生活や仕事」のことだという。
はっきり言ってこの表現はわかりにくい。
その後の文節の中で複数の表現をしているので列挙すると...

・富や名声や権力は、目標でもなければ実績でもない。
・金と評価は外的要因である。
・金と評価は、個人的な大義や天職という目的に向かって情熱的に働いた産物である。
・貢献か願望かのいずれかではなく、両方である。
・裕福になるという伝統的な成果の証は、本人の目標そのものではない。
・伝統的な成功というものは、しばしば色あせ、消滅し、魂の牢獄になってしまう。
・成功は個人的な強い思い入れがなければ、おぼつかない。
・一晩で成功するような、魔法のような成功はほとんど見当たらない。
・自分のエネルギーを振り絞って粘り強さを発揮し、身も心も打ち込んで人生を全うするために苦労を重ねている。
・何の見返りも求めず<あること>のために喜んで取り組む。
・立身出世にあこがれても、その過程で満足できない違和感を覚えてしまう。
等々...

こうした記述に続けて、「ビジョナリー・ピープル」が持続した成功を見出すのは3つの本質的な要素の整合性が取れた時だと指摘する。
それが
(1)意義
(2)思考スタイル
(3)行動スタイル  である。

本書はこの3要素に沿って構成され、多くのビジョナリーな人々が紹介されている。
順番に概要をざっくり述べてみると...

ビジョナリー・ピープル 3つの要素

【1】意義

ここでは、ビジョナリーな人々がなぜ成功し続けられるのかという疑問に対する回答を用意しようとする。そのためには、情熱と意義を追求することが不可欠だとしている。つまり「自分の人生の目的は何なのか」「なぜ人生を送るのか」という意義を追求すること、そして実行し続ける情熱が必要だということだ。
その情熱は必ずしもひとつだではなく、自分がやるべきだと感じたものに対して誠実な姿勢を貫けとアドバイスしている。

【2】思考スタイル

意義を明確にし、持続する情熱をもったうえで、自分の人生の変転、変身は自分自身の中から始めることを強調する。
周りの雑音に惑わされず、自分の心の中の「静かな叫びに耳を傾けよ」と。
「静かな叫び」に応答する力を削ぐものとして4つを挙げている。

①キャリアへの固執
②BSO(Bright Shiney Objects)への憧れ
③コンピテンスの誘惑
④ORの呪縛

どれもそれなりに感じる点があるが、特に「ORの呪縛よりもANDの才覚」との指摘には納得するものがある。
そして時としてカリスマ的な評価を受けるくらいの強い信念が必要だとも述べている。
そのうえで具体的な思考スタイルとして「失敗を糧にする」ことと「自分の弱点を受け入れる」ことを挙げる。ビジョナリーな生き方においてはすべてが学習であり、無駄なことは何一つないと断言している。

【3】行動スタイル

上記2つを踏まえたうえで行動スタイルの大切さを述べている。
その典型として「思いがけない幸運に備えよ」と訴える。セレンディップの3人の王子の逸話を引きながら、幸運が突然現れても自分からつかみ取ることだ。言いかえれば、人生とは不運と予期せぬ幸運で満ち溢れている、そこで通用するのは決然とした覚悟と開かれた心しかない、ということだと述べている。
そうした不測の人生であっても、そうであるからこそ、目標や計画が必要だと力説する。なかんずく「のるかそるかの冒険的な目標」、英字表現の頭文字をとって「BHAG(ビーハグ)」と表現する目標の重要性を説く。
※BHAG ・・・
いいかえれば現在の力を100とすれば、もう少し努力すれば達成できるかどうかの高い目標、120とか150とかの目標値と言えるだろう。
これは夢物語ではいけない。かといって現在の能力で実現可能な低い目標値でもない。
・人を奮い立たせてくれる
・人の心に訴えかけ、心酔させてしまう
・内容はあくまで具体的でその気にさせるのに十分
・しかも見事に焦点が定まっている
・ゴールのテープははっきりみえている
というものだ。
言葉にすると簡単だが、現実はなかなか難しい。
高いリスクも伴い続けることにもなり、中核的な価値観とイデオロギーの両方を維持することで、前進することができる。
すでにお気づきだろうが、こうした基準には個人差が著しい。
そうしたことを踏まえると、周りの人を変えようとしてもほとんど意味はなく、まずは自分が変わることが求められる。その行動が同時に自分を取り巻く世界を変える。こうした方程式が、自ずから導き出されてくる。
そしてBHAGとして掲げたものが必ずしもそのままの形で実現するばかりではないと指摘する。多くの場合はBHAGで掲げた以上の結果をもたらし、必然的な形として元々のBHAGを包含するのだという構図を示している。

そのうえで具体的な方策として
・論争を盛り上げること
・すべてを結集させること を提示している。

論争を盛り上げることとは、自分とは異なる意見に耳を傾けること、そして異論者を非難するのではなく相違する問題を解決するためにはどうすればよいのかという思考と行動スタイルを実行することが重要だと指摘する。
その結果、論争が協調を生むことになる。
そしてその延長になるが、すべてのことを結集させよと説く。結集は統合といってもよいと思う。すべてのことには何一つ意味のないもの、無駄なことはないのだという論理にも通じる考えだ。

これら、意義、思考スタイル、行動スタイルの3つの輪の整合性を取るためには、人並み外れた使命感、自制心、人一倍の勇気が必要であるとし、この作業に全身全霊をかけて飛び込んでいく冒険こそが人生そのものであるとの結論で本書はまとめられている。

違和感がある個所、ものたりない個所...

ところどころ気になる点もある。
一例を挙げると本書では「自分自身の静かな心の声に耳を傾けよ」という。
その声が本当に素直な声かどうか、果たしてよりよき判断ができるだろうか。
その際の基準はそうやって培っていけばよいのだろうか。
心の声に素直に...というのは一見「そのとおりだ」とも思える。がしかし、心ほど頼りにならないものもない。弱気になればどこまでも弱気になるし、思い込んでしまうと真実が見えなくなる経験は誰もが味わっているのではないだろうか。

先哲の言葉に「心の師とはなるとも心を師とせざれ」というものがある。
まさに物事を考える根本の思想、理念が重要だということではないだろうか。

もうひとつ挙げると、本書のスタートは「永続的に成功し続ける人生を送るために」という前向きな人生観から始まっている。
翻って現代の社会はどうだろうか。
自分の利益を追い求めることが何が悪いという風潮になって久しい感がある。
さらに近年顕著になってきたのが、自分の利害すら求めようとしない生き方だ。「ただなんとなく」生きている...仕事もその日その日が食べていければ何の執着もない...仕事も生活もしないで済むならしないほうがいい...いいとか悪いとか考えもしない...何もしなくなっても社会のセーフティネットがなんとか食べていけるだけにはしれくれるだろう...
少なくない割合で、こうした考えの生き方が増えてきているように思える節がある。

こうした考え方を自分の生き方の根本においた人たちにとって、本書は見事に無力に感じてしまう。しかし、そうした人達にも対話の糸口を持ち続けようというのが私たちの生き方であると思いたい。
一人ももれなく、誰にも「ビジョナリー・ピープル」になる変転の時が来ると思うからであり、そう思える人が「ビジョナリー・ピープル」その人だと思うからである。

2007年に発刊されたこともあって、本書に取り上げられている人物の多くは今も第一線で活躍している。ビジョナリーな人たちとして取り上げられたのであるから今後とも活躍する可能性は高いのだろう。
私達が本書から学ぶべきものは何だろうか。
自分自身の心に問いかけてみたい。

今回は直前キャンセルが重なり2名のみの参加となりました。

【関連リンク】
第68回桂冠塾 実施内容

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2010年11月実施 教学部任用試験 仕上げのための練習問題集

2010年11月28日に実施予定の教学部任用試験。
各地で多くの受験予定者が意欲的に取り組んでいる。
教学研鑽の一助として練習問題を作成しました。
ぜひご活用ください。

問題は下記をクリック↓pencil
http://www.prosecute.jp/2010ninyou.htm

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【第67回桂冠塾】『アルケミスト』(パウロ・コエーリョ)

10月23日(土)に10月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本はパウロ・コエーリョ作『アルケミスト』です。

■作品のあらすじ

「でも、僕は彼らが住む町の城を見たいんです」
そう言って、今住んでいる場所での生活が一番だという父親を説得して羊飼いになった少年サンチャゴ。
羊飼いの仕事や移動生活、書物から多くのことを学びながら2年を過ごし、恋心を抱いた娘に会う4日前から物語は始まります。サンチャゴは羊の群れを連れて見捨てられた教会に着きます。教会の屋根は朽ち落ちて祭壇だった場所に一本の大きないちじくの木が生えている...そんな場面です。

少女の住む町に向かう前に寄った町で、サンチャゴは2度見た夢の意味を知ろうと思う。占い師とセイラムの王からエジプトのピラミッドのそばに宝物があり彼のことを待っているという予言を聞く。
東風に吹かれ、セイラム王の話を聞いたサンチャゴは前兆を信じて、アンダルシアの平原を離れてエジプトのピラミッドに向けて船に乗ることを決意する。

60頭の羊を持っていたサンチャゴは占い師と同じことしか言わなかったセイラムの王に予言のお礼として6頭の羊を渡し、残り54頭の羊を売ったお金を持ってアフリカ・タンジェの町に到着する。しかし着いて最初に出会った男に全てのお金を盗まれてしまう。絶望の淵に立たされるサンチェゴだったが、その時セイラムの王が言った言葉を思い出す。
「おまえが何か望めば、宇宙のすべてが協力して、それを実現するように助けてくれるよ」
彼は自分が新しい場所を知りたいと願っていたことを思い出し、どの羊飼いよりも遠くまで旅していることを発見する。そして自分が惨めな犠牲者なのか宝物を探し求める冒険家と考えるか、どちらかを選ぶ選択に迫られていることに気づく。
サンチェゴは言った。
「自分は宝物を探している冒険家なんだ」と。

クリスタルガラスの店で働き始めたサンチャゴは、自らの智恵と工夫で店の売上を飛躍的に拡大させる。1年後、羊を買うために十分なお金ができたサンチェゴは店を後にする。しかし前兆を信じた彼は帰国せずにエジプト行きのキャラバンに従った。一行に加わったイギリス人が求める錬金術師を共に探す中で少女ファティマと出会う。
部族間の抗争によってオアシスに滞留していたある日、タカの様子に軍隊が攻めてくるヴィジョンを見たサンチャゴは族長に進言する。彼の言葉を信じたオアシスの民は、攻め込んできた軍隊を撃退する。

族長はサンチャゴに金50個を与え、オアシスの相談役になってくれるよう依頼する。
しかしサンチャゴは栄誉を捨てて、錬金術師に従ってピラミッドをめざす道を選んだ。
予想していた通りだが戦闘を続ける一方の部族に捕らわれてしまう。錬金術師はサンチェゴに相談しないまま彼の持っていたお金を部族の男に与え、「自然と世界を理解しているこの少年(サンチェゴ)はすごい力をみせる」と言い放った。
力を見せなければ殺される。3日間の猶予を与えられたサンチェゴに対して「恐怖に負けてはいけない」「夢の実現を不可能にするのは失敗するのではないかという恐れだ」と語る錬金術師。
サンチェゴは自分を「風」に変えると宣言する。砂漠と対話し、風と対話し、風になる方法を尋ねるが答えは見つからず天に聞こうとする。天と最も近い太陽と対話するが、太陽はサンチェゴの望みをかなえることができない。
「すべてを書いた手を話してみなさい」という太陽。
この手だけがすべての答えを知っていた。
少年は大いなる魂に到達し、神の魂は彼自身の魂であるとことを悟った。
そして彼自身が奇跡を起こすことを知った。

偉大な力を示したサンチェゴと錬金術師は修道院に着く。錬金術師は鉛を金を作って4等分する。修道士と錬金術師、サンチェゴに一つずつ分け、残りの一つをサンチェゴのために修道士に預ける。
サンチェゴは一人でピラミッドに向かった。
ピラミッドが現れた場所で前兆であるスカラベ(ふんころがし)を発見した彼は、一晩中その場所を掘り続ける。しかしなにも見つけられない。
「涙が落ちた場所を掘れ」との心の言葉のままに掘り進めて突き当たった岩を掘りだそうとする場面に、部族紛争の難民が彼を襲う。
サンチェゴの持っていた金塊を奪った男は「宝を探して掘っていた!」と叫んだサンチャゴに言い放つ。
「おまえは人はそんなに愚かではいけないと学ぶだろう」
「まさにこの場所でおれも何回も同じ夢を見た。スペインの平原に行き、羊飼いと羊たちが眠る見捨てられた教会を探せよという夢だった」
「しかしただ同じ夢を見たからといって砂漠を横断するほど、おれは愚かではない」と。

サンチェゴは宝物のありかを知った。

最後のシーン。
サンチェゴは見捨てられた教会に着く。物語の冒頭の教会である。
彼はスペイン金貨のつまった大きな箱を掘り出す。
人生は運命を追求する者にとっては本当に偉大だとサンチェゴは思った。
そしてファティマのことを思うシーンで物語は終わる。

■「アルケミスト」の意味するものとは

題名に使われている「アルケミスト」とは錬金術師という意味の言葉です。本気で他の金属から金を生成できると思っていた時代もあったが、現代人にとっては非科学的な行為という認識が敷衍しているかもしれない。
確かに一般的な認識では他の金属から貴金属を生成することはできないが、広義的には原子物理学の発展によって生成できるようになっている。ただし作品の中で描かれるような、鉛を火にかけることで金が生成できるということはあり得ない。
では、パウロ・コエーリョは「アルケミスト(錬金術師)」という言葉に何を託したかったのだろうか。ここにこの作品のテーマを見ることができるだろう。

アルケミストが意味するもの、それは作品を読んだ各人が感じることだと思う。
私もその一人として、思う点を少し記述しておきたい。
パウロ・コエーリョは作品の中で繰り返し、自身の心の言葉、自分が持った夢をあきらめずに追い求める重要性を訴えています。そして正しき道には必ず前兆があり、その前兆を信じ抜いていくことが一番大切だと。
その前兆を信じ抜くということは、自分自身が本来的に自然と世界の哲理を覚知しているからだとも述べています。その代表的な展開が、鷹によってオアシスが襲撃されることを予知するシーンであり、サンチャゴが風になるという場面です。

そうした意味から考えると「錬金術師」とは、全くの他の金属から金を生成するという意味ではなく、元々本来的に自身の生命の奥底に備わっている真実の宝を信じ抜いて行動すれば必ずその宝は目に見える形であらわれ、素晴らしい人生が送れるのだというパウロ・コエーリョの心の叫びと受け止めることが適切ではないかと思います。
アルケミスト-錬金術師-とはそうした自身の真実の宝を信じ抜ける人、魂の声に耳を傾けて行動し抜ける人、とも言える。
現代を生きる私たちが今最も大切にしなければならないことだと訴えているのかもしれません。

■現実の人生は

ただし、「心の声」に忠実に生きることですべてがよい方向に進むとは必ずしも言い切れないことは多くの人が痛感している事実でもあります。
※確かに作品の中でこの点について全く触れていないわけではない。アフリカ・タンジェの町についた直後、男にお金を持ち逃げされたシーンがあります。この時もサンチェゴは心の感じたままに最初に出会った男を信じてお金を預けてしまって被害に遭っている。サンチェゴは災難に負けず自身の決めた目標に進む、という流れになっていますが、この事件がなぜ起こったのか、それ以外の場面と何が一緒で何が違うのか、この事件をいかに活かすのか等々の視点は描かれていません。

この点を私たちはどのように受け止め、また、行動すべきなのでしょうか。
先哲の言葉に「心の師とはなるとも・心を師とせざれ」という有名な言葉があります。
時々刻々と変化する心に従うことの危うさを知らなければなりません。現代犯罪の多くは肥大し続ける欲望という名の自身の心の動きのままに行動した結果でもある。残忍な犯罪の多くが、周りからは身勝手としか思えない、しかし犯罪を犯した本人にとっては極めて重要と感じる心の叫びであることが引き金になっている。無差別殺人はその典型とは言えまいか。

私はこの点において、さらに『アルケミスト』をその作品の枠を飛び越えて深く読み進めることが重要かつ不可欠ではないかと感じています。

また別の視点で見てみると、別の世界を見てみたいと思いつつ、今いる町で生きることを選択したサンチェゴの父や母の生き方は一段劣っていたのだろうか。
私はそうは思わない。
様々な捉え方ができるので一概には言えないし、意見も様々出ると思うが、父や母が選んだ生き方もかけがえのない人生であり、誇るべき生き方であると思う。

確かに人生の岐路に立つとき、従来の生き方の延長線上に自身の進む道を見出すのか、新たな天地を求めて一歩踏み出すのか、その後の人生は180度違ってくるだろう。前者が旧態依然とした保守的な生き方で、後者が挑戦的かつ意欲的な誇るべき人生だというステレオタイプ的な捉え方では、現実の人生を誤ってしまう。

大切なことは「何のために」その道を選ぼうとするのか?ではないか。
「不労所得を求めない」「他人の不幸の上に自身の幸福を築こうとしない」ということがその根底にあるべきだと私は思う。そのうえで自身の判断基準として、自分自身が決めた人生の目的を基準として判断すべきである。
そして、それでも、ぎりぎりのところまで判断がつきかねるとき、私は常々座標とすることがある。
それは「最後は自分自身が苦しい道を選べ」ということだ。
仮にそれで失敗しても、最後まで自分で決めたことであれば納得もいく。
楽な道を選んで失敗したとすれば大きな悔いが残るだろう。
果敢に挑戦して敗退したとしても悔いは残るかもしれないが、その挑戦の過程で得たものはそれ以上に素晴らしいものになると私は考えている。

■含蓄のある寓話がいくつも

『アルケミスト』の作品としての魅力として、登場人物が語る寓話や逸話をあげる方も多いとと思います。
・各地を見てきたジプシーが「あなたたちの住む土地に住みたい」という。
・この本は世界中のほとんど本が言っているのと同じことを言っている。
・誰も世界最大のうそを信じている。それは人はある時点で自分に起こっていることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。
・誰でも若い時は自分の運命を知っている。
・不思議な力は運命をどのおゆに実現すべきかおまえに示してくれる。
・人は自分の運命より、他人が自分の職業をどう思うかということが大切になってしまう。
・宝物は流れる水の力によって姿を現し、同じ流れによって姿を隠す。
・毎日が同じなのは、毎日起こっていることが素晴らしいことに気づかないからだ。
・誰でも初めてカードをする時はほとんど勝つものだ。初心者のつきだ。それは運命を実現させようとする力が働くからだ。成功の美味で食欲を刺激するのだ。
・宝物を見つけるためには前兆に従っていかなくてはならない。
・素晴らしい宮殿でのスプーンに入れたニ滴の油 等々....

まだまだ列挙しきれないほどの逸話が続きます。
最後は元々自分が生活していた土地に戻ってくるというラストシーンになります。
ただ財貨を手に入れて、愛する女性との生活が待っている...というのはどうも安直との感が拭えないのも正直な感想であります。
元々サンチェゴが求めていたものは何だったのでしょうか。
「でも僕は彼ら(ジプシー)の住む土地が見てみたいんです。彼らがどうやって生活しているかも見たいんです」と始めた羊飼いの生活。
その結末がスペイン金貨を手にして愛する女性との生活を始める...というのはどうも流行の恋愛小説の域を超えなくなってしまう。自分だけ幸せになっている、人生の勝利は豊かな財貨と家族を得ること、とも受け止められる話の展開に違和感を感じる読者も多いのではないかと思います。

その意味でも更なる思索を必要とする一書、またそれを感じさせてくれる意味のある一書ではないかと思います。

当日は3名での開催となりました。

【関連リンク】
第67回桂冠塾 実施内容 http://www.prosecute.jp/keikan/067.htm
錬金術 - Wikipedia

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群馬県片品村 第3回目訪問

10月2日(土)に片品村を訪問してきました。
今回で3回目。今回はホタルの自然孵化を実現させるための候補地の決定と水質検査、ホタルのえさとなるカワニナの放流が主な目的である。
水質検査等で選んだ2ケ所の場所に約30kgのカワニナをまく。
ホタルの幼虫が上陸するための苔も貼る。
初めての経験で勉強になった。

そのほか沼田市にあるホタル公園、吹き割の滝、古民家、休耕田、鱒養殖場なども見て回り、忙しいスケジュールでの訪問となった。
20101002

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【第66回桂冠塾】『ガリヴァ旅行記』(ジョナサン・スウィスト)

066  9月25日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月の本は『ガリヴァ旅行記』です。

当日はまず作者の経歴や活動の様子、作品が書かれた時代や思想的な背景等を全員で確認した後、各章毎の構成を見ていきました。
その後、各章毎のポイントと思われる注目点をデスカッションしました。

『ガリヴァ旅行記』は、1700年前後のイギリスを舞台に描かれた航海記のひとつです。時代はいわゆる「大航海時代」。当時はすでにアメリカ大陸に入植してアメリカは未知の世界ではなくなっていました。イギリスから見て西側はアメリカ大陸、東側はオランダ交易に代表されるように日本までが彼らヨーロッパ人の「領海」となっていて、未知の世界はアメリカ大陸を越えた西の世界、日本を越えた東側の世界が残されていました。オーストラリア大陸はその象徴で大陸の西半分までしか認知されていなかった時代でした。

そんな大航海時代の真っ最中。西欧各国では虚実入り交じった数多の航海記が出版されていたわけで『ガリヴァ旅行記』はそうした雑多な出版物のなかから一躍ベストセラーになった作品です。

作者のジョナサン・スウィストについては精神的にいびつな面があり素行も良くないように長く言われてきましたが、その後の研究によって必ずしもそうではないという学説も出てきています。新潮文庫版には日本語訳者である中野好夫氏の解説の冒頭で「手に負えない不良者」「傲岸不遜」と書かれており、日本におけるスウィストのイメージを定着させることに大きく影響していると思われます。そもそも日本における悪評の因は夏目漱石の評に影響されるところが大きいと指摘する研究者もいて、中野氏の解説の中でも夏目漱石の言葉が引用されています。

本書が『ロビンソンクルーソーの大冒険』に刺激されて執筆されたことは有名です。
ロビンソンクルーソーの物語がイギリス様式の生活や資本主義的生き方を肯定的なベースとしていることに対して、ガリヴァの物語が否定的に描かれているのは実に興味深い点です。

本作品は4篇構成になっています。簡単に概要を紹介しますと...

【1】リリパット(小人国)への航海記

航海の途中で嵐に遭遇し漂着した土地で目を覚ますと浜辺で細いひもで体を固定されている。回りには15cmほどの小さな人間達がいた。そこはリリパットと呼ばれる小人達の国だった。海を挟んで近くにブレフスキュ国というやはり小人達の国があり、交易もするが交戦状態にあった。ガリヴァは逆らうことはせずリリパットで軟禁状態で暮らし始める。リリパット国に恩義を感じるガリヴァはブレフスキュ国の艦船を捕縛することでその義理を果たす。しかしその勢いに乗じてブレフスキュを攻め込めという皇帝には反論したため次第に疎んじられていく。皇妃の住む宮殿が火事の際に放尿で鎮火させたこと、ガリヴァの食料によって国家財政が急激に逼迫したことが重なり、ガリヴァを餓死させることが決定される。親しい高官によってその事実を知らされたガリヴァはブレフスキュ国訪問を口実に国外に逃れ、そこで手に入れた手漕ぎボートでイギリス帰国を目指して出帆。運よく英国船に拾われイギリス帰国を果たす。小型の牛馬を見せ物にして大いに収入を得る。

【2】プロプディンナグ(大人国)への航海記

わずか2ケ月半のイギリス滞在で再び航海に出たガリヴァは、今度は身長が約12倍ある大人の住む国に上陸する。大人に追われた仲間達はボートで逃げ出しガリヴァ一人が取り残される。ここはブロブディンナグ国と称する、アメリカ大陸から突き出した半島の国。海と険しい山で隔てられた下界との交流がまったくない完全に孤立した土地。大人達は農業で生計を立てている。ガリヴァは農夫の男に捕われ、見世物になって町の市に出て行く。そこで王妃に買われたガリヴァは、王妃や女官達の愛玩具として扱われる。ガリヴァに興味を持った国王は、イギリスの社会制度や政治、戦争、金融制度について質問し、率直な疑問を投げつける。領地を訪れる際に同行させられたガリヴァは王妃達が海岸で遊んでいる隙に鷹らしき鳥に箱ごとつかみ上げられてしまい、大海原に落とされてしまう。運よく通りがかった英国船に助けられてイギリス帰国を果たす。

【3】ラピュタ、バルニバーニ、グラブダブドリッブ、ラブナグ及び日本への航海記

ラピュタは天空に浮かぶ科学者の国。磁力によってその浮力を保ち、磁鉱石を有するバルニバーニ国の上空を征圧しその領域を治めている。生産活動はすべて地上のバルバーニ国に行なわせるという構図です。ラピュタ国は全員が科学者。学士院では様々な研究が行なわれ、その理論でバルニバーニでは施策を行なわれるがそのために庶民達は塗炭の苦しみを味わっている。
その後帰国を希望するガリヴァは魔法使いの小島グラブダブドリッブに渡り降霊術で歴史上の偉人達と会話し、彼らのいい加減さを暴露、後世の歴史的評価など当てにならないと主張する。大きな島国ラブナグ国に渡ったガリヴァは不死人間ストラルドブラグ(個人ではなく不死人間の総称)に会う。不死の実態を見て、死とは救済なのだと悟る。
その後ガリヴァは、日本の東端の港ザモスキ(観音崎)に着き、日本の皇帝に江戸で拝謁。踏絵を免除してほしいと嘆願、ラグナグ王の親書等によって許される。ナンガサク(長崎)まで護送されたガリヴァはオランダ船でイギリスに帰国を果たす。

【4】フウイヌム国への航海記

( 途中時間の都合で文章が書きかけとなっています^_^;逐次記述します )

002 最後に、今回私が参考にさせていただいた書籍を紹介させていただくと...
・富山太佳夫著『「ガリヴァー旅行記」を読む』岩波書店(岩波セミナーブックス)
・『ヴィジュアル版 ガリヴァー旅行記
この2冊が俊逸です。
富山氏の本は岩波セミナーでの連続講座の内容を本にしたもの。講演当時の最新研究成果を踏まえつつ、予見を排除した論究には目を見張るものがあります。特に『ガリヴァ旅行記』が書かれた当時の社会風俗や極端に表現されてきたスウィフトの評価に対する分析はなるほどと納得できます。
『ビジュアル版』はいわゆる絵本タイプではなく、細部に至るまで原作に忠実にカラーイラストを起こしたものです。日本語訳に沿う形で各ページが構成されており、4編全てが収録されていますので読み応えもあり、文庫版などではイメージできにくくて理解が進まなかった箇所もよくわかるように構成されています。この日本語訳にはちょっとびっくり。文字数は何分の一かになっているのですが、無駄がなくかつ必要なポイントをもれなく要約している。完全日本語訳とあわせて読むとその完成度の高さに脱帽すること間違いありません。

他にも「あなたの知らないガリバー旅行記」「スフィフト伝」等も参考に読みましたが上記の2冊を特にお奨めしたいと思います。

今月は4名の参加でした。

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優劣に頼らず 対話の糸口を見出せ

尖閣諸島での中国漁船衝突事件に関連して海上保安庁は集中審議を行なう予算委員会への撮影ビデオを提出する方針を固めたことが報道されている。
外交交渉の劣勢を挽回するためには物証を提示して国際世論に訴えることが必要だという判断ではないかと思われる。
よりよい問題解決のためには関係する全ての人達が智恵を発揮し、こうした行動は着実に行なわれるべきだ。

しかし、より大切なのは個々の具体策と共に、人としての理解を進めることではないかと思う。どんなに事実が明白だと思われる出来事であっても、立場が違えば、人は思いも寄らない角度と切り口で自己の主張を展開する。今回のビデオが公開されても「不正に編集された捏造映像だ」くらいのことは即日表明することもあるかなと思う。
多くの人が自己中心的で欺瞞に満ちた主張だと思われるような邪論であっても、本人にしてみれば完璧な理論武装で本気そのもの、ということが多々あるものだ。
今の中国がそうだと言っているわけではないが、今回の日本と中国の対立構図を見ていると現実生活のどこでも起こっているトラブルと全く同質だと思えて仕方がない。

その解決方法は何か。
相手の非を指摘して自身の立場を優位に展開することではなく、相手の置かれた苦しい状況をよくよく理解して対話の糸口を見出すために自らが一歩歩み寄ることではないだろうか。
他人の事例を目の当たりにすると、物事の本質が多少なりともわかるもの。
自身の身の回りで起こっている事案では、理論ではわかっていてもなかなかそのようには行動できない。
実に凡夫という言葉が身につまされる昨今である。

【関連記事】
「悪質な中国漁船」示す狙い…衝突ビデオ提出へ
中国漁船衝突で政府、国会要求あればビデオ提出

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特捜幹部の危機意識の欠落こそが問題だ

大阪特捜部主任検事による証拠捏造疑惑事件。
何が真実なのか、いまだもって判然としない事件だ。
何を思って、何を意図して改ざんしたのか。無意味な行為だという見方が大勢を占めている。
特捜部副部長や部長も同様の見解から、公判に与える影響は全くない幼稚な行為、無意味な行為として無視をすることを決め込んだのではないかと思われるふしもある。
今後の捜査の焦点は、組織的な隠蔽があったかどうかに絞り込まれるのだろう。捜査を行なう最高検は組織犯罪であったかどうかと追及し、特捜部長、副部長は意図はなかったと主張するという構図になっていく。

しかし彼らは根本的に事態の重大性がわかっていない。
確かに事は大して重大でもなく、オタクな検事がやった個人的行為かもしれない。
もしそうであれば早々に公表し当該の検事を処分すべきだった。
なぜならば、最も危惧しなければならないことは

「今回は幼稚な工作だったから相手にさえされなかった。
 しかし検察ってところではこんな証拠捏造が他にもあるのではないか。
 今までにも巧妙にやっていて見つかってない証拠捏造があるのでないか。」

という不信感を抱かれてしまうという事態に陥ってしまうことだ。

法の番人の一角を担う検察は、こうした国民からの不信がわずかでも生じることがあってならない。その危機意識が特捜部、そして検察庁そのものに完全に欠落しているのではないか。
国家における三権分立のなかでも司法に関わる者達への信頼は、非常に高い。無条件に信頼している向きもある。制度的には行政組織の中にある検察であるが、刑事訴訟の9割以上が検察の方針通りに結審する日本の法体制における検察なかんずく現場を担う検事の役割は、司法の正義に不可欠絶対と言っても過言ではないだろう。
今回の証拠捏造事件は、そうした国家的国民的信頼を根底から覆す重大な犯罪行為であることを肝に銘じなければならない。

建設は死闘。
破壊は一瞬。

一度芽生えてしまった不信の芽は、そう簡単に摘み取ることはできない。

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これでよいのか 尖閣諸島沖衝突事件拘留中の船長を釈放

那覇地方検察庁は25日未明、公務執行妨害の疑いで逮捕していた中国人船長41歳を処分保留のまま釈放し、中国人船長はそのままチャーター機で日本を離れた。

事件の事実解明が終了していない現時点での対応として、果たしてこれでよいのか。事件発生後の中国政府の対応には大きな疑問が残る。事実関係が判然としない時点での日本への非難声明の発表、観光客の自粛、事実ではないとのコメントもあるがレアアースの輸出停止や、日本経済に打撃を与える意図での円高誘導のための円買い、中国の日系企業への徴税強化の示唆。日本企業社員のスパイ容疑での逮捕拘束に至っては、これが船長逮捕の報復であるとすれば国家的犯罪行為の危惧さえ感じられてしまう。
明らかに中国という巨大国家による強権発動の様子を呈してきていた。

大切なのは事実を正確に掌握して、法律に則って粛々と対処することである。
そのための拘留である。
そのうえで中国人船長が「無罪釈放」ということだってあるわけだ。
それを冷静に待つ姿勢が法治国家としての中国に求められていたはずだ。
日本国政府においては、中国国民の国民感情もわかりつつも、法治国家として毅然と対応しなければならなかった。
国際摩擦を懸念するのであれば逮捕拘留せずに遺憾表明をすればいい。
いったん逮捕拘留したのであれば法律に則って首尾一貫した姿勢を貫くしかない。

大国の恫喝を浴びて態度を豹変させた(かのように殆どの人達に感じさせてしまった)今回の日本の対応は、現在の日本国政府が国際社会においても悪しき病根になり始めているという一端ではないかと危惧するのは、私だけではないはずだ。

今の政治家と政権を選択した日本国民は、政治家としての信念を今一度、問わなければならないと私は強く感じている。
皆さんは今回の事態をどのように感じられたであろうか。

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稲刈り体験

9月20日(月)。今日は敬老の日で祝祭日。
親子三人で稲刈り体験に参加した。
朝7時30分に駅近くの集合場所から貸し切りバスに乗車して出発。
バスに乗り込む地点は全部で3ケ所。
外環と常磐道を経由して茨城県の農家のある地域に向かった。
私達家族は春の田植え体験を経験した友人家族に誘われての参加で今回初めて。参加者は50数名だっただろうか。
貴重な体験でした。
ただプロジェクト全体のマネジメントはいただけない。
参加費をとる企画である以上は最低限の運営は求められてしかるべきである。
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第65回桂冠塾  『若草物語』(L.M.オルコット)

065 8月21日に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本はルイザ・メイ・オルコット作『若草物語』です。

メグ、ジョー、べス、エイミーの四姉妹が成長する姿と、様々と起きてくる出来事が描かれる小説です。
様々な苦難や難問もきっと乗り越えていくだろうという期待を裏切らない物語でもあり、長い時代を経て多くの読者が勇気と希望を得たのだと思います。

物語の舞台は19世紀後半のアメリカ、時は南北戦争時代。、四姉妹の父は黒人奴隷解放の志をもって北軍の従軍牧師として出征。残された女ばかりの一家が慎ましく暮らす一年間描かれます。ちなみに本人達は相当貧しい生活になったと思っているようですが世間から見ればまだまだ余裕のある中流階級の生活を送っているのも事実。このあたりは意図して意識の違いを描いているのか、作者自身が貧しい生活と思っていたのかははっきりしません。

原題となっている「リトル・ウィメン」は、著者の父親が実際に娘たちを呼称するのに用いた言葉。単なる幼い少女ではなく一人の立派な女性であるという意味合いで用いられていたという。第1作と続編においては、聖書や『天路歴程』が姉妹たちの導きの書となっていて、これに関する記述が多々見られる。一家が行うフィランソロピー(慈善活動)もそれらの影響を受けていると考えられる。

『天路歴程』は、イギリスのジョン・バニヤンによる寓意物語であり、プロテスタントの間でよく読まれた宗教書である。プロテスタントの伝導活動においては聖書に次いで翻訳され、アメリカへ移住したピューリタンの多くが愛読していたという。
「破滅の町」に住んでいたChristian(クリスチャン)が、「虚栄の市」や破壊者アポルオンと戦いを繰り広げたのちに「天の都」にたどりつくというストーリーである。

本書は「平凡な一家庭の日常茶飯事」がテーマとされた(新潮文庫「解説」より)とおり、普段の生活で起こりうる出来事が綴られていく。それは少女たちの成長の軌跡であり、当時の社会風潮の描写となっている。また若き世代の時に感じていた率直な視点を思い起こされる出来事も数多くちりばめられている。
その意味では主な読者である青春期を送っている現在の私達にとっても、自然な形で共感できる小説になっている。時代を超えて、人が抱える悩みや思いは普遍的なテーマが多いという表れかもしれない。

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ロマ人送還報道に平和の意識を目覚めさせよ

今月19日、フランス政府が国内に不法滞在していたロマ人93人をルーマニアに送還したことが報じられている。

「ロマ人」という呼称は日本人には馴染みがない。
日本では「ジプシー」と言われることが多いが、その呼称には差別意識が含まれているとして使用しないのが世界的潮流となっている。ロマ人自身が開催した1971年の第1回ロマ民族世界会議で「ロマ」を民族の自称と決定しているという経緯がある。
「ロマ」とは彼らの言語で「人間」を意味する「ロム」の複数形である。
西暦1000年頃にインドに住んでいた民族が移動生活を始めたのが起源といわれているが確たる検証はなされていない。その後14世紀から19世紀にかけて現在のルーマニアの地域で奴隷として非人間的扱いを受け続けるなど14世紀頃には民族間の迫害を受けていた歴史が残っており、現在に至るまで少数民族の衰亡の歴史を刻み続けている。

様々な文学作品にも「ジプシー」の呼称で登場するロマ人。
様々な楽器演奏をしたり、動物を操って見世物小屋を開いたり魔術を使った見世物でお金を取ったり...。怪しげな雰囲気を醸し出しつつも自由奔放で各地の文化圏を交流する自由人のように描かれているイメージが強い。
※そもそも「ジプシー」と呼ばれる人達の主なルーツが一つなのか複数民族の総称なのかということさえ学術的には明確にはなっていない。

しかし歴史が語る事実は、迫害と貧困そのものである。
早い時期から「同化政策」の対象となり、ナチス・ドイツ政権下においてはユダヤ人と同様に熾烈な迫害を受け、多くの同胞の生命が失われていった。戦後保障にあってはユダヤ人よりも不利な状況下に置かれ続けている。
その後もユーゴスラビア紛争、コソボ紛争などでもロマ人が迫害の対象となるなど、民族同化等の大義名分の下で行なわれた民族差別はソ連、スイスなどヨーロッパ全域に根強く残っているといわれている。

現在、ドイツやユーゴスラビアやハンガリーなど一部の国で少数民族として保護政策を受けているが、ロマ人居住地区の極貧生活は海外メディアではたびたび報じられており、その凄惨な状況は今も続いているのではないだろうか。

このあたりのことは日本ではほとんど認知されていない。日本人が「民族意識の薄い民族」といわれる一面かもしれない。
今回のロマ人送還報道のみでは詳細はわからないが、そもそもフランス国内に93人もの人数で不法滞在することになった経緯を推測すると、問題は根深いと思わざるを得ない。
戦後65年を迎えた日本。
私達に少しでも真の平和を志向する気持ちがあるのであれば、知らずに過ごしてきた世界の歴史に目を向けることが必要ではないかと痛感するのである。

【関連記事】
仏に不法滞在のロマ人93人、ルーマニアへ送還(読売新聞)
ロマ人(ウィキペディア)
日本人には疎い「民族問題」(JANJAN)

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片品村 訪問

8月3~4日で群馬県片品村に行ってきました。
今回の主な目的はNPO法人設立の意向と地元関係者との懇談、NPO設立後の事業展開の候補地の視察です。
初日にトマト栽培を続けてきた農家の方のお宅を訪問。
自宅にあげさせていただいて、もぎたてのトマトをいただきながら片品でのトマト栽培の歴史、御苦労話、現在のトレンド等をお聞きしました。
昼食は民宿「みやま」で。ここの手料理の食事は前回訪問に続いて2回目。本当においしいです。
その後村内を視察して夕刻に村役場に。担当課長、村長と種々意見交換をして逗留宿の民宿「千明山荘」へ。民宿所通のグランドや周辺の畑や雑木林を散策したあと、夜更けるまで貴重な懇談の機会をもつことができました。

今回の訪村目的のひとつである事業展開の候補地の視察。
まだまだ人間関係作りがこれから...という段階ですが後世に残し続けたいと思う自然と人間との共生の空間が広がる地域です。
そうした地域というのは経済的には過酷な場合も多々あり、片品村が例外というわけでもありません。
次回訪問時はNPO法人設立申請後になると思います。
20100803

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【第64回桂冠塾】『小説吉田学校 第一部 保守本流』(戸川猪佐武)

064_2 第64回となる桂冠塾(読書会)を7月17日(土)に開催しました。
今回の本は戸川猪佐武著『吉田学校』。その第一部「保守本流」です。

本書『吉田学校』は日本の戦後政治の巨人とも言われた吉田茂を取り巻く政治を描いたノンフィクション小説である。読売新聞社政治部の記者として活躍した戸川猪佐武氏の目を通した戦後政治史の軌跡でもある。全8部から構成される本書の中で特に「第一部保守本流」は吉田茂自身を中核に描かれている。

小説は昭和23年10月から始まる。
冒頭から緊迫した展開。GHQ民政局次長ケージスが、次期首班、つまり総理大臣として吉田茂は望ましくないとの干渉を行おうとする衝撃的な場面が繰り広げられる。
このケージスの指令で自由党、民主党をはじめ多くの政治家が暗躍、右往左往の様相を呈する。ケージスの発言はGHQの意思なのか、それとも個人的な見解なのか。GHQの主流なのかそれとも亜流なのか。
自身の権勢を拡大しようとする輩、自分と対抗する領袖を追い落とそうと陰に陽に様々な手が打たれる。権力の魔性の姿そのものが繰り広げられる展開は政治の凄まじさ。

本書を貫くのは党利党略、党人政治家と官僚出身政治家との抗争である。
そこには日本国民のために...という視点など微塵もない。
戸川氏は実に徹底した描き方をしている。昨今の民主党政治を例に引くまでもないが、日本における政治とは連綿と同じことを引きずってきていることを痛感する。
単純な勧善懲悪の構図など全く存在しない。
人としての正義を貫いたら、うまいように利用され逆に追い落とされることは必至。
理想を語る傍から、政敵の追い落としが何の矛盾もなく展開されるのだ。

こうした政治の現実に、日本の多くの政治家は流れに乗って自身の権力欲の具現化に血道を開けてきた。その中で私利私欲を嘗める輩も多くいた。
若き頃の国家と国民を守り救おうとの情熱など、1~2年で変質してしまうことは当然すぎる結果であっただろう。
そんな現実に立ち向かう政治家が、いるのか。
荒れ狂う巨大な濁流に、一本の細い杭を差し込んで、流されてたまるものかと必死にもがき続ける立志の人物よ現れよ!と期待したいのである。

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一定の評価 ダム事業初のガイドライン

前原国土交通大臣が全国各地で行なわれているダム工事が必要かどうかを判断するためのガイドラインを発表した。

初めての試みということで、一定の評価をしたい。
国家政府として判断基準の項目を示すことは必要なことである。

しかしその内容はといえば充分なものではない。
報道によるしか知るすべはないが、「できる限りダムに頼らない治水を考える」という大前提のもので
・ダムに変わる対策案を複数考える。
・ダムを造った場合との比較を8項目で比較する。
・比較はイニシャルだけではなくランニングコストを重視する。
・評価は工事主体となってきた国の出先機関や都道府県が、みずから行なう。
等としている。

関西大学の河田教授は、ダム事業の見直しを地方がみずから検討することの難しさについて、「自治体は今まで検討をした経験がなく、下流側と上流側、右岸側と左岸側は利害が対立するので、調整ルールを作る必要がある。それに多くの時間がかかるのではないか」と指摘している。
ガイドラインの決めることはもちろん必要であるが、さらに重要なことはその個々の項目における判断基準である。
総論のみで終わる危険が感じられてならない。

またダム建設は個々の事情が異なるため、検討結果を提出する期限は設けないと発表された。
これも少し変な話だ。
個々の事情が異なるのであれば84のダム事業ひとつひとつに異なる提出期限を決めればよいのであって、期限を設けないということの理由にはならない。

建設省は一般の人からの意見を聞き、来月末にもダムの必要性を判断するためのガイドラインを正式にまとめて地方に検討を要請するとしている。
今後の推移を厳正に注視していきたい。

【関連記事】
ダム事業に初のガイドライン(NHKニュース)

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【ご案内】エクセルギーハウス オープンハウス見学会(2010年7月)

先日、株式会社アルキテクタ(社長:黒岩哲彦さん)からエクセルギーハウス・オープンハウス見学会のご案内をいただいた。
このところ多忙にかまけてしまい、なかなか連絡も取れないままでwobbly
前回のオープンハウスに参加したのがかれこれ3年近く前...
その後の技術革新も進んでいるとも聞き、近々事務所に伺いたいと思っていたところに今回のオープンハウスのご案内。なんとか時間を遣り繰りして現地に行きたいと思っております。
いただいた案内の内容を掲載します。
ご興味のある方は一度足を運んでみてください。
政府が進める新エネルギー政策とは違った、庶民生活に密着した、さらに一歩も二歩も先を進む「エクセルギー」に大いに共感していただけるものと信じております。

☆★ エクセルギーハウス《多摩》オ-プンハウスのご案内 ★☆

この度、下記の日程にてエクセルギーハウス《多摩》のオープンハウスを開催
いたします。ぜひ現地にお出かけいただき、夏のエクセルギーハウスを体感し
てください。
なお、1つの回に参加者が集中してご迷惑をおかけしないよう、予約制にさせ
ていただきますことをご了承ください。

開催日時 
◆7月17日(土曜日)  
     ・第1回  午前9時30分  ~  午前11時
     ・第2回  午前11時30分  ~  午後1時
     ・第3回  午後1時30分  ~  午後3時
◆7月18日(日曜日)  
     ・第1回  午前9時30分  ~  午前11時
     ・第2回  午前11時30分  ~  午後1時
     ・第3回  午後1時30分  ~  午後3時
                      エクセルギーハウス推進本部

現地案内  京王線聖蹟桜ヶ丘駅東口より 徒歩14分 
        *予約申込みいただいた折、案内図を送付いたします。  
参考ブログ  「エクセルギーハウスの現場を監理する」
            http://exhouse.blog69.fc2.com/
申込み・連絡先
(株)アルキクタ  担当:しばた
東京都三鷹市井口3-18-53-301
℡:0422-31-3761 Fax:0422-31-3794
メール arck@nifty.com

【関連リンク】
エクセルギーハウス推進本部 「地球のいきものたちとして」
エクセルギーハウスの現場を監理する(←おすすめですflair
【前回参加したオープンハウスの様子】
エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(1)
エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(2)
エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(3)

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